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2020年7月

2020年7月31日 (金)

絶望の淵に立たされたとき、ふと思い起こされる言葉がある。言葉は、人と人とのつながりのなかから生まれる。

『人と生まれて』宮城顗(みやぎ・しずか) 同朋選書㉜(東本願寺出版 2005年4月1日 第1刷発行)

 新潟の方でいつも研修会などでご一緒した方がおいでになりまして、数年前にその方から急にお電話がかかってきました。今までお電話をいただいたということはなかったのですけれども、何事だろうかと思っていましたら、「実は今日お医者さんから私の病気は面倒な病気だと宣告を受けました」ということなのです。
 「どういうご病気ですか」と聞きましたら、「筋萎縮性側索硬化症」という、全身の筋肉が力を失っていく病気であるとのことでした。
 「そのうち電話もかけたくてもかけられなくなりますので、今のうちにお別れのご挨拶をさせていただきたいと思って電話をしました。お医者さんからその病名を聞かされたときには、本当に絶望の淵にたたき込まれました。だけどその絶望の淵にたたき込まれた後、ふと普段全く思いもしなかった和讃の言葉が心に浮かんできました。そしてその和讃の言葉が何か私を支えてくれました。そのとき、私には帰るところがあったという思いが強くしたのです。やはり普段から読ませていただくべきものなのですね」とおっしゃっていました。
 その方にとって和讃を自分が覚えているとも心に刻んでいるとも思っておられなかったのです。そんな言葉よりも自分が一生懸命自分の才覚で身につけた言葉を頼りに生きていた。しかしそういう絶望の淵にたたき込まれたときに、一生懸命自分の才覚で身につけたことが全部消えて役に立たない。しかし思いもかけないことに自分を捉(とら)えていた言葉が私の心を動かしてくれたのですということをおっしゃいました。

 今日、言葉の響きというものに対するこまやかな心を私どもが失い、さらにはともにお互いの存在をキャッチボールし合うという心を失い、ましてや長い歴史を通して、多くの人々の歩みの全体が、実はこの私に呼びかけられていたものとしてうなずくことなど、非常に遠いことになってしまっています。それは結局人間がみんなばらばらな孤独な存在になっていく大きな原因になるのではないでしょうか。

 ☆

7月22日「自殺報道ガイドライン」のタイトルで投稿してから、私のなかで続き物としての文章を綴っています。

このコロナ禍、誰もが病気になる身を生きているにもかかわらず、新型コロナウイルスに感染した人に対する、感染していない者からのバッシングが狂気を帯びていることに違和感や恐怖をいだいたことから始まっています。

そんななか、自死された方への興味本位な報道がありました。

覚醒剤取締法違反の罪を犯した人への愛想を尽かしたかのような文言が目につきました。覚せい剤であれ、お酒であれ、タバコであれ、ギャンブルであれ、依存するこころというものは誰のなかにもあります(私がこうやって文章書いて気持ちを整理しているのも、依存と言えるかもしれません)。「あの人またやってるの。懲りないねぇ」と、言うは易いですが、何かに依存してしまうということは、今抱えている何かを発散しようとしている、あるいは助けを求める術を依存という形でしか見いだせなかったということの表われです。依存している人を責めるだけで終わる話ではありません。

人と人とが支え合わねばならない時代(とき)に、人が他者(ひと)を貶(おとし)めたり、罵(ののし)ったり、認めなかったりする。

その空気感が強まっているなかで、ALS患者の女性への嘱託殺人が行われたことのショック。

しかも、嘱託殺人を犯したふたりの医師に対する擁護や、「医師がしたことの何が悪いのか分からない」という声も耳にする。

2016年7月に、植松聖死刑囚が「津久井やまゆり園」で起こした事件も、「植松被告の言うこと(犯罪理由)は理解できる」という声が巷にあふれた。

私たちが今生きている場の雰囲気が、とんでもないことになっている。そういうことを感じる。

不思議なもので、そういうことを気にしていると、関連する言葉が絡みついてくる。

何年も前に読んだ本を、本のタイトルが気になってたまたま手にした(ということは、中身はほとんど忘れているわけで・・・)。

すると、上記の文章に出遇いました。

ALSの宣告を受けた聞法者が、恐らく必死な思いで宮城先生に電話をかけたことと思います。

そして、「助けてください」と懇願するのではなく、「今まで聴聞してきたけれど、自分がここが大切だとメモしてきたことは、こんな大変なときには役にたたず、でも、今まで気にも留めていなかった親鸞聖人のご和讃が脳裏に蘇ってきました」というようなことを告白されたのではないかと、察します。

困難にぶち当たったとき、思い起こす言葉は、普段座右の銘にしている言葉ではありません(そういう人もいるとは思いますが)。

ふと思い起こす本の一節、昔読んだマンガの台詞、今は聞かなくなった歌のフレーズ、疎遠になっている友人からかつて言われた一言、どこで目に触れたかも思い出せないポスターの文言・・・

絶望の淵で思い起こされるのは、そんな一言だったりする。

そんな一言に、フラフラになった私は、支えられ、生きてきた、生きている。

岩崎航さんの言葉 「生きることと、詩は一体のものです。」を紹介しましたが、

岩崎航さんにとって、自分が紡ぐ詩もまた、自分を生かす一言なのだと思います。

詩が生まれて来る背景には、多くの縁(つながり)が内在します。

言葉には、無量の人々の人生が詰まっています。

聞いた瞬間(とき)、目にした瞬間(とき)は、何も感動しなくても、意味が分からなくても、ほんと、何事かあったとき、ふと思い出して、涙が溢れてくる言葉があります。

言葉を大切に、

言葉が生み出されてくる人と人との関係を大事に生きましょう。

南無阿弥陀仏

2020年7月30日 (木)

他者に向けた刃は、自分にも突き刺さっている。

昨日、岩崎航さんへのインタビューが掲載されている「BuzzFeed」の記事をご紹介しました。

他にも、雨宮処凛さんへの記事も掲載されています。

相模原事件後も止まらない「命の選別」 医療の世界の「自己決定」と「自己責任論」

 ☆

障害を持った方、高齢者、今だと新型コロナウイルス感染者に対する差別意識が蔓延している世の中。

誰もが病気をし、誰もが年を重ねていくことは分かっているのに、なぜ差別が生じるのか。

差別意識の背景には、知ろうとしない無知、刷り込まれた誤解、自分を優位に立たせたい意識などがある。

けれど、たとえ無知であっても、たとえ誤解から間違った知恵を刷り込まれたにしても、優位に立ちたい意識があろうとも、それは他者(ひと)を責める理由にはならない。

自分の思想として、何を思い、何を考えようとも、そのことを他者が遮ることはできない。

けれどそれらが、他者に向けて表出したならば、そのことに対してはおかしいことだ、間違ったことだと言い続けなければいけない。

たとえ、差別の止む日が訪れなくとも。

他者に向けた刃は、やがて自分にも返ってくる。

やがてではないな、

他者に向けた刃は、そのまま自分にも突き刺さっている。

痛みを感じることを嫌い、他者を傷つけている。自分自身のいのちの尊厳を傷つけていることに気づかずに。

2020年7月29日 (水)

私にとって「生きることと、○○は一体のものです。」と言えること(もの)は何か。そういうものを持っているか。

青春時代と呼ぶには

あまりに

重すぎるけれど

漆黒とは

光を映す色のことだと

岩崎航(わたる)さんの五行詩です。

岩崎航さんは、3歳で筋ジストロフィーを発症しました。

1976年生まれなので、今年で44歳。

人工呼吸器を使い、介助を必要としています。

少しずつ筋力が衰え、介助が必要となる体で、「自分にできることは何か」と考えるなかで、短い詩なら書けるのではないかと思い、詩を紡ぎ始め、五行詩に辿り着きました。

岩崎航さんは言います。「生きることと、詩は一体のものです。

文頭で紹介した五行詩は、私が初めて岩崎航さんの詩に出会ったときの詩です。

漆黒という、自分の立ち位置すら分からなくなる暗闇を、自分を閉じ込めるものではなく、光を映すものであると表現できる気づき。

病気のことを知る前に詩に出会ったので、この詩を生み出した人の背景にはなにがあるんだろう、何を背負っているんだろう…と想いました。

詩を書かれた方を調べ、岩崎航さんという方であることを知り、病気と共に生きていることを知り、出版されている本を買い、何度も読みました。

『点滴ポール 生き抜くという旗印』(2013年7月3日 ナナロク社より発行)より

あれからさらに二十年の歳月が経ち、僕は今、三十七歳になった。

病状は、一層進んだ。

あまりにも多くのことを失った。

思うことはたくさんある。

僕は立って歩きたい。

風を切って走りたい。

箸で、自分で口からご飯を食べたい。

呼吸器なしで、思いきり心地よく息を吸いたい。

 

