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2020年8月15日 (土)

終わらない戦

今日も暑い、いや、今日は熱いですね💦

お朝事中に意識が遠のきました。

ここ数年の夏の暑さは記録的だと、天気予報では言います。

けれど、終戦の夏も暑かったと聞きます。

終戦の夏の、実際の暑さは分かりません。

けれど、原爆が投下され、被ばくされた人びとのお話をお聞きしたり、史料や資料を読んだり、原爆資料館に行って記録を読んだりすると、1945年の夏の、異常な暑さに思い至ります。

南無阿弥陀仏

 ☆

2500年ほど前、仏陀が教えを説かれました。

それから(それ以前から) こんにち に至るまで、地球上で争いのやんだ時代(とき)はありません。

「仏教が説かれながら(宗教がありながら)、どうして世の中から争いが無くならないのですか?」といった問いをいただくことがあります。

率直な問いだと思います。

仏教は、争いを無くす術(すべ)を説いた教えではありません(争いや災いを無くす術を説く宗教もあるのかもしれませんが)。

「争い」は、人間の「貪り(むさぼり)」や「怒り」の感情のみによって起こるのではありません。

「愛情」や「大切に想う気持ち」もまた、「争い」を起こす種になります。

「貪り」「怒り」「愛情」「大切に想う気持ち」等々、人間は様々な感情や表情を持ちます。

それらの感情は、決してそれぞれ単独のものではなく、すべてが結びついています。

誰かに「愛情」を注ぐ、「大切に想う気持ち」ゆえに、その人のために何かを欲する、何かをしてあげたいと欲する「貪り」の感情が湧きます。

そのために、自分の欲しいものを手に入れたい、けれど手に入らない、邪魔をする人がいる、といったときに「怒り」「憎しみ」の感情が湧いてきます。

仮に、欲するものが手に入ったとき、それを「愛情」を注ぐ人に渡します。

けれど、その人は喜んでくれない、お礼を言ってくれない、他の誰かに渡してしまう、という態度をとったとき、その人を「大切に想う気持ち」は「怒り」へと転化します。

「愛情」を持ちさえしなければ、その人に対する「怒り」も「憎しみも」湧かなかったことでしょう。

「人を愛する気持ちを大切にしましょう」「みんな仲良くしましょう」という言葉は、大切なことですし、そうできれば悩みもありません。

「人を愛する気持ちを大切にしましょう」

 けれど、愛するがゆえに憎悪に転化することがあります。

 家族間・友人間・仲間とのすれちがい・口論・喧嘩・仲たがいなど、誰もが経験済みでしょう。

 でも不思議なもので、それらの争いは、出会っているからこそできることです。

 出会ってもない人と、喧嘩になどなりません。

「みんな仲良くしましょう」

 みんなと仲良くあろうとしても、そこから外れる人は必ずいます。

 「〇〇ファースト」というとき、同時にそこから除外されている人がいます。

 実は、除外されている人の方が多いものです。

さて、ここまで、争いがやむことがない身も蓋もない理由を書いたのではありません。

たとえそれが憎悪に転化することはあろうとも、誰かを愛する、何かを大切に想う気持ちを持つことができることは、とても素晴らしいことです。

誰かの顔が思い浮かぶことって、私を生かすはたらきだと思う。

その気持ち無くして、人間と言えるでしょうか。

でも、悲しいかな、愛憎は表裏一体です。切っても切り離せません。

そのような、複雑に入り組んだ気持ち・感情・表情を持って生きているのが人間(わたし)です。

だからこそ、争いも止まないし、苦悩も尽きない。

争い(憎悪)が止むときというのは、愛することもなくしたときかもしれない。

苦悩がなくなるときというのは、嬉しい・楽しい・今が最高の時だ!という気持ちすら起きないかもしれない。

様々な感情が入り混じり、多くのいのちが混とんとした世の中を生きるとき、私を支える教え(はたらき)がなくては、生きられません。

ひとつ ひとつ の なみだ に背景がある、

ひとり ひとり に あみだ がはたらいてある。

仏教は、阿弥陀のはたらきに支えられてある私を 教えています。

南無阿弥陀仏

 ☆

(追記)

「どうして戦争がなくならないんだろう」と真剣に考えている方にとって、上記の投稿は納得いかないものでしょう。

私は、こんなことを思います。

「平和を、争いのない世の中を望む人はこんなに大勢いるのに、どうしてトイレはこんなに汚されるんだろう」って。

関係ないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、私のなかでは真剣に結びついています。

後の人が使うことも考えずに用を済ませて出てゆく、

こんな状態のトイレに入ったら、自分は嫌な気持ちになるのに、その状態で出てゆく。

他者(ひと)のことに想いを馳せずに、どうして平和を、どうして争いのない世の中を思い描けるのだろう・・・と、外トイレの掃除をするときはいつも考えています。

平和を望むなら、「どうして争いがなくならないんだろう」と口にして他人事として終わってしまうのではなくて、自分が使った後にトイレを使う人がいる・・・ということに想いを馳せることが肝要だと思います。

私以外の人がいる。現在(いま)も、過去も、未来も

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