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2020年7月 1日 (水)

2020年7月のことば

2020年も後半に入りました。
外出自粛期間中、「今日はこれをやった!」と言えることを必ずやろう!と決めて過ごしていました。
仕事、片付け、大工仕事、子どもたちと目いっぱい遊ぶことなど、必ず何かやりながら過ごしていたのですが、さて、振り返ってみるといったい何をやっていたのやら・・・。
明日ということのない教えをいただきながら、「明日があるさ」な生き方をしていることの落ち着かなさよ。

雨もしっかりと降って、じめじめした日が続きます。けれど、この雨が通り過ぎると、暑くなるそうな。おからだお大事にお過ごしください。
南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

2020年7月のことば(以下、寺報「ことば こころのはな」7月号の文章です。)

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仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。
       
蓮如上人(『蓮如上人御一代記聞書』より)

 

蓮如上人の「御文(おふみ…お手紙)」

浄土真宗の宗祖親鸞聖人から数えて第8代目の蓮如上人。上人は、親鸞聖人の教えを人々に伝えるために、250通を超える「御文」を綴られました。有名な「白骨の御文」も、蓮如上人の筆です。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生 すぎやすし。いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり。(後略)

(試訳)さて、私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、まるで幻のような一生であります。この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生はあっという間に過ぎてゆくものです。いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。ということは、朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。(以上)

また、「疫癘(えきれい)の御文」と呼ばれるお手紙も書かれています。

当時このごろ、ことのほかに疫癘とて ひと死去す。これさらに疫癘によりて はじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

(試訳)近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。このことは決して、伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。さほど驚くことではありません。(以上)

問われている私

蓮如上人(1415~1499)自身も、延徳4(1492)年、上人78歳のときに疫病の流行を経験しています。病による苦しみだけではなく、現代(いま)の私たちと同様に、限りある食料や物資を奪い合い傷つけあう人間社会の苦しみを目の当たりにしました。

また、1467~1478年の「応仁の乱」の世も生きています。主戦場となり、焼け野原となった京の町の様子も見聞きしたのではないでしょうか。欲望から起こる争いが更なる貪り(むさぼり)や怒りを生み、争いに巻き込まれた人々までもが傷つき、飢え、死んでいく世に身を置かれました。

そのような時代に身を置き、人間の姿を凝視された蓮如上人。ただ単に道理として「朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです」とか「人と生まれたときから死ぬということは定まっております」などと言われたわけではありません。

「明日は何をしよう」「コロナが収束したら何をしよう」と考えている私に向かい、「あなたは“今”を生きていますか?」と、上人は問いかけています。

仏法の事は、いそげいそげ

仏法には、明日と申す事、あるまじく候」とは、「お釈迦さまの教えをいただいている身にとって、明日ということはありません」ということです。

仏法には、明日と申す事、あるまじく候。」に続いて「仏法の事は、いそげいそげ。」と上人は説きます。

コロナ禍の渦中、「不要不急の外出は控えるように」と、外出自粛要請が出されました。仏法聴聞の会も、多くのお寺が中止を余儀なくされました。明日とも知れぬいのちを生きているのですから、「仏法聴聞の事は、いそげいそげ」のはずなのに、人の集まる場を開けないという矛盾と葛藤を抱えながらのステイホーム期間でした。

けれど、矛盾と葛藤に覆われるなか、「誰もが“今”を生きている」ということを、ふと思いました。

「きょうともしらず、あすともしらず」のいのちを、誰もが生きています。誰もが、いつ亡くなっても不思議はない いのちを生きているのだけれど、若くして亡くなったり、才能ある方が亡くなったりすると、「まだ早いよ」などと、その人の死を嘆きます。年齢という尺度でいのちを計れば、当然嘆きも出てきます。

けれど、たとえば1秒の長さは誰にとっても同じです。才能ある方の1秒は短くて、無駄に過ごしている人の1秒は長くて・・・などということはありません。誰もが同じ1秒を生きています。

お釈迦さまは、「いのちというのは、吸った息が出るのを待たないほどの長さでしかありません。阿吽(あうん)の呼吸のいのちです」と説かれました。

阿吽の呼吸は、短い時間のように感じますが、いのちの営みが続いてきたことに想いを馳せると、とても永い時間でもあります。

私のいのちのなかに無数のいのちがあり、無数のいのちのなかのほんの一点が私です。「阿吽」は、とても短い時間でありながら、いのちの悠久の流れが内包されています。

そんな途方もない時間や空間を、なんの道案内もなく、私は生きられるでしょうか。いえ、阿弥陀如来の大悲というはたらきに導かれながら、今を生きています。阿吽の一息一息は、南無阿弥陀仏のお念仏。

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7月は、スヌーピーとカメとアヒルです(^-^)Dsc_5072

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