でも、それができていた子どもの頃に戻りたいとは思わない。多く失ったこともあるけれど、今のほうが断然いい。

大人になった今、悩みは増えたし深くもなった。生きることが辛いときも多い。

でも「今」を人間らしく生きている自分が好きだ。

絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った「今」が、自分にとって一番の時だ。そう心から思えていることは、幸福だと感じている。

岩崎航さんは、「生きているんだ!」と想いました。

ふたりの医師によるALS患者の女性への嘱託殺人のニュースを聞いたとき、岩崎航さんの顔が思い浮かんだ。

彼は、何を語るだろう・・・

などと思っていたら、BuzzFeedというサイトに、岩崎航さんへのインタビューが掲載されていました。

時間をかけて、しっかりと語ってくださっています。お読みください。

☆リンク

「BuzzFeed」命を選別する言葉にどう抗うか 詩人の岩崎航さん「私たちには今、人を生かす言葉が必要」

〇岩崎航さんの本 『点滴ポール 生き抜くという旗印』 『日付の大きいカレンダー』

2020年7月28日 (火)

自分の生きにくさを、他者に重ね合わせてはいけない

ALS患者の女性に薬物を投与して死なせたとして、嘱託殺人の疑いで医師2人が京都府警に逮捕された。

この事件を機に、安楽死・尊厳死に関する法整備の動きも出てきている。

しかし、安楽死・尊厳死の法整備に関する議論は、現代の医療体制・医学の進歩のなか、常日頃議論されてしかるべき事柄(賛成・反対、両方の意見もあってしかるべき)。

けれど、それをしてこなかった。

にもかかわらず、これほどの事件が起きると、法整備の話が出始める。

つまり、法整備する側に、その程度の思いしかないということ。

そういう人たちが法整備といっても、個人的思想に突っ走るか(逮捕された医師のように)、大衆迎合的に「ALS患者がかわいそうだ」という感情に流されてのことのように映ります。

本来、安楽死・尊厳死なるものは、“ない”はずのものです(と考えます)。

けれど、安楽死・尊厳死を選択肢から外して考えることのできない状況におかれている方もいます。

だからこそ尚更、個人的思想に反することも考え(ということは、身の痛みを感じるほどに悩むということ)、「かわいそう」という自分の感情に流されるのではなく(患者さん本人の想いに寄り添うということ。それは、私の感情とは相容れないこともあることでしょう)、そういうためらいや葛藤、あらたな気づきを身をもって感じることから始まります。始まりです、終わり(解決)ではありません。

そういう意味で、自分たちの理想とする「枯らす」思想のために、嘱託殺人を犯したふたりの医師は、そういうためらいや葛藤、殺してしまった彼女から何かを気づかされることなどなかったことでしょう。

なにか気づきを得たならば、安楽死・尊厳死ということに対して、またあらたなためらいや葛藤も芽生えたはずです。

たまたまふたりの職業が医師だったから、安楽死・尊厳死の話に繋がっていますが、ALS患者の方が殺された事件は殺人事件です。

そのことは忘れてはいけないことです。

先日紹介した安藤泰至先生のコメントが「毎日新聞」に出ていました。

ぜひお読みください。

☆リンク

〇「毎日新聞」ALS嘱託殺人 「安楽死」議論と結びつけるべきではない 安藤泰至(鳥取大医学部准教授)

2020年7月27日 (月)

「させていただきます」考

昨日の投稿で、安藤泰至先生の文章を引用させていただきました

その引用のなかに、

「ある生命倫理研究者が大学の講義で、「生かされている」という言葉の意味を尋ねたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」と書いたという話を聞いたことがある。

という一文がありました。

ほぼ全員の無理矢理生かされている感もショックでしたが、今日触れたいのは「生かされている」という表現について。

そもそも、「生かされている」という表現をしないでしょうか、現代人は。

このブログでは、今まで「さまざまな縁が織りなすなかで、私が私となっています」ということを、いろいろな表現で書いてきました。

つまり、私は生きているのではなく「生かされている」ということです。

浄土真宗の僧侶や門徒は、「生かされている」という言い方をよくします。本当にそう思っているから(と、思う)。

「縁により」「阿弥陀如来により」というのが親鸞聖人の教えの根本だと思います。

そのような「よる」力(はたらき)を、浄土真宗では「他力」と言います。

こんにち一般的に使われる「他人の力を借りる」「他人の力をあてにする」というような意味ではありません。

すべての生きとし生けるものが、阿弥陀如来の慈悲のはたらきを受けながら生きている(つまり、生かされている)。

そのことを「他力」と言います。

そのためか、浄土真宗の僧侶や門徒は「〇〇させていただきます」という言い方を、気取るわけではなく、します。

ですから、私(白山)的には、「〇〇させていただきます」に何の違和感もないのですが、次の文章に出会い、気にかかっている方もいるんだなぁということにも気づかされました。

 ☆

『暮らしの手帳』 2020年初夏号(2020年6‐7月号)

137頁 随筆 「させていただきます」 小澤俊夫(昔ばなし研究者)

 近頃、人々の発する日本語のなかで、「させていただきます」という語尾が非常に多いことが気にかかっている。「述べさせていただきます」「これから会を開かせていただきます」など。
 ある日、電車が動きだすとき、「ドアーを閉めさせていただきます」というアナウンスが流れた。ぼくは仰天した。「発車のとき、ドアーを閉めるのは車掌の仕事ではないか。閉めさせていただきますと言って、もしお客が駄目だと言ったらどうするのだ」と思った。アナウンスは、「ドアーが閉まります」とか、「ドアーを閉めます」と言わなければならないはずだ。「させていただきます」と言って、誰に許可、又は了解を求めているのだろう。電車を運行する方の主体的意思はどこに行ってしまったのか。
 ある日、予算委員会のテレビ中継を見ていたら、野党の質問に対して大臣が、「この点について述べさせていただきます」と言った。大臣は責任上、説明をしなければいけないのであって「させていただきます」ではないはずだ。これは、言葉の丁寧さとは質が違う問題である。
 「させていただきます」と言うとき、人は自分を取り巻く、目に見えない世間を意識しているのではないか。全体の空気というか、全体の雰囲気から離れないように気を使っているのではないか。
 そう考えるから、ぼくはこの言い方がとても気になる。全体の雰囲気が大事で、自分はなるべく目立たないようにする。こういう生き方が世の中に蔓延したら、国の権力者は国民全体を、自分の都合のいい方へ簡単に引っ張っていける。日中戦争・太平洋戦争を開始する前、政府は国民全体が各自の主体的判断を捨てて全体の雰囲気に身を任せるように引っ張っていった。中国は怪しからん、英米はけしからん。そうだ、そうだ。そこではもう、個人の考えはなくなり、全体を支配する考えだけが通用した。
 (後略)

 ☆

なるほど、そういう受け止め方もあるんだなぁと思いました。

確かに、注意して聞いていると、世の中「させていただきます」という言い方が増えているかもしれません。

無意識の自己防衛・自己弁護・責任逃避から。「一応、了解(確認)はとらせていたきましたので・・・」と。

「そこまで委縮しなくていいのに」という思いと、「そこまで委縮させてしまう空気が世の中には溢れているもんねぇ」という思いが湧きました。

でも、それは、他力という感覚の欠如のなせるわざでもあります。

自分の選びで行動を起こしている、自分の責任でもって物事をなしている、自分の意志で生きている・・・そういう感覚は誰しもが持っています。否定するわけではありません。けれど、その感覚に溺れていると、周りの人の理解や協力であったり、周りの人が自分の仕事を後回しにして手伝ってくれていることに無自覚になったり、周りの人が知らないうちに尻拭いしてくれていたり、そういう事実に無自覚で生きることになります。気づいたときにはひとりぼっちです(でも、阿弥陀さまは一緒にいますが)。

