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2020年7月31日 (金)

絶望の淵に立たされたとき、ふと思い起こされる言葉がある。言葉は、人と人とのつながりのなかから生まれる。

『人と生まれて』宮城顗(みやぎ・しずか) 同朋選書㉜(東本願寺出版 2005年4月1日 第1刷発行)

 新潟の方でいつも研修会などでご一緒した方がおいでになりまして、数年前にその方から急にお電話がかかってきました。今までお電話をいただいたということはなかったのですけれども、何事だろうかと思っていましたら、「実は今日お医者さんから私の病気は面倒な病気だと宣告を受けました」ということなのです。
 「どういうご病気ですか」と聞きましたら、「筋萎縮性側索硬化症」という、全身の筋肉が力を失っていく病気であるとのことでした。
 「そのうち電話もかけたくてもかけられなくなりますので、今のうちにお別れのご挨拶をさせていただきたいと思って電話をしました。お医者さんからその病名を聞かされたときには、本当に絶望の淵にたたき込まれました。だけどその絶望の淵にたたき込まれた後、ふと普段全く思いもしなかった和讃の言葉が心に浮かんできました。そしてその和讃の言葉が何か私を支えてくれました。そのとき、私には帰るところがあったという思いが強くしたのです。やはり普段から読ませていただくべきものなのですね」とおっしゃっていました。
 その方にとって和讃を自分が覚えているとも心に刻んでいるとも思っておられなかったのです。そんな言葉よりも自分が一生懸命自分の才覚で身につけた言葉を頼りに生きていた。しかしそういう絶望の淵にたたき込まれたときに、一生懸命自分の才覚で身につけたことが全部消えて役に立たない。しかし思いもかけないことに自分を捉(とら)えていた言葉が私の心を動かしてくれたのですということをおっしゃいました。

 今日、言葉の響きというものに対するこまやかな心を私どもが失い、さらにはともにお互いの存在をキャッチボールし合うという心を失い、ましてや長い歴史を通して、多くの人々の歩みの全体が、実はこの私に呼びかけられていたものとしてうなずくことなど、非常に遠いことになってしまっています。それは結局人間がみんなばらばらな孤独な存在になっていく大きな原因になるのではないでしょうか。

 ☆

7月22日「自殺報道ガイドライン」のタイトルで投稿してから、私のなかで続き物としての文章を綴っています。

このコロナ禍、誰もが病気になる身を生きているにもかかわらず、新型コロナウイルスに感染した人に対する、感染していない者からのバッシングが狂気を帯びていることに違和感や恐怖をいだいたことから始まっています。

そんななか、自死された方への興味本位な報道がありました。

覚醒剤取締法違反の罪を犯した人への愛想を尽かしたかのような文言が目につきました。覚せい剤であれ、お酒であれ、タバコであれ、ギャンブルであれ、依存するこころというものは誰のなかにもあります(私がこうやって文章書いて気持ちを整理しているのも、依存と言えるかもしれません)。「あの人またやってるの。懲りないねぇ」と、言うは易いですが、何かに依存してしまうということは、今抱えている何かを発散しようとしている、あるいは助けを求める術を依存という形でしか見いだせなかったということの表われです。依存している人を責めるだけで終わる話ではありません。

人と人とが支え合わねばならない時代(とき)に、人が他者(ひと)を貶(おとし)めたり、罵(ののし)ったり、認めなかったりする。

その空気感が強まっているなかで、ALS患者の女性への嘱託殺人が行われたことのショック。

しかも、嘱託殺人を犯したふたりの医師に対する擁護や、「医師がしたことの何が悪いのか分からない」という声も耳にする。

2016年7月に、植松聖死刑囚が「津久井やまゆり園」で起こした事件も、「植松被告の言うこと(犯罪理由)は理解できる」という声が巷にあふれた。

私たちが今生きている場の雰囲気が、とんでもないことになっている。そういうことを感じる。

不思議なもので、そういうことを気にしていると、関連する言葉が絡みついてくる。

何年も前に読んだ本を、本のタイトルが気になってたまたま手にした(ということは、中身はほとんど忘れているわけで・・・)。

すると、上記の文章に出遇いました。

ALSの宣告を受けた聞法者が、恐らく必死な思いで宮城先生に電話をかけたことと思います。

そして、「助けてください」と懇願するのではなく、「今まで聴聞してきたけれど、自分がここが大切だとメモしてきたことは、こんな大変なときには役にたたず、でも、今まで気にも留めていなかった親鸞聖人のご和讃が脳裏に蘇ってきました」というようなことを告白されたのではないかと、察します。

困難にぶち当たったとき、思い起こす言葉は、普段座右の銘にしている言葉ではありません(そういう人もいるとは思いますが)。

ふと思い起こす本の一節、昔読んだマンガの台詞、今は聞かなくなった歌のフレーズ、疎遠になっている友人からかつて言われた一言、どこで目に触れたかも思い出せないポスターの文言・・・

絶望の淵で思い起こされるのは、そんな一言だったりする。

そんな一言に、フラフラになった私は、支えられ、生きてきた、生きている。

岩崎航さんの言葉 「生きることと、詩は一体のものです。」を紹介しましたが、

岩崎航さんにとって、自分が紡ぐ詩もまた、自分を生かす一言なのだと思います。

詩が生まれて来る背景には、多くの縁(つながり)が内在します。

言葉には、無量の人々の人生が詰まっています。

聞いた瞬間(とき)、目にした瞬間(とき)は、何も感動しなくても、意味が分からなくても、ほんと、何事かあったとき、ふと思い出して、涙が溢れてくる言葉があります。

言葉を大切に、

言葉が生み出されてくる人と人との関係を大事に生きましょう。

南無阿弥陀仏

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