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2020年7月14日 (火)

ことばは、こころが花開いたもの

お盆の二日目を迎えました。

朝の掃除を終えると、電話が鳴りました。

昨日お参りに見えた方からの電話でした。

「昨日お参りさせていただいて、本堂の前の掲示板を見たんです。そのときは、書いてあることが分からなくて、写真を撮って帰りました。で、それからずっと考えているんですけど、お寺さんに聞いちゃえ!と思って電話しました」

本堂前の掲示板には、

「“私は正しい”という心が 善意という衣を纏(まと)っている」

「地獄への道は 善意で敷き詰められている」

という言葉が掲示されています。

その内容については、6月26日のブログで触れています。

確かに、普通に読んだら「?」な言葉かもしれません。

でも、「なにおかしなこと書いてるの?」「よく分からないから いいや」と、言葉とお別れしてしまうのではなく、一日かけて書いてあることの意味をたずねられるなんて、とても素晴らしいことです。

その言葉の意味や背景を熟考して、「こういうことを言おうとしているんじゃないかな?」「今まで自分はこういう考え方をしていたけれど、そういう考え方もあるなぁ」と想えたならば、そこに花が咲いたようなものです。

「ことば こころのはな」 このブログや寺報につけているタイトルです。

“ことば”というものは、“こころ”が花開いたもの。

自分のこころと向き合って、自分を飾らずに想いを表現する。こころのはなが、ことばという形で咲きました。

そのようなイメージで、タイトルをつけました。

本堂前の掲示板のことばを見て(読んで)、自分の頭の中で(こころの中で)考える。

自分なりに、いろんなことを想ったことと思います。

昨晩、いくつもの花が咲いたことでしょう。

そういえば、お電話をいただいた〇〇さんは、草木染をされている方でした。

頭の中(こころの中で)熟考して想ったこと(咲いたはな)は、〇〇さんの人生を表現した色として表われ出たものと思います。

言葉を大切にしていただいて、ありがとうございます(‐人‐)

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