自分が意識できる周りの人びとだけでなく、自分では認識できない多くの人びと・物事・事柄と共に縁によって結ばれているわたし。

「させていただきます」表現は、他力感覚(他力の感得)であり、わたしとあなたとあみだと共に生きている自覚でもあります。

つまり、「全体の雰囲気が大事で、自分はなるべく目立たないようにする」つもりはなく、思いっきりの自己表現なのです。「させていただきます」」は。

べつに、小澤俊夫さんの随筆を否定するために語っているのではありません。

「させていただきます」表現に慣れてしまった私が、「おいおい、そこで思考停止に陥ってないか!」という呼びかけとして、小澤さんの文章に出会ったものとして、今日の文章を書いています。

「させていただきます」と言っても、先に私が記したような宗教のバックボーンがあって言うのと、無意識の自己防衛・自己弁護・責任逃避から言うのとでは、言葉のニュアンス・内包された想いがまったく違ってきますね。

先に、「浄土真宗の僧侶・門徒は」という、ちょっといやらしい書き方をしましたが、便宜上そう書いたのであって、すべての僧侶・門徒がそう表現するわけではありません。また、真宗の教えに触れて信心を得たならば「させていただきます」表現をするようになる!ということでもありません。誤解ありませんように。

 ☆

小澤さんの文章にもうなずきつつ・・・

かつて、こんな光景を目の当たりにしました。京王井の頭線渋谷駅。電車発車のブザーとともにドアーが閉まり始めました。そこに、ホームから電車に向かって頭を突っ込んだ初老の男性が。ドアーに頭を挟まれ、発射の準備を止め、一旦すべてのドアが開きました。その男性は、近くにいた駅員に怒鳴りちらします。「電車に乗ろうとしているのに、閉めやがったな!」。
それは、あなたに問題があるのでは💦
こういう乗客が多い世の中、「ドアーを閉めさせていただきます」ぐらいの表現をしておきたくもなりますね。

「会を開かせていただきます」も、確かにそこまで言わなくてもと思います。が、携帯電話が普及して、会や会議や打ち合わせに、当然の如く遅れてくる人が増えたような気がしませんか? 「遅れる、ごめんね」と携帯電話やメールで伝えておけば、遅参が許されるかのように錯覚している人が増えたのではないでしょうか。いや、増えたような気がします。そうすると、参加予定の人がそろっていないけど、予定の時間になったから始めるよ!というときに、「時間になりましたので、会を開かせていただきます」というような表現になってしまうのではないでしょうか。

大臣や政治家が「この点について述べさせていただきます」と言うのも、述べる分にはいいのではないでしょうか。どんどん述べちゃってください。最近は、「発言を控えさせていただきます」などと言って、言うべきこと、言わねばならないことを言わない、勤めも説明も責任も果たさない方が多いので、「私の思いを述べさせていただきます」という政治家は大歓迎です。

小澤さん指摘されるところの「させていただきます」は、その背景には、そのように言わせてしまう現代の負の感覚が蔓延しているように感じます。

「させていただきます」表現に問題があるのではなく、「させていただきます」と言わせてしまう方の人・・・私かもしれません。その自覚や問題意識を持つことが肝要ではないでしょうか。

その無自覚・問題意識に気づかないヒトの集合体こそ、国の思うがままに引っ張られてしまいます。

2020年7月26日 (日)

いのちが語る

『anjali(アンジャリ)』(真宗大谷派 親鸞仏教センター発行)39号(2020年7月号)より

いのちを語る、いのちが語る
   安藤泰至(鳥取大学医学部准教授)

(前略)

私のいのちは私のものか?
 昨年7月、筆者は『安楽死。尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット)という本を上梓した。そのなかで筆者は、「自分のいのちは自分のもの」というのはある種のフィクションである、と述べた。フィクションというのは事実に反する「嘘」とは違って、現実の一部を拡大してわかりやすく描いたものであり、ある場面では有用である。医療において患者の「自己決定権」ということが叫ばれるように、私たちが医師や家族に勝手に自分の治療について決められてしまわないためには、「私のいのちは私のもの」と主張することはある程度必要である。しかし、現在の日本では認められていないような安楽死(医師が患者に致死薬を注射する積極的安楽死、および医師が致死薬を処方し患者がそれを飲んで死ぬ医師幇助自殺)を肯定するときに、「死の自己決定権」というものを持ち出すのは、筆者にはこのフィクションの濫用に思える。
 人の死とは、本人がコントロールすべきものでも、できるものでもなく、むしろこれまでに述べてきた「いのち」の出来事そのものなのではないか。かつて、哲学者ガブリエル・マルセルは人が取り組むべき「問い」を、人が外側からそれを分析して客観的に答えを与えることができるような「問題」と、人がその外側に出ることはできず、その問い自体を生きる以外に応答のしようがない「神秘」とに分けたが、人間の死とはまさにこの「神秘」に当たるものではないか。私たちはそれを解決することはできず、それに立ち会い、それに学ぶしかないのではないか。

「いのち」が語る
 「いのちを大切にしなさい」。「いのちほど尊いものはない」。私たちはこうした言葉を浴びるほど聞かされてきた。もちろんこうした言葉が繰り返し語られる背景には、現代における「いのち」の危機があることは承知している。しかし、残念ながらこういった言葉が本当に「いのち」に飢えている人たちにはほとんど届かないというのも確かだ。「いのち」という言葉が使われることで、かえってある種の安心と思考停止を起こし、「いのち」が自覚されないまま、「いのち」という言葉だけが溢れてインフレーションを起こしているともいえる。
 ある生命倫理研究者が大学の講義で、「生かされている」という言葉の意味を尋ねたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」と書いたという話を聞いたことがある。このような世界のなかで大事なのは、私たちが「いのち」について考えるというよりは、何よりも「いのち」の出来事に向き合い、そこに耳を澄ませ、そこから学ぶということではないだろうか。そのとき、私たちが「いのち」を語るのではない。「いのち」が語り、私たちに語りかけるのだ。

 ☆

昨日書いた「ともしび」も積読(つんどく)状態だったのですが、上記の『アンジャリ』も積読状態でした。

たまたま手にしてパラパラめくっていたら、あ、『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』を書かれた安藤先生の文章が載ってる‼と思い、読み始めました。

「いのち」について考えるということは、その時点で人間の意図・恣意・気分が反映されてしまいます。

楽しい! 頑張ったことが報われた! 生きていてよかった! などと思える時は、いのちの尊さ・大切さも口にできます。

けれど、

悲しい! 何をやってもうまくいかない! 生きることに意味が見いだせない! などと考えるときは、いのちの尊さ・大切さも感じられません。

それは、誰もが通る道であり、誰もが繰り返している感情です。

「いのち」について考えることは大切なことですが、答えはありません。

けれど、「いのち」について考えているうちに、「いのち」から私が問われてくるときがあります。

「いのち」に問われながら生きていたんだなぁと気づくときがあります。

生きているなかで出会う出来事に、意味を求めるけれど、そもそも意味などありません。

その答えも、その意味も、私の思いが紡ぎ出したもの、その時々でかわるものなのですから。

だから、「いのちについて考える」とは、ガブリエル・マルセルの言葉を借りるならば、「問題」ではなく「神秘」ということ。

出来事をとおして、嬉しくて高ぶる感情や、悲しくて重く沈んだ感情を経験し、私のなかの「いのち」に触れるときがある。

「いのち」の問題を解くのではなく、「いのち」という神秘を「いのち」から問われている。

(この「神秘」とは、「スピリチュアル」というようなことではなくて、人間の知恵を超えたもの。つまり、無量寿・無量光、不可思議ということ。)

「いのち」に触れ、向き合い、耳を澄ませる。

それが、いのちを生きるということ。

そこに、答えも、意味もない。

ただ耳を澄ませる。

ただ南無阿弥陀仏

 ☆

あらためて、『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』を本棚から出して読み返しました。

「おわりにー「死について考える」とはどういうことか?」にこう書かれていました。

本当に「死」について考えるということは、そうした(自分で思い描くような)「絵に描いた死」を考えることではなく、むしろ自分がどのように生きるか、どのように「いのち」に向き合うのかを考えることにあるのではないだろうか。

 ☆

リンク

〇「アンジャリ」39号・・・「親鸞仏教センター

〇『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』・・・「岩波ブックレット

2020年7月25日 (土)

