« いのちが語る | トップページ | 自分の生きにくさを、他者に重ね合わせてはいけない »

2020年7月27日 (月)

「させていただきます」考

昨日の投稿で、安藤泰至先生の文章を引用させていただきました

その引用のなかに、

「ある生命倫理研究者が大学の講義で、「生かされている」という言葉の意味を尋ねたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」と書いたという話を聞いたことがある。

という一文がありました。

ほぼ全員の無理矢理生かされている感もショックでしたが、今日触れたいのは「生かされている」という表現について。

そもそも、「生かされている」という表現をしないでしょうか、現代人は。

このブログでは、今まで「さまざまな縁が織りなすなかで、私が私となっています」ということを、いろいろな表現で書いてきました。

つまり、私は生きているのではなく「生かされている」ということです。

浄土真宗の僧侶や門徒は、「生かされている」という言い方をよくします。本当にそう思っているから(と、思う)。

「縁により」「阿弥陀如来により」というのが親鸞聖人の教えの根本だと思います。

そのような「よる」力(はたらき)を、浄土真宗では「他力」と言います。

こんにち一般的に使われる「他人の力を借りる」「他人の力をあてにする」というような意味ではありません。

すべての生きとし生けるものが、阿弥陀如来の慈悲のはたらきを受けながら生きている(つまり、生かされている)。

そのことを「他力」と言います。

そのためか、浄土真宗の僧侶や門徒は「〇〇させていただきます」という言い方を、気取るわけではなく、します。

ですから、私(白山)的には、「〇〇させていただきます」に何の違和感もないのですが、次の文章に出会い、気にかかっている方もいるんだなぁということにも気づかされました。

 ☆

『暮らしの手帳』 2020年初夏号(2020年6‐7月号)

137頁 随筆 「させていただきます」 小澤俊夫(昔ばなし研究者)

 近頃、人々の発する日本語のなかで、「させていただきます」という語尾が非常に多いことが気にかかっている。「述べさせていただきます」「これから会を開かせていただきます」など。
 ある日、電車が動きだすとき、「ドアーを閉めさせていただきます」というアナウンスが流れた。ぼくは仰天した。「発車のとき、ドアーを閉めるのは車掌の仕事ではないか。閉めさせていただきますと言って、もしお客が駄目だと言ったらどうするのだ」と思った。アナウンスは、「ドアーが閉まります」とか、「ドアーを閉めます」と言わなければならないはずだ。「させていただきます」と言って、誰に許可、又は了解を求めているのだろう。電車を運行する方の主体的意思はどこに行ってしまったのか。
 ある日、予算委員会のテレビ中継を見ていたら、野党の質問に対して大臣が、「この点について述べさせていただきます」と言った。大臣は責任上、説明をしなければいけないのであって「させていただきます」ではないはずだ。これは、言葉の丁寧さとは質が違う問題である。
 「させていただきます」と言うとき、人は自分を取り巻く、目に見えない世間を意識しているのではないか。全体の空気というか、全体の雰囲気から離れないように気を使っているのではないか。
 そう考えるから、ぼくはこの言い方がとても気になる。全体の雰囲気が大事で、自分はなるべく目立たないようにする。こういう生き方が世の中に蔓延したら、国の権力者は国民全体を、自分の都合のいい方へ簡単に引っ張っていける。日中戦争・太平洋戦争を開始する前、政府は国民全体が各自の主体的判断を捨てて全体の雰囲気に身を任せるように引っ張っていった。中国は怪しからん、英米はけしからん。そうだ、そうだ。そこではもう、個人の考えはなくなり、全体を支配する考えだけが通用した。
 (後略)

