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2020年7月10日 (金)

人は、いろいろなことばを発する。あんなこと、こんなこと・・・。でも、それらのことばは、根っこの部分でつながっている。

7月の寺報を読んだ方から、感想をいただきました。

蓮如上人の「白骨の御文」と「疫癘の御文」、ただ読んでいると、なかなか受け入れがたいことを書かれているのですが、寺報に書かれている文章を読んで、突き刺さりました。

「白骨の御文」…朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり。

朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。

「疫癘の御文」…疫癘によりて はじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。

(伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。)

これだけ読むと、確かに受け入れがたい文言です。

蓮如上人という人、そのお仕事をちょっとだけでも知っているから読めるのであって、まったく知らない人であったり、お他宗の信者さんだったりしたら、読めないでしょうね。

今月の寺報を書くにあたり、先ずは山門の掲示板に掲示する言葉を選びます。

7月は、その蓮如上人の言葉「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。」にしようと決めました。

で、6月中はその草稿を書くことから始まり、20日頃には書きあがっていました。

で、月末に、寺報の仕上げをしようと読み返したら、その文章がまったくつまらなくて、ゼロから書き直しました。

「仏さまの教えに出会ったものにとって、明日ということはないんだ」という言葉、それはつまり「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」じゃないか!

それはつまり、人の死とは、死因はいろいろあるかもしれないけれど、根本の因は生まれたことにある、ということじゃないか。

そのことを蓮如上人は、「疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり」と仰っているじゃないか!

と、思い至り、ふたつの御文も紹介させていただきました(破棄した文章に、ふたつの御文はなかったんですね💧)。

それとともに思い浮かんだのが、お釈迦さまからの問いかけ「あなたは、あとどれくらい生きられると思いますか?」

「あと何年かは大丈夫だろう」「来年の今頃は、まだ生きてるでしょう」「まだしばらくは生きていられるだろう」と、長さの違いはあれ、「まだ〇〇くらいは生きられる」と考えます。

でもお釈迦さまは、「今吸った息が、出なくなったら終わりのいのちですよ」と説きます。

蓮如上人も、お釈迦さまのそのお話は知っていたのではないでしょうか。(知らなかったかな💧 本当のところは分かりませんが)

だから、「まだ生きられるいのち」ではなく、「今日限り(今この瞬間)のいのち」「死ぬのは、生きているから(生まれてきたから)こそ」という想いが湧いて出たのだと思います。

紹介した蓮如上人のふたつの御文は、蓮如上人自身の いのちの受けとめです。

お釈迦さまの説教をはじめ、法話は、語り手だけでは成り立ちません。

聞き手(受け止め手)がいてこそ、説教であり、説法です。

蓮如上人は、お釈迦さまの時代から時を経て、お釈迦さまの説教の聞き手(受け止め手)となり、御文の筆を執られました。

私も私なりに、蓮如上人の言葉と御文とにらめっこして、感じたことを書きました。

そして、私(白山)の書いた文章を通して、今までは受け入れ難かった「御文」が自分の中に突き刺さったという感想をいただき、とても嬉しく思いました(私の書いたこと、私の思ったことが、正しい!という意味ではなくて)。

 ☆

さて、受け入れがたい言葉という意味では、蓮如上人も、親鸞聖人も、お釈迦さまが発した言葉にも、受け入れ難い言葉があるのではないでしょうか。

現代で言えば、政治家は、受け入れ難い言葉を発する方の宝庫です。

よくもまぁ、そういうことを言えるなぁということを、あっさりと言ってしまいます。

そこで、政治家(に限らないけれど)の失言を取り上げて、報道やSNS上でバッシングが起きます。

バッシングは起きてしかるべきですが、失言(とされる発言)を取り消してお詫びするように迫るのは、ちょっと違うなぁと思っています。

発言は、その方の知識・思想・交友関係などから湧いて出てくるものです。

つまり、その人自身です。

それを聞いた者は、失言とされる発言を取り下げさせるのではなくて、「この人は、こういう考え方をする人なんだ」ということを覚えておけばいいのだと思います。

それが、次の選挙で結果として表われるのですから(いや、表われないか💦)。

それに、「発言を取り消せ!」と言って、取り消して謝罪するために出てきたのかなぁと思ったら、

「私の発言によって不快な思いをさせてしまいましたら、お詫びします」って、発言のどこがいけなかったかを省みてのお詫びではなくて、「もし不快な思いをする人がいたのなら(そんな人いるんですか?)お詫びしておきます」ということを言いだす始末。

あるいは、「発言の一部だけ抜き出して批判するのはやめてください。言ったことの全てを読んでいただければ、あなたたちが言うような問題発言ではないことを分かっていただけますから」って、発言のすべてを読んだら(聞いたら)、もっと問題があるじゃないか!という発言もあったりします。

確かに、その人の そのときの発言・コメントを全部読む(聞く)ことは大切です。

新聞やネットニュースで知りうる発言・コメントは、一部抜粋です。

でも、現代は、発言の全体が動画で見られたり、全文を文章に起こしてくださる方もいます。

全文や、あるいはその人の普段からの発言を知ることをせず、一部抜粋の言葉でもって叩くのは、とても危険です。

たとえば、〇さんはAという思想・信条・理想などを持っていたとします。

Aの大切さを訴えるために、「今の世の中Aが大事です」「〇〇の成功のためにはAしかありません」「Aでもって、世のなかを良くしていきましょう!」と、Aを連呼して訴える場合もあります。

けれど、「Bでは、どこどこがダメなのです」「Bでは成功はありえません」「Bが世の中に最悪をもたらすのは目に見えています」と、Aとは違うBを否定することによって、Aの良さを引き立てる言い方もあります。

でも、後者は、Aの良さを引き立たせる効果があるかもしれませんが、中途半端に聞かれると、Bの良さを言っているようにも聞き取られることがあります。

聞き手の問題もあるものです。

ある先生の法話を聞いた方から「〇〇先生って、こういうこと言ってたんですよ! 見損ないました!」みたいな感想を言われたので、「え、その先生は そんなこと言うはずないのに…」と思って、録音されたものを聞いたら、やはり聞き手の聞き間違いだったことがありました。
先生は、否定の否定で強調する言い方をされていたのですが、聞いた方にとっては、否定した部分しか耳に残らず、「そんなことを言うんだ! 見損なった!」となったのでした。

語る方の責任の重大さは当然のことですが、聞く方も真剣に聞かなければいけません。

 ☆

あ、長くなりました。

蓮如上人も、親鸞聖人も、お釈迦さまも、たくさんのお話を説かれています。

もちろん、中には受け入れ難い表現、耳障りの良くない言葉、「ちょっと何言ってるかわからないんですけど」と思うセリフもあることでしょう。

けれど、そこで拒否感・嫌悪感を抱いて終わってしまうのではなくて、その他の発言・言葉を読むことによって、「あぁ、そういうことを言ってたんだ!」「あぁ、こういう考え方のうえで、こういう言葉を言われたんだ!」「ふ~ん、ああいうつもりで、あのような表現をされたんだなぁ」という気づきがあります。

その人が発する言葉は、根っこでつながっています。

ひとつの言葉、一側面の言葉(私と話すときの言葉)だけで 言葉の意味、発言主の想いを考えるのではなくて、

複数の言葉、他側面への言葉(私以外の人に発した言葉)にも触れて、言葉の意味、発言主の心の奥底に思いを馳せるということが大切なことではないでしょうか。

7月の寺報の感想をいただき、お風呂に入りながら、上記のようなことを思い巡らせていました。

南無阿弥陀仏

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