人間はおるか

2020年7月22・23・24日のブログを書いていて、“いのちの線引きをしている私”ということを感じていました。

昨日のブログを書き終え、床に就く前に、積読(つんどく)状態だった「ともしび」(2019年9月号 真宗大谷派教学研究所発行)を手に取りました。

佐野明弘先生(石川県光闡坊)の法話 「衆生減尽ー本当に私たちは人間として生きえているのかー」が掲載されています。

読んで驚きました。今書き終えた3日間のブログに呼応するかのような内容だったからです。

 約二年前、NHkの「ハートネット」という番組で、東京大学の学生が自主グループをつくって、障害の真実に迫るという放送がありました。その中で、生まれてから一度も自分の足で歩くことができず、車イスで生活している方に質問する場面がありました。それは、「足が治る薬が開発されたら使いますか」というものでした。
 私にも、あちこち痛んでいるところがありますので、「使いますか」と言われたら、「私は使いたい」と答えるという程度の発想だったわけですが、その車イスに乗った方は「その質問は、歩けない人は、やはりこの世にいない方がいいんだというご質問ですね」というように答えられました。ドキッとする言葉です。
 相模原のやまゆり園で起きた事件から二年半が経ちます。被告の植松氏は、重度重複障害のある自己認識能力もなくなった方々を、人間であることが崩壊した「心失者」だと言いました。だから、本人もそのような状態から解放させ、周りの者も介護による生活の圧迫から解放させ、そしてそこにつぎ込まれる莫大な国家財政の危機を救うためにも彼らを安楽死させるのが一番いいと考え、国にそういう手紙を出したわけです。そしてその手紙の五ヵ月後に、自ら実行に及び、19人を殺害しました。
 彼は、犯行後「私は人を殺していません」と言い続けているそうです。要するに、彼の考える人間というものの範疇から外れているということです。障害があって生まれてくることは必ず不幸であり、この社会にとっても不幸しか生まないから存在すべきではないと考えているのです。
 そう聞くと、彼は一般の日常意識からは乖離した異常な発想をする人だと思えます。しかし、私たちが何を喜びとして生き、何に生きていることの意味を見出しているのかと問われれば、何かができることであり、人の役に立つことであるということが圧倒的に多いのではないでしょうか。ならば、何かができなくなるということは、存在価値がなくなっていく、生きている意味がなくなっていくことになります。
 こういう発想が私たちの日常的な意識の中にあります。目が見えないのは嫌だ、病は嫌だというような当たり前の発想が、特定の人を排除する発想につながっているのです。障害のない身体を自分にも子どもにも望むのは、優生思想的発想です。
 実際に戦後、障害のある方々が子どもを産めないようにする強制的な不妊の手術を、分かっているだけで3500人以上にしてきたのです。これも、私たちの日常意識から乖離したものではなく、日常意識に地続きになっているものなのです。

(「ともしび」4頁下段~5頁上段 2019年1月20日のお話)

新型コロナウイルスの感染者がここに来て急激に増えている。もはや(初めからなのだが)他人事ではない。

にもかかわらず、コロナ罹患者は何かしら落ち度があった、自業自得だ、油断があったなどと、罪でも犯したかのような目で見ている。

そのような、罹患していない私は素晴らしくて、罹った人は落ち度があったという見方も、優生思想の表われと言えるだろう。

あからさまな優生思想でなくとも、私の中に優生思想が根付いている。

そのことに無自覚に生きている恐怖。

「このなかに人間はおるか」「人間がおらん」

私は、本当に人間として生きえているのでしょうか。

このタイミングで読むことが出来るなんて、「あなた、今こそ読みなさい」という声と共に、私の手元にあったような気がします。

南無阿弥陀仏

興奮状態に陥り、昨晩はなかなか寝付けませんでした。

※「ともしび」ご希望の方は、こちら「しんらん交流館 教学研究所 発行部一覧」をご覧ください。

2020年7月24日 (金)

一昨日は、著名な方が自死した際の報道、そして私たちの受けとめについて

昨日は、覚せい剤取締法違反などの罪で公判が開かれた槇原敬之さんについての報道、そして私たちの受けとめについて書きました。

報道の仕方についてを問うたわけではありません。

このコロナ禍、新型コロナウイルスに罹患した方や医療従事者とそのご家族などに向けての、差別的な言動が目立つようになったと感じています。

差別の歴史は、人類の歴史と共にあるわけですから、新型コロナウイルスがきっかけなわけではありませんが、それにしても、人が人を裁く、断罪する、貶めるということを肌身で感じています。

このコロナ禍における、著名な方の自死には、ネット上での誹謗中傷が背景にあると言われています。

他者への差別、バッシング、誹謗中傷、それ必要なこと? どうしてあなたがするの? 筋も道理も通らなくない?と感じます。

(筋や道理が通れば誹謗中傷が許されると言っているわけではありません)

そのようなことを肌感覚で感じている時に、

東京都知事選後、山本太郎氏が代表をつとめるれいわ新選組で騒動がありました。

れいわ新選組の大西つねき氏の、自身の動画サイトでの発言が発端となった。

「どこまでその高齢者をちょっとでも長生きさせるために子どもを、若者たちの時間を使うのかということは真剣に議論する必要があると思います。」「こういう話、たぶん政治家は怖くてできないと思うんですよ」「命の選別するのかとか言われるでしょう。命、選別しないとだめだと思いますよ。ハッキリ言いますけど。なんでかと言いますと、その選択が政治なんですよ。選択しないでみんなにいいこと言っても、たぶんそれ現実問題として無理なんですよ。そういったことも含めて順番として、その選択するんであれば、もちろん高齢の方から逝ってもらうしかないです」

大西氏は、いのちの選別を公言した。

以前から日本の少子高齢化が言われ続け、政治家は、その対策・対応もしてこなければいけなかった。

けれど、特に対策となることもせず、出生率は下がり、日本国民の高齢化は進んでいる。

現状を鑑みれば、医療や介護の現場がひっ迫することは目に見えている。

大西氏の発言は、日本の現状とこれからの姿を鋭く指摘してはいる。

けれど、「命、選別しないとだめだと思いますよ」の発言は、次の選挙で立候補するのであろう人が、政治家になろうとする人が言ってはいけないことだ。

れいわ新選組 国会議員の木村英子氏は言います。

「命の選別をするのが政治ではなく、命の選別をさせないことこそが、私が目指す政治です」

私もそう思います。

現 政治家で、公にいのちの選別を掲げている人はいないと思います(本心は知りませんが)。

けれど、

〇社会保障費や教育のために使うと言い、消費税を増税しておきながら、実際は借金返済。

〇フル規格の保健所は、この30年で4割以上減っている。
コロナういるす罹患を恐れる方へのPCR対応が追い付かないことに対する不満が溢れているが、保健所は減り仕事は増えているのだから、コロナが流行しなくとも、私たちが安心して暮らせる環境が削られている現実。

〇医療の現場は疲弊し、夏のボーナスもゼロもしくは大幅減となり、多くの医療従事者が職を辞すことを考えているという。その現状を目の当たりにしても、医療の現場への支援は遅れている。

〇家族の形は多様化し、DV被害から必死に逃げている方がいる(そのことも知っているのに)、1人10万円の給付金は、世帯主の口座に一括で振り込まれる。

〇このような状況において、国会は閉会。

このような態度も、いのちの選別の考え方があって、そのことを反映していると思います。

「今の日本の状況を鑑みると命の選別もやむをえない」と政治家や政治家を目指す人、政治の現場にいる人が言ってはいけない。
木村英子氏が言うように、「命の選別をさせないこと」が、彼女が目指すだけでなく、すべての政治家も努めてほしい。

ここまで書いてきたのは、大西氏批判をするためでも、現実の政治への落胆でもない(あ、落胆はあるか)。

はじめに、昨今 世間に漂っている差別意識について書きましたが、差別意識はなにも大西氏や現政治家だけが持っているものではなく、私たちひとり一人のなかに、程度の差はあれ、誰もが持っています。

それだけに、「命の選別」ということが、世間の人々までもが当然のことのように思い始めたら怖いことです。

自死された方が生前に受けた誹謗中傷、罪を犯した人への手のひら返し、誰もが病気に罹る可能性があるにもかかわらず、罹患した人へのバッシング(家族に罹患者が出て引っ越しをした家族、自死した家族がいることをご存じですか)。

そういうことが当然のように行われているのが現状です。

その現状に、医療崩壊、少子高齢化の進行、「命の選択」を公言する人が政治家になる、などという一滴が注がれたとき、あっという間につながりながら生きているいのちに、大きなヒビが入ってしまいます。

