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2020年8月 3日 (月)

中心地から遠く離れた場所で、文化は生き残る

「東京新聞」〔2020年8月1日(土)朝刊〕 コラム「筆洗」

解説書を手に挑戦した覚えがあるが、難しかったこと以外に思い出せない。西田幾多郎の哲学は、日本の思想の中でも難解な部類に属しているだろう。台湾の李登輝元総統はこれに心酔し、深く理解していただけではない。政治家として出処進退が問われる場面で西田哲学をよりどころにしたのだと語っている▼〈松島や 光と影の 眩(まぶ)しかり〉。10年あまり前、松尾芭蕉ゆかりの松島を訪ねた際の句である。芭蕉が松島で句作していないことに触れて、「私は詠んだ」と周囲を笑わせていた。しみこんだ日本の思想や詩情は日本びいきの域をはるかに超えている。日本人以上とも思わせた人だ▼日本の統治下に生まれ、日本の教育を受けて育った。戦後、台湾の民主化の尽くすことになるが、新渡戸稲造の『武士道』の精神や夏目漱石の「則天去私」の思想などが血肉として生きたと語っている▼明治、大正生まれの日本のエリートとはこのようであったかとも思わせた。最後のエリートであったかもしれない。97歳で、亡くなった▼中心地から遠く離れた場所で、文化は生き残ることがあるだろう。戦前の日本の価値に対して、否定や批判の波が及ばなかった台湾から、日本をずっと見詰めてきた▼何を捨て、何を変えてきたのか。戦後の日本にとっては、鏡のように思えた人でもある。喪失の思いは、台湾だけではないだろう。

2020年7月30日 台湾の元総統 李登輝氏が亡くなられました。

「親日家として知られている」ことを、各メディアは付しています。けれど、日本の統治下にあった、あるいは日本に限らず、どこどこの国の統治下にあったということは、その統治時代と統治後時代で、まるで別の国に生きているような感覚もあったことと思います。複雑な思い、揺れる思いを抱きながらも、学んだ事柄のなかの真髄に触れ、よりどころとし、生き抜かれた姿を示された方のように感じます。

コラム中の「中心地から遠く離れた場所で、文化は生き残ることがあるだろう。」という一文を読んで、思い返されたことがあります。

1997年9月8・9日 和田稠(わだ・しげし)先生の講義にて(先生81歳のときのお話、かな)

「東本願寺のハワイ別院で、ハワイアン(ハワイ先住民族)の方々にお話をしてきました。通訳の方を通しての話になるのですが、私が日本語で日本の人にお話をしているときよりも、ハワイアンの方々に私の話がすっとしみ込んで行くのを感じました。あぁ、ハワイに真宗門徒が残っている!ということを感じました。ここで、本当の真宗門徒に出遇えるんじゃないかなぁという気がしました。
ハワイに行ったらハワイのことが分かるのではななく、日本のことが見えてきました。同様に、真宗のなかにいたら、真宗がわかるようになるのではなく、真宗がわからなくなっていきます。真宗は聞法会や学習会が多く開かれますが、家が代々真宗だからという真宗門徒だけが集まって有り難がっているだけじゃないかなぁ。
親鸞聖人の教えは、日本人だけのもの、真宗門徒だけのものではない。一切の生きとし生けるもののためのものです」
(私のノートより。一言一句正確に先生の言葉というわけではありません)

和田先生のお話を聞いていて、思いました。
「こうやって机上の勉強しているけれど、それでは得られないことがある。でも、私たち(日本人)はそのことに気づいていなくて、懸命に懸命に、自分の知識のための学びをしている。そういう人に向かってお話をしていても、“あぁ、今、この人たちに、私が話していること、つまり親鸞聖人の教えが伝わっている”という感覚はないのだろうなぁ」と。

「ハワイアンの人びとに教えがしみ込んでいると感じました」言われたとき、先生がとても嬉しそうな顔になったことを覚えています。

親鸞聖人の教えが、時代を経て、場所を変えて、しっかりと伝わっている。親鸞聖人がここにいる!と感じられたのだと思いました。

教えは、言葉は、生き物です。形(言語)を変えて遺ります。伝わっているのであれば、場所が変わるのも当然です。

考えてもみれば、インド・ネパールから始まったゴータマ・シッダールタの教えが、現代ではインドよりも日本において色濃く残っています。

中心地から遠く離れた場所で、文化は生き残る

けれど、発祥の地から文化や思想が失われている、ということでもある。

外国の方を「日本人以上の日本人」という形容をすることがある。その方に対する敬意として、そのように表現するのだろうけど、日本人自身が日本人として大事なことを見失っていませんか?という意味も含まれているように感じます(「日本が優れている」とか「日本人は素晴らしい」などということではなくて)。

「だから〇〇人は」という言い方をしますが、どこに立ってそう言ってるのだろう? と思います。

自分の立脚地を見失って、他者(ひと)に文句を言っていないだろうか。

よりどころとなる大地は、時代を経たところ、遠く離れたところにあるのかもしれない。

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