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2020年7月26日 (日)

いのちが語る

『anjali(アンジャリ)』(真宗大谷派 親鸞仏教センター発行)39号(2020年7月号)より

いのちを語る、いのちが語る
   安藤泰至(鳥取大学医学部准教授)

(前略)

私のいのちは私のものか?
 昨年7月、筆者は『安楽死。尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット)という本を上梓した。そのなかで筆者は、「自分のいのちは自分のもの」というのはある種のフィクションである、と述べた。フィクションというのは事実に反する「嘘」とは違って、現実の一部を拡大してわかりやすく描いたものであり、ある場面では有用である。医療において患者の「自己決定権」ということが叫ばれるように、私たちが医師や家族に勝手に自分の治療について決められてしまわないためには、「私のいのちは私のもの」と主張することはある程度必要である。しかし、現在の日本では認められていないような安楽死(医師が患者に致死薬を注射する積極的安楽死、および医師が致死薬を処方し患者がそれを飲んで死ぬ医師幇助自殺)を肯定するときに、「死の自己決定権」というものを持ち出すのは、筆者にはこのフィクションの濫用に思える。
 人の死とは、本人がコントロールすべきものでも、できるものでもなく、むしろこれまでに述べてきた「いのち」の出来事そのものなのではないか。かつて、哲学者ガブリエル・マルセルは人が取り組むべき「問い」を、人が外側からそれを分析して客観的に答えを与えることができるような「問題」と、人がその外側に出ることはできず、その問い自体を生きる以外に応答のしようがない「神秘」とに分けたが、人間の死とはまさにこの「神秘」に当たるものではないか。私たちはそれを解決することはできず、それに立ち会い、それに学ぶしかないのではないか。

「いのち」が語る
 「いのちを大切にしなさい」。「いのちほど尊いものはない」。私たちはこうした言葉を浴びるほど聞かされてきた。もちろんこうした言葉が繰り返し語られる背景には、現代における「いのち」の危機があることは承知している。しかし、残念ながらこういった言葉が本当に「いのち」に飢えている人たちにはほとんど届かないというのも確かだ。「いのち」という言葉が使われることで、かえってある種の安心と思考停止を起こし、「いのち」が自覚されないまま、「いのち」という言葉だけが溢れてインフレーションを起こしているともいえる。
 ある生命倫理研究者が大学の講義で、「生かされている」という言葉の意味を尋ねたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」と書いたという話を聞いたことがある。このような世界のなかで大事なのは、私たちが「いのち」について考えるというよりは、何よりも「いのち」の出来事に向き合い、そこに耳を澄ませ、そこから学ぶということではないだろうか。そのとき、私たちが「いのち」を語るのではない。「いのち」が語り、私たちに語りかけるのだ。

 ☆

昨日書いた「ともしび」も積読(つんどく)状態だったのですが、上記の『アンジャリ』も積読状態でした。

たまたま手にしてパラパラめくっていたら、あ、『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』を書かれた安藤先生の文章が載ってる‼と思い、読み始めました。

「いのち」について考えるということは、その時点で人間の意図・恣意・気分が反映されてしまいます。

楽しい! 頑張ったことが報われた! 生きていてよかった! などと思える時は、いのちの尊さ・大切さも口にできます。

けれど、

悲しい! 何をやってもうまくいかない! 生きることに意味が見いだせない! などと考えるときは、いのちの尊さ・大切さも感じられません。

それは、誰もが通る道であり、誰もが繰り返している感情です。

「いのち」について考えることは大切なことですが、答えはありません。

けれど、「いのち」について考えているうちに、「いのち」から私が問われてくるときがあります。

「いのち」に問われながら生きていたんだなぁと気づくときがあります。

生きているなかで出会う出来事に、意味を求めるけれど、そもそも意味などありません。

その答えも、その意味も、私の思いが紡ぎ出したもの、その時々でかわるものなのですから。

だから、「いのちについて考える」とは、ガブリエル・マルセルの言葉を借りるならば、「問題」ではなく「神秘」ということ。

出来事をとおして、嬉しくて高ぶる感情や、悲しくて重く沈んだ感情を経験し、私のなかの「いのち」に触れるときがある。

「いのち」の問題を解くのではなく、「いのち」という神秘を「いのち」から問われている。

(この「神秘」とは、「スピリチュアル」というようなことではなくて、人間の知恵を超えたもの。つまり、無量寿・無量光、不可思議ということ。)

「いのち」に触れ、向き合い、耳を澄ませる。

それが、いのちを生きるということ。

そこに、答えも、意味もない。

ただ耳を澄ませる。

ただ南無阿弥陀仏

 ☆

あらためて、『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』を本棚から出して読み返しました。

「おわりにー「死について考える」とはどういうことか?」にこう書かれていました。

本当に「死」について考えるということは、そうした(自分で思い描くような)「絵に描いた死」を考えることではなく、むしろ自分がどのように生きるか、どのように「いのち」に向き合うのかを考えることにあるのではないだろうか。

 ☆

リンク

〇「アンジャリ」39号・・・「親鸞仏教センター

〇『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』・・・「岩波ブックレット

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コメント

大変ご無沙汰しております。

名古屋に単身赴任しております。法座がぜんぶ中止になってしまっています。そんななか、

https://www.youtube.com/watch?v=rYPSiUeELSE&feature=youtu.be

を聞かせていただきました。

ご自愛ください

☆HikkenDokugoさん お久しぶりです
どうされているかなぁと思ってました。
名古屋へ単身赴任でしたか!? ご苦労様です。
どこも、法座は中止ですね。
動画聴聞、有り難うございます(‐人‐)
HikkenDokugoさんもご自愛のほどを☆

名古屋は法座の多いところなのですが、全部中止になってしまいがっかりしています。仕方のないことですが。3月3日の三河別院の報恩講も内勤めになってしまい、一般参詣者なしに。(名古屋別院の報恩講は12月14~15日でしたのでお参りできましたが…)

☆HikkenDokugoさん
只今、どこもかしこも、どのように法をお伝えしていけるか、試行錯誤の段階です。
報恩講もお勤めしたいのですが、どのようになるか分かりません。
仏法聴聞は要・急のことですが、成し得ないもどかしさの渦中にあります。

そんな思いから、せめて文章ででもと思い、3月からブログを書き続けています。

南無阿弥陀仏

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