大袈裟なことを言っているつもりはありません。

大西つねき氏の発言以降、れいわ新選組の国会議員、木村英子氏と舩後靖彦氏のメッセージを読まさせていただきました。

〇参議院議員 木村英子 オフィシャルサイト 障がい者があたりまえに生きられる社会へ

  「大西つねき氏の「命の選別」発言について

〇舩後靖彦 Official Site 障害の有無を問わず、誰もが幸せになれる社会を創る

  「大西つねき氏の発言に関する声明

ある党の内部のゴタゴタ、などという話ではありません。自分自身も当事者として、自分自身の中にも差別意識があるものとして、読んで考えていただければと思います。

 ☆

今日の文章は、一昨日の文章を書いている段階で、ここまで書こうと考えていました。

正直しんどかったです。

私自身、自死された方の身内でも友人でもありません。また、槇原さんとも面識はありません。そういう者が言うべきことか。踏み込むべきことか。

また、この手の発言(この3日間の投稿)は、あたかも「自分が正しい」というところに立って言っているかのように聞こえます。

そういうつもりはありませんが、でも、自分では否定しつつも、こころのどこかに「自分が正しい」という思いはあるものです。そうでなくては、思考し、表現することもできないわけですが・・・それだけに、苦しい。

でも、書かずにおれなかったのです。

現代(いま)漂っている差別意識の空気がだんだん濃くなっているような気がして。

都知事選後、大西つねき氏の発言が周知のこととなり、それから木村英子さんと舩後靖彦さんのお話(ブログ)に出会い、ずっと、いろいろと考えています。

で、この文章を書いているときに・・・

「ALS患者 嘱託殺人」のニュースが入ってきました。

いのちの尊厳と言っても、人間の想いとしては、やはり人それぞれの想いがあります。

 本人がつらいのであれば、本人が死にたいのであれば、安楽死・尊厳死も認めるべきでは…。

 つらいかもしれないけれど、死は選ばないでほしい…。

どちらかがいのちの尊厳を認めてなくて、どちらかが認めていて、ということではないと思います。

でも、ご本人がその道を選んだ、選ばざるをえなかったということの重さを感じています。

また、ニュースを聞いたときは、依頼を受けたふたりの医師も、深く悩んだうえでもことだったのだろうと思っていました。

でも、そこはちょっと違うようです。

命の選別が思想背景にあるような本を、電子書籍で共著で出していたそうです。

彼らなりの「自分が正しい」というところに立っての行為だったようです。

れいわ新選組の舩後靖彦さんが、事件を受けてメッセージを発しています。

〇「事件の報道を受けての見解

今はただ、舩後さんの言葉を、しっかりと噛みしめたいと思います。

南無阿弥陀仏

2020年7月23日 (木)

どんなときも 迷い探し続ける日々が 答えになること 僕は知っているから

2020年7月21日 覚せい剤取締法違反などの罪で起訴された、シンガーソングライターの槇原敬之さんの初公判が、東京地裁で開かれました。

犯してしまった罪に対しては、罪を償わなければいけません。

けれど、罪を犯した人に対する世間の目は、冷たく、厳しい。

2回目の逮捕ということもあり、「どうして!?」「裏切られた」「応援していたのに」という方も、たくさんいることと思います。

私も、映画「就職戦線異状なし」を観たときに流れていた曲「どんなときも。」を聞いて以来のファンですから、ショックはありました。

でも、そこで個人の、作品の評価は下がってしまうものなのでしょうか。

私は、そうは思いません。

これからも、変わらず聞き続けます。

さて、「なぜまた手を出したんだ!?」「やっぱり、やめられなかったのか?」という、犯した罪に対するバッシングの声は挙がって当然かもしれませんが、犯した罪とは関係のない話が報道されるのはなぜでしょう?

槇原さんのことでいえば、恋人との関係のこととか。

そのことは、槇原さんの逮捕と切り離して考えることでは?

にもかかわらず、覚せい剤取締法違反の疑いの話から始まって、派生した話の方が盛り上がってしまう。

昨日の投稿でも触れましたが、自死した方に対して、報道しなくてもいいところにまで踏み込んで報道する。

場合によっては、その方の人格否定のようなことまで言い出したりする。

そういう報道の在り方に悲しみを感じます。

昨日も書いた通り、メディアの側だけの問題ではなく、私たちの問題でもあるわけですが。

そこがまた 悲しい

 ☆

超えろ。(作詞・作曲 NORIYUKI MAKIHARA)

どこからか諦めの声が聞こえてきても
諦めたくないのなら 諦めずに進めばいい

先駆者になりたいなら願い続ければいいんだ
上手くいかなかった時の言い訳ばかり考えていないで

のぞき込む鏡の中 疲れた顔が映っているなら
それこそが大正解なんだ 誰かの笑顔を見てから笑えばいい

超えろ 自分の限界を
超えろ 昨日の努力を
超えろ 誰かの予想を
超えろ その力があると信じて
超えろ 今あるどのアイディアも
超えろ 目に見えない枠組みを
心が望む未来以外 君は欲しくはないはず

求めなければなにも与えられなどしない
心が今一番求めるものはなにか問いかけろ

欲しいものは手柄なのか 報酬なのかそれとも
自分がまだ見ぬ沢山の人たちの笑顔なのか

のぞき込む鏡の中 疲れた顔が映っているとしても
にっと口角を指で上げて 自分のことを時には騙せばいい

超えろ 自分の限界を
超えろ 昨日の努力を
超えろ 誰かの予想を
超えろ その力があると信じて
超えろ 今あるどのアイディアも
超えろ 目に見えない枠組みを
心が望む未来以外 君は欲しくはないはず

七転び八起きの8の文字を
横に倒して
∞(むげん)の可能性を見つけろ

超えろ 自分の限界を
超えろ 昨日の努力を
超えろ 誰かの予想を
超えろ その力があると信じて
超えろ 今あるどのアイディアも
超えろ 目に見えない枠組みを
誰かの為に頑張れる 自分が一番好きだと認めろ

 ☆

誰もが可能性を持っている。∞の可能性を。

その可能性は、つまづいてしまったら 終わりなのか?

その可能性は、「私はそんな罪は犯さないよ」って偉ぶる人間が奪えるものなのか?

無限だからこそ、

つまづいてしまっても、実際に罪を犯してしまったとしても、可能性がいつまでもあるんじゃないか。

何も知らずに 心無い言葉を浴びせるヒトには、好きに言わせておけばいい。

たとえ今は辛くても、にっと口角を自分の指で上げて、自分で自分を騙して作り笑顔をすることも大切だ。

そこには、心の底からの笑顔に辿り着く可能性があるから。

2020年7月22日 (水)

自殺報道ガイドライン

俳優の自死を受け(特に誰の、という話ではありません。)、報道がなされる。

自死の理由や動機を伝え、親睦のあった方からコメントをもらい、報道する。

けれど、

その理由や動機も、本当のところは、繊細なことろは分からない。

親睦のあった方、仲の良かった方からすれば、“言葉にならない”というのが正直なところだと思います。

それでも、言葉を紡いで、悲しみを言葉で表してくださっています。

それくらいまでは、テレビ・ネット桟敷の私たちも、知りたいという誘惑から逃れられない。

知りたいこと、聞きたいこと・・・これくらいでいいのではないでしょうか。

でも、「真実を伝えるのが使命」ということを盾に、報道は入らなくていい奥地まで踏み込んでいく。

どのように亡くなったか、人間関係はどうだったか、亡くなったことによって生じる不利益、なぜ死を選んだのか…そういうことまで報道する。

亡くなった人が、まるで罪でも犯したかのように。

 ☆

WHOから「自殺報道ガイドライン」が出されています。

メディア関係者が、

やるべきこと

  • どこに支援を求めるかについて正しい情報を提供すること
  • 自殺と自殺対策についての正しい情報を、自殺についての迷信を拡散しないようにしながら、人々への啓発を行うこと
  • 日常生活のストレス要因または自殺念慮への対処法や支援を受ける方法について報道すること
  • 有名人の自殺を報道する際には、特に注意すること
  • 自殺により遺された家族や友人にインタビューをする時は、慎重を期すること
  • メディア関係者自身が、自殺による影響を受ける可能性があることを認識すること

 

やってはいけないこと

  • 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
  • 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
  • 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
  • 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
  • センセーショナルな見出しを使わないこと
  • 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

 

