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2020年7月25日 (土)

人間はおるか

2020年7月22・23・24日のブログを書いていて、“いのちの線引きをしている私”ということを感じていました。

昨日のブログを書き終え、床に就く前に、積読(つんどく)状態だった「ともしび」(2019年9月号 真宗大谷派教学研究所発行)を手に取りました。

佐野明弘先生(石川県光闡坊)の法話 「衆生減尽ー本当に私たちは人間として生きえているのかー」が掲載されています。

読んで驚きました。今書き終えた3日間のブログに呼応するかのような内容だったからです。

 約二年前、NHkの「ハートネット」という番組で、東京大学の学生が自主グループをつくって、障害の真実に迫るという放送がありました。その中で、生まれてから一度も自分の足で歩くことができず、車イスで生活している方に質問する場面がありました。それは、「足が治る薬が開発されたら使いますか」というものでした。
 私にも、あちこち痛んでいるところがありますので、「使いますか」と言われたら、「私は使いたい」と答えるという程度の発想だったわけですが、その車イスに乗った方は「その質問は、歩けない人は、やはりこの世にいない方がいいんだというご質問ですね」というように答えられました。ドキッとする言葉です。
 相模原のやまゆり園で起きた事件から二年半が経ちます。被告の植松氏は、重度重複障害のある自己認識能力もなくなった方々を、人間であることが崩壊した「心失者」だと言いました。だから、本人もそのような状態から解放させ、周りの者も介護による生活の圧迫から解放させ、そしてそこにつぎ込まれる莫大な国家財政の危機を救うためにも彼らを安楽死させるのが一番いいと考え、国にそういう手紙を出したわけです。そしてその手紙の五ヵ月後に、自ら実行に及び、19人を殺害しました。
 彼は、犯行後「私は人を殺していません」と言い続けているそうです。要するに、彼の考える人間というものの範疇から外れているということです。障害があって生まれてくることは必ず不幸であり、この社会にとっても不幸しか生まないから存在すべきではないと考えているのです。
 そう聞くと、彼は一般の日常意識からは乖離した異常な発想をする人だと思えます。しかし、私たちが何を喜びとして生き、何に生きていることの意味を見出しているのかと問われれば、何かができることであり、人の役に立つことであるということが圧倒的に多いのではないでしょうか。ならば、何かができなくなるということは、存在価値がなくなっていく、生きている意味がなくなっていくことになります。
 こういう発想が私たちの日常的な意識の中にあります。目が見えないのは嫌だ、病は嫌だというような当たり前の発想が、特定の人を排除する発想につながっているのです。障害のない身体を自分にも子どもにも望むのは、優生思想的発想です。
 実際に戦後、障害のある方々が子どもを産めないようにする強制的な不妊の手術を、分かっているだけで3500人以上にしてきたのです。これも、私たちの日常意識から乖離したものではなく、日常意識に地続きになっているものなのです。

(「ともしび」4頁下段~5頁上段 2019年1月20日のお話)

新型コロナウイルスの感染者がここに来て急激に増えている。もはや(初めからなのだが)他人事ではない。

にもかかわらず、コロナ罹患者は何かしら落ち度があった、自業自得だ、油断があったなどと、罪でも犯したかのような目で見ている。

そのような、罹患していない私は素晴らしくて、罹った人は落ち度があったという見方も、優生思想の表われと言えるだろう。

あからさまな優生思想でなくとも、私の中に優生思想が根付いている。

そのことに無自覚に生きている恐怖。

「このなかに人間はおるか」「人間がおらん」

私は、本当に人間として生きえているのでしょうか。

このタイミングで読むことが出来るなんて、「あなた、今こそ読みなさい」という声と共に、私の手元にあったような気がします。

南無阿弥陀仏

興奮状態に陥り、昨晩はなかなか寝付けませんでした。

※「ともしび」ご希望の方は、こちら「しんらん交流館 教学研究所 発行部一覧」をご覧ください。

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