 ☆

なるほど、そういう受け止め方もあるんだなぁと思いました。

確かに、注意して聞いていると、世の中「させていただきます」という言い方が増えているかもしれません。

無意識の自己防衛・自己弁護・責任逃避から。「一応、了解(確認)はとらせていたきましたので・・・」と。

「そこまで委縮しなくていいのに」という思いと、「そこまで委縮させてしまう空気が世の中には溢れているもんねぇ」という思いが湧きました。

でも、それは、他力という感覚の欠如のなせるわざでもあります。

自分の選びで行動を起こしている、自分の責任でもって物事をなしている、自分の意志で生きている・・・そういう感覚は誰しもが持っています。否定するわけではありません。けれど、その感覚に溺れていると、周りの人の理解や協力であったり、周りの人が自分の仕事を後回しにして手伝ってくれていることに無自覚になったり、周りの人が知らないうちに尻拭いしてくれていたり、そういう事実に無自覚で生きることになります。気づいたときにはひとりぼっちです(でも、阿弥陀さまは一緒にいますが)。

自分が意識できる周りの人びとだけでなく、自分では認識できない多くの人びと・物事・事柄と共に縁によって結ばれているわたし。

「させていただきます」表現は、他力感覚(他力の感得)であり、わたしとあなたとあみだと共に生きている自覚でもあります。

つまり、「全体の雰囲気が大事で、自分はなるべく目立たないようにする」つもりはなく、思いっきりの自己表現なのです。「させていただきます」」は。

べつに、小澤俊夫さんの随筆を否定するために語っているのではありません。

「させていただきます」表現に慣れてしまった私が、「おいおい、そこで思考停止に陥ってないか!」という呼びかけとして、小澤さんの文章に出会ったものとして、今日の文章を書いています。

「させていただきます」と言っても、先に私が記したような宗教のバックボーンがあって言うのと、無意識の自己防衛・自己弁護・責任逃避から言うのとでは、言葉のニュアンス・内包された想いがまったく違ってきますね。

先に、「浄土真宗の僧侶・門徒は」という、ちょっといやらしい書き方をしましたが、便宜上そう書いたのであって、すべての僧侶・門徒がそう表現するわけではありません。また、真宗の教えに触れて信心を得たならば「させていただきます」表現をするようになる!ということでもありません。誤解ありませんように。

 ☆

小澤さんの文章にもうなずきつつ・・・

かつて、こんな光景を目の当たりにしました。京王井の頭線渋谷駅。電車発車のブザーとともにドアーが閉まり始めました。そこに、ホームから電車に向かって頭を突っ込んだ初老の男性が。ドアーに頭を挟まれ、発射の準備を止め、一旦すべてのドアが開きました。その男性は、近くにいた駅員に怒鳴りちらします。「電車に乗ろうとしているのに、閉めやがったな!」。
それは、あなたに問題があるのでは💦
こういう乗客が多い世の中、「ドアーを閉めさせていただきます」ぐらいの表現をしておきたくもなりますね。

「会を開かせていただきます」も、確かにそこまで言わなくてもと思います。が、携帯電話が普及して、会や会議や打ち合わせに、当然の如く遅れてくる人が増えたような気がしませんか? 「遅れる、ごめんね」と携帯電話やメールで伝えておけば、遅参が許されるかのように錯覚している人が増えたのではないでしょうか。いや、増えたような気がします。そうすると、参加予定の人がそろっていないけど、予定の時間になったから始めるよ!というときに、「時間になりましたので、会を開かせていただきます」というような表現になってしまうのではないでしょうか。

大臣や政治家が「この点について述べさせていただきます」と言うのも、述べる分にはいいのではないでしょうか。どんどん述べちゃってください。最近は、「発言を控えさせていただきます」などと言って、言うべきこと、言わねばならないことを言わない、勤めも説明も責任も果たさない方が多いので、「私の思いを述べさせていただきます」という政治家は大歓迎です。

小澤さん指摘されるところの「させていただきます」は、その背景には、そのように言わせてしまう現代の負の感覚が蔓延しているように感じます。

「させていただきます」表現に問題があるのではなく、「させていただきます」と言わせてしまう方の人・・・私かもしれません。その自覚や問題意識を持つことが肝要ではないでしょうか。

その無自覚・問題意識に気づかないヒトの集合体こそ、国の思うがままに引っ張られてしまいます。

« いのちが語る | トップページ | 自分の生きにくさを、他者に重ね合わせてはいけない »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« いのちが語る | トップページ | 自分の生きにくさを、他者に重ね合わせてはいけない »

フォト
2021年4月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