が書かれています。

残念ながら、「やるべきこと」はなされず、「やってはいけないこと」が過度になされています。

そんなメディアは見なければいい、聞かなけばいい・・・というだけの話ではありません。

メディア側が大きく取り上げる、過度に誇張する事柄・ニュースというのは、私たち見る側の要求が形になっているという側面もあります。

亡くなられた方にも人権があります。

亡くなられても、尊厳があり続けるのがいのちです。

そのことを、忘れてはいけません。

「自殺報道ガイドライン」について、荻上チキさんが5分で解説をしてくださっています。ご覧ください。

(荻上チキ)Chiki's Talk_008_自殺報道ガイドライン- Dialogue for People(D4P)

2020年7月21日 (火)

親鸞聖人の教えと共にある生活を。

昨日、2020年7月20日(月)西蓮寺ホームページ完成公開しました。

このコロナ禍、私にはどうすることもできません。

「お寺さん、コロナ退散祈願してよ!」なんて声をかけられたこともありますが、当然のことながら、そんな能力もスキルも持ち合わせていません。

でも、こんなときだからこそ、強く感じていることがあります。

親鸞聖人が生きた世も、それから現代(いま)に至るまでも、疫病や争いごとに苦しむ中で念仏の教えに聞いてきた人びとがいます。

その人々のおかげで、私も念仏申すご縁をいただきました。

「南無阿弥陀仏」の念仏は、疫癘退散の力も、争いごとを無くす力もありません。

けれど、念仏あることによって、阿弥陀の慈悲の感得によって、生きる力としてきた人びとがいます。

いや、ちょっと違うなぁ・・・念仏と共に、阿弥陀と共に生きた人がいます。

親鸞聖人の時代も、現代(いま)も、念仏は、阿弥陀は、私と共にいます。

聖人の教えに出あえてよかった。聖人の教えを伝えたい。その想いで西蓮寺ホームページを立ち上げました。

ホームページスキルゼロの私に全面協力してくださったのは、「エリコリドットコム」さんです。

私の想いとイメージを、素敵な形にしてくださいました。多謝(‐人‐)

ひとりでも多くの人に、親鸞聖人の教えが届きますように

南無阿弥陀仏

白山勝久拝

 ☆ ☆

リンク

西蓮寺ホームページ

エリコリドットコム

2020年7月20日 (月)

自分が美味いと思っても、他者には他者の味覚がある。好みがある。

境内でメスのクワガタに出会い、この一か月ほど虫かごで飼っています。

クワガタの世話は、娘たちに任せています。

クワガタが入っている虫かごに、食事のゼリーが入っています。

赤・緑・黄、ゼリーに色がついています。

私は勝手にイチゴ・メロン・レモンかバナナ味だと思い込んでいました。

 ☆

娘たちが学校へ出かけてから、妻と虫かごの中のクワガタを眺めていたときのこと

今日は、緑色のゼリーが置いてあります。

でも、クワガタは寄ってきません。

前に見たときは、赤いゼリーを食べていた記憶があるので、

「クワガタは、メロン味よりもイチゴ味の方が好きみたいだね 」(^-^) とつぶやいたら、

「!? ゼリーにそんな味が付いているわけないでしょ‼」(-_-;) と妻から指摘されました。

あ、そうか、クワガタのご飯にイチゴ味 メロン味 レモン味 バナナ味なんて必要ないか!

すっかり人間の感覚で、クワガタの嗜好を考えていました。

(せめて、舐めてみて味を確かめればいいのに…そんなことはしない)

ごめんね、クワガタさん。

閉じ込めているだけでも罪なのに、あなたの嗜好まで人間の(私の)感覚で見ていました。

クワガタは、今日も元気に動き回っています

(追記)

なんてことを書きながら、ふとゼリーの袋を見たら、「イチゴ味 メロン味 オレンジ味 パイン味」と書いてあるではありませんか‼

クワガタ、味の違い感じるのかな?

味の好み、あるのかな? だとしたら、嫌いな味のときは凹むよね。

そんなにいろいろな味があるなら、スイカ味はないのか?

でも、舐めてみる気にはならない…

 

 

2020年7月19日 (日)

お先にどうぞ。いえいえ、あなたこそどうぞ。

近所のお店に買い物に出かけました。

計算の複雑な買い物だったため、お店の方が何度か計算をし直してくださっています。

会計待ちの私の後ろに、品物をひとつ持ったご婦人が並ばれました。

(・・・「私の買い物は、もう少し時間がかかりそうだなぁ。ご婦人の買い物はひとつ。先に済ませてもらおう!」)

「どうぞ、先にお会計なさってください」と促すと、

「いえいえ、いいのよ。外が暑かったし、お店の中はクーラーが利いていて気持ちいいから、ここで少し涼ませてもらうわ。ありがとう」

「すみません」

で、私の買い物が済んで、

「お待たせしました。どうぞ」と言うと、

「かえって気を遣わせてしまって、ごめんなさい。ありがとう」

「いえいえ、こちらこそ」

と会話して、お互いにお辞儀をして別れました。

ちなみに、近所の知っている方・・・ではなく、初めてお会いする方でした。

気持ちのいい買い物になりました。

南無阿弥陀仏

2020年7月18日 (土)

傷ついたのは、生きたからである(高見 順)

『週刊金曜日』 2020年7月24日号 1289号

特集 新型コロナ時代を生きる

インタビュー 奥田知志(おくだ ともし)さん 「命に意味がある」ことを共有する

今問題となっているウイルス自体はたしかに新型でしょう。ワクチンや治療薬などの対処法がまだないので新たなフェーズ(位相)かもしれません。
しかし、噴出しているのはコロナ以前からあった課題です。災害時には、社会の矛盾や脆弱性(ぜいじゃくせい)が拡張して露呈するのです。「新しい生活様式」という言葉が飛び交っていますが、これまでの宿題をすませないと夏休みは明けないわけですよね。
給付金の支給は必要ですが、目先小手先の対応にとどまってはだめです。「テレワーク」「ネット会議」などはあくまでも一つの様式にすぎません。社会システム自体を新しくしないと、第2波や新種のウイルスが襲ってきたとき、同じ危機を迎えるだけです。

―替えるべき社会の構造とはなんでしょうか。
不安定な就労状況の改善ですね。12年前のリーマン・ショック時よりもさらに悪くなっています。日本では労働人口の約4割にあたる約2000万人が非正規雇用で、不景気になると雇い止めになる、景気対策の安全弁として使われています。
(中略)
「住み込み型の非正規就労」だと、仕事を失うと同時に住むところも失うわけです。会社の住み込み寮の位置づけは「会社の福利厚生」の一環。住居という概念にあてはまらず、居住権がないのです。
(中略)
「住み込み社員寮」は好景気の時は利点もありました。敷金や礼金、保証人が必要ではなく、また家財道具も寮に備わっています。特に単身者は、仕事と同時に住むところが手に入ったのです。
しかし、会社側は不景気になると経費削減のために簡単にクビを切る。この「仕事と住まいを同時になくす」問題は、リーマン・ショック時にもありましたが、いまはさらに拡大しているはずです。

(中略)

コロナ禍以前に「助けて」と声をあげると、「何を甘えている」「努力しなかったお前が悪い」などと非難する空気がありました。みんなが心細くなったいま、「助け合おう」の機運が出てきたのは大切です。
東日本大震災の時も被災地に寄付や支援が集まりました。それはとても感謝したいことだけど、あえていえば、災害時で生じたマイナスを埋める行為では、“かわいそうな人”を助けるという上下関係が寄付をする側とされる側にできてしまいかねません。被災しなかった人たちが、被災者をどう助けるかが「絆」だったと感じます。
今回、抱樸(NPO法人 「ひとりにしない」という支援)が取り組むクラウドファンディングは違います。日本中、世界中が被災したわけですから。寄付をしていただいた人からのメッセージも「自分も頑張りたい」という趣旨が多い。「かわいそうな人のために使ってください」というのはむしろ少数です。

(後略)

奥田知志さんは、牧師であり、ホームレス支援をされています。

インタビューを読み、いつかどこかで この雰囲気のメッセージに触れたなぁと感じて、今日はその記憶をたどっていました。

やっと思い出しました。「同朋新聞」2020年5月号(東本願寺 真宗大谷派宗務所発行)でした。

奥田知志さんインタビュー 他者と共に生きる

自分のことを考えてくれている人、自分を支えてくれている人がいるからこそ生きていけるのです。そのような中で、私たちは「ホームレス」と「ハウスレス」を区別しました。一般的には、住む家や仕事がなく路上生活をしている生活困窮者のことを「ホームレス」と言いますが、私はこれを「ハウスレス状態」と言っています。では、「ホームレス」とは何かというと、他者との関係や絆を失っている人のことです。
以前、若者の路上生活者に対する暴行事件が起こりました。その際、被害者の野宿者が「ホームレスを襲いに来ている若者は、家があっても帰るところがないんじゃないか。親がいても、誰からも心配されていないんじゃないか。そういう人の気持ちは、自分はホームレスだからわかるけどな」と言ったのです。私はその話を聞いて、問題は住む家とか仕事、つまり「ハウス」が無いだけではなく、人との関係、つまり「ホーム」が失われていることが問題だと気づいたのです。

(中略)

他者と共に生きるということにおいて一番大事なことは、実は私たちにとって都合のよいことばかりではなく、辛くて苦しいこともあるという認識をもつことなのです。
東日本大震災後にも「絆」という言葉が注目されました。ただ、麗しい助け合いの精神のように美化されすぎたのではないかと私は思います。「絆」とは、決してそのようなきれいごとばかりではなく、自分にとって不都合なことも覚悟しないといけないものなのです。しかし、だからこそ生きているという実感にもつながるのではないでしょうか。
「絆」とい字は、平仮名で書くと「きずな」です。この「きずな」には「きず」、つまり「傷」が含まれているのです。例えば、被災地へのボランティアも「絆」という言葉とともに美化されがちですが、決してよいことばかりではありません。ボランティアに行った方も何か嫌な思いを市、二度と来たくないと思って帰らざるを得ないこともあるでしょう。一方受け入れる方も、たくさんやってくるボランティアの受け入れに苦慮し、歓迎できないこともあるでしょう。そのような本質が見えてきた時に、自分がどれだけ上から目線で助けてやろうとしていたのかとか、よかれと思いやったことが逆に傷つけてしまっていたということに気づかされるのです。ですから、「きず」を恐れ自分に都合のよいことだけを求める関係では、本当の「絆」を結べていないのだと思います。
東日本大震災という未曽有の危機をとおして、私たちはあらためて「絆」を確かめ合いました。しかし、あれから9年がたち、また、人との関りを避ける時代になってしまっています。私は長年のホームレス支援の活動をとおして、人と人との関わりの中で共に生きることの大切さに気づかされました。今後ますます人間関係が希薄化する時代にあって、私たちは今一度そのことを問い直さなければならないのではないでしょうか。

住む家や仕事がなく路上生活をしている生活困窮者を「ホームレス」と一般には言うけれど、奥田さん曰く、そのような方は「ハウスレス」である。本当の意味での「ホームレス」とは、帰る場所を失っている人。たとえ家が、親が、仕事があったとしても、そこが私の居場所として感じれないならば、そういう状態を「ホームレス」と言うのだと思う、と。

 ☆

(以下、所感)

居場所を喪失している人は、現代(いま)、たくさんいます。

居場所とは、物理的な居場所ではなく、精神的な居場所。

人と人との関係に居場所を見出そうにも、それもまた難しい。

人と人とが接点を持てば、そこには温もりが生じるし、好き嫌いも生じる。

自分にとって都合のいいことだけを求めていても、見つからない。

「絆」しかり、「ボランティア」しかり、助け合いの気持ちと傷つけ合いの気持ちは、同居しているのかもしれない。

そういうことを、奥田さんはホームレス支援に携わる中で痛いほど感じておられるのだと思います。

でも、それでも支援から離れはしない。

奥田さん自身の居場所が、そこにあるからなのかもしれません。

『週刊金曜日』のインタビューでは、このコロナ禍における社会状況を語っているので、精神的な居場所の話ではなく、現実生活における「住居」のお話をされています。けれど、それもまた、住居だけの話ではなくて、仕事も、人と人との関係も含めての住居。やはり“居場所”です。

現在のコロナ禍の収束を願ってやみません。けれど、収束した後に、今のままでは、また同じことを繰り返してしまう。

仕事と住居のあり方

絆を結ぶということの本当の姿や意味

わたし自身の“居場所(よりどころ)”はなんなのか?

社会状況も変化を求められているけれど、私たちひとり一人も、変化を求められている・・・というか、足元を見つめる時間のただ中にいるのかもしれない。

「命に意味がある」ことを共有する

他者と共に生きる

そこに、私の居場所を見出す。

ふたつのインタビューのタイトルは、同じことを伝えているように感じられます。

2020年7月17日 (金)

キャンバスからはみ出しなさい・空間を平地に描いてはいけません

『Dr.STONE』(原作 稲垣理一郎/作画 Boichi)15巻 

(マンガの表紙帯に書かれている昨夜のコメント 作画担当 Boichiさんのコメント)

人間がいない状態で3700年自生した日本の自然を描きながら、決めたことがあります。

それは「真っすぐに伸びた杉がたくさんある平坦な森」を描いてはいけない、ということでした。

杉がたくさんある理由は近現代に人間が造成した為であり、真っすぐに伸びる理由は管理を受けたからです。

平坦な森は関東平野で生きていると生まれやすいイメージでしょう。

私も同じく関東平野で13年間暮らしました。

思い浮かぶのは、そんなに大きくはない、杉のような樹々が均一に育っている平らな森のイメージです。

だから私は出来る限り杉を少なく描き、描くとしても真っすぐに伸びないように描いております。

『Dr.STONE』の森の木々は数百年、あるいは千余年を育った木々です。

空間を平地に描いてはいけません。

作中の関東平野は、ロシア上空から見たツンドラのイメージを適用しています。

自然らしく、自然の力と威厳が感じられる空間を描写したいと常に思っております。

しかしここまで考えても、まだまだうまくできておりません。

問題は私の実力です。

実力が問題です・・・。

絵を描くにしても、書を書くにしても、二次元という限界のある世界の中で、その枠の中に収まってしまう。否、収めてしまうのかもしれない。

けれど、マンガやアニメ、絵画を描く人は、二次元の枠から飛び出して生き生きとした世界を描き、私たちを楽しませてくれます。

Boichiさんの絵は美しく、二次元にありながらとても立体的です。

作画に対する意思が明確で、とても強く、そのエネルギーが絵に湧き出ています。

そういえば、ジミー大西さんが岡本太郎さんから「キャンバスからはみ出しなさい」と言われたエピソードを紹介しました。

キャンバスからはみ出す・・・こういうことかなぁって感じます

上記の、帯のコメントを読んでいて、「あぁ、そんなに考えていたんだ!」と思いました。

そのコメントを胸に留めながら、15巻・16巻を読ませていただきました(‐人‐)

確かに、杉は近現代の植樹の象徴ですね。人工の産物です。

均等に真っすぐ伸びている姿は、見方によっては美しいですが、見方によっては異様です。

自然にありながら、自然ではありません。

数百年 千余年育った木々を描いているのですから、描く方もそれほどの時間が必要です(実際にそらだけの時間を生きられるわけではありませんが)。

「実力」とは、絵の上手下手ということではなく、育ってきた恵と時間への畏敬の念のことなのかもしれません。

主人公 千空の、すべてのいのちが尊いという想いと通じています。

2020年7月16日 (木)

私たちは、いつのまにか躾(しつけ)られているのかもしれません。手遅れにならないうちに、気を付けましょう。

「ステイホーム」

「GO TO キャンペーン」

なんだか、当然のように刷り込まれている政治家用語

でも、友人がつぶやいていました。

“「ステイホーム」「GO TO キャンペーン」に既視感が・・・。あ、そうだ、犬だ、犬のしつけだ!”

なるほどそうか‼

「ステイ‼」「ゴー‼」

たしかに、犬のしつけをしているかのようです。

日本人って、やっぱり優しいのかなぁ・・・と思いました。

「ステイホーム」「GO TO キャンペーン」と言われて、

「できるだけ外出を控えて、家で自粛生活をしましょう‼」「旅行に出かけて、観光業・飲食業の方を助けましょう‼」

と受け止めているのだと感じます。

でも、友人のつぶやきを聞いて思いました。

「ステイホーム」「GO TO キャンペーン」って、

「伏せ(待て)‼」「ゴー(行け)‼」ってことじゃないか# 

いつの間にか、国に、政府に手懐けられていました#

いやいや、手懐けられるのではなく、おかしいことにはおかしい!と訴えなければ‼

でないと、気づいたときには首輪をつけられてしまいます⁉

7月12日「声に出せることの有り難さ」の投稿で書きましたが、いつのまにか、もうすでに、私たちは監視社会の中に含まれています。

「ステイホーム」「GO TO キャンペーン」など、小泉首相以降の、分かった気持ちになるワンフレーズに騙されてはいけません。

そのうち、「Don't go against the country campaign」(国に逆らうなキャンペーン)なるものが始まってしまうかもしれません。

それでもまだ、「国は私たちの見方です」なんて受け止め方をするのでしょうか?

「ステイホーム」「GO TO キャンペーン」は、「このままでいいのか? よく考えよう! キャンペーン」のつもりで受けとめたいものです。

2020年7月15日 (水)

私の生きている姿をたずねました 南無阿弥陀仏

2020年は、涼しいお盆を迎えています。

毎年お盆は汗ダラダラ、一日に何枚も襦袢を着替えたものです。

でも今年は、気温が低いだけでなく、新型コロナウイルスのため外参りもないので、作業着を着ての外掃除でしか汗をかきませんでした。

お盆らしくないお盆を過ごしています。

真宗会館のHPに「お盆法話」が配信されています。

私が生きている背景をたずねる」という講題でお話をさせていただいています。

ぜひご聴聞ください。

今日(7月15日)は、雨模様でお参りの方も少なかったです。

いわゆる、暇な時間を過ごしていました。

すると坊守が思い出したように「そういえば、あなたの法話が配信されてるのよねぇ。見せて!」と、恐れていたことを言い出しました。

断る理由もなく、居間でパソコンを立ち上げ、坊守と住職に「お盆法話」を聴聞いただきました。

 ☆

仏法聴聞は人生における「要・急」のことですから、聴聞いただくべきことなのですが、

実際、自分の話し声を聞き、話している姿を見るのは恥ずかしいものです。

心情としては、恥ずかしくて「ぜひ」とは言えません。

法話配信の前に、真宗会館の担当の方が丁寧に動画を編集してくださいました。

編集といっても、引用した文章を載せたり、難しい言葉を表記してくださったりという編集です。

話し中の空白の時間をカットしたり、言い間違えたところを差し替えたり、という編集は一切ありません。

「はい、お願いします」から「ありがとうございます」まで、話したまんまが配信されています。

配信に先立ち、「白山さん、動画の確認をお願いします」と、編集の終わった動画が送信されてきました。

自分の声を聞き、自分の所作を見ながら確認せねばなりません💧

私は、自分の声やしゃべり方にコンプレックスがあり、しかも、落ち着きのない性格です(通知表にいつも「落ち着きがありません」と書かれていました)。

先ずは自分の声を聞いてもんどりをうって、聖典に手をかけながら聖典を開かなかったり、お念珠を講台に置いたと思ったらまたすぐに手にしたりして、「落ち着きなさい‼」と自分に突っ込みを入れながらの動画確認作業でした💦

とはいえ、手は抜いてはいませんので、ぜひご聴聞ください。

ご聴聞いただいた皆様、ありがとうございます。

 ☆

(ここだけの話)

動画録画の朝、若坊守から言われました。

「あなたは、門徒さんに話しかけながら法話をするタイプだから、無聴衆法話は苦手でしょう。子どもたちの好きな人形を持って行って、目の前のイスに座らせてお話しなさい」(^▽^)

私の視線の先には、ピクルス(カエルの人形)が2匹座っていました(^-^)

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(注)無聴衆法話とはいえ、担当の会館職員さんがおふたり、聴聞してくださいました。ありがとうございます。

南無阿弥陀仏

 

2020年7月14日 (火)

ことばは、こころが花開いたもの

お盆の二日目を迎えました。

朝の掃除を終えると、電話が鳴りました。

昨日お参りに見えた方からの電話でした。

「昨日お参りさせていただいて、本堂の前の掲示板を見たんです。そのときは、書いてあることが分からなくて、写真を撮って帰りました。で、それからずっと考えているんですけど、お寺さんに聞いちゃえ!と思って電話しました」

本堂前の掲示板には、

「“私は正しい”という心が 善意という衣を纏(まと)っている」

「地獄への道は 善意で敷き詰められている」

という言葉が掲示されています。

その内容については、6月26日のブログで触れています。

確かに、普通に読んだら「?」な言葉かもしれません。

でも、「なにおかしなこと書いてるの?」「よく分からないから いいや」と、言葉とお別れしてしまうのではなく、一日かけて書いてあることの意味をたずねられるなんて、とても素晴らしいことです。

その言葉の意味や背景を熟考して、「こういうことを言おうとしているんじゃないかな?」「今まで自分はこういう考え方をしていたけれど、そういう考え方もあるなぁ」と想えたならば、そこに花が咲いたようなものです。

「ことば こころのはな」 このブログや寺報につけているタイトルです。

“ことば”というものは、“こころ”が花開いたもの。

自分のこころと向き合って、自分を飾らずに想いを表現する。こころのはなが、ことばという形で咲きました。

そのようなイメージで、タイトルをつけました。

本堂前の掲示板のことばを見て(読んで)、自分の頭の中で(こころの中で)考える。

自分なりに、いろんなことを想ったことと思います。

昨晩、いくつもの花が咲いたことでしょう。

そういえば、お電話をいただいた〇〇さんは、草木染をされている方でした。

頭の中(こころの中で)熟考して想ったこと(咲いたはな)は、〇〇さんの人生を表現した色として表われ出たものと思います。

言葉を大切にしていただいて、ありがとうございます(‐人‐)

2020年7月13日 (月)

擬人化されたものには見えていて、人に見えていないわけはない

2020年7月13日(月) 東京は、お盆の時期を迎えています。

毎年お盆の入りの日には、多くの方がお墓参りにみえます。

私は、毎年7月13日は一日中外参りに出ているので、お寺の様子を知りません。

けれど今年は、コロナのことを考えると、門徒さんのお宅にお邪魔する時期ではないと思い、すべてお断りしました。

よって、7月13日に一日中お寺にいるという、私にとっては珍しいお盆の入りの日を過ごしました。

春のお彼岸のお墓参りを見合わせた方が けっこういらっしゃって、「春に来れなかったけど、今日は思い切って来ました」(^▽^)

と、みなさん口をそろえたかのように、お参りできた喜びをお話しくださいました。

私も、久しぶりにお目にかかる門徒さんがいて、お話ができてとても嬉しかったです。

秋のお彼岸や報恩講の頃には、コロナを気にせずお参りできるといいですね(‐人‐)

さて、お参りに見えた方から、「これ読んでください」と、プリントをいただきました。

ヴィヴィアン・R・リーチさんという方が、新型コロナウイルスを擬人化して、ウイルスからの呼びかけの体で書かれた文章です。

ヴィヴィアン・R・リーチさんが、どのような方なのかは分かりませんでした。

書いてある内容は、ウイルスの擬人化という手法をとってはいますが、決してウイルスだけに見えているものではなくて、私たち自身が見ている風景(現実)です。

けれど、その現実に私たちは目をつむって生きています。

起きたまま寝ている私のことを、「起きて、起きて」と揺さぶっている文章に感じました。

ネットで調べると何種類もの和訳がありました。私がいただいたプリントの文章を書かせていただきました。

 ☆ ☆ ☆

コロナウイルスから人類への手紙

地球は囁いたけれど、あなたには聞こえなかった。
地球は話したけれど、あなたは聞かなかった。
地球は叫んだけれど、あなたは耳を塞いだ。

そして、私は生まれました。

私はあなたを罰するために生まれたのではありません。
私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。
地球は助けを求めて叫んびました。

大規模な洪水。しかし あなたは聞かなかった。
厳酷な火災。しかし あなたは聞かなかった。
猛烈なハリケーン。しかし あなたは聞かなかった。
恐ろしい竜巻。しかし あなたは聞かなかった。
それでもまだ、あなたは地球の声を聞こうとしない。
海の生き物が、水中の汚染物質によって死んでいきます。
氷山は、すさまじい速さで溶けていきます。
厳しい干ばつ。
どれだけ地球がひどい危機にさらされていても、
あなたは聞こうとしなかった。

終わりのない戦争。
終わりのない貪欲。
あなたはただ自分の生活を続けるだけだった。
どれだけそこに憎しみがあろうと
毎日 どれだけ人が殺されようと
地球があなたに伝えようとしていることを心配するより
最新のiPhoneを手に入れることのほうが
あなたには大切だった。

だけど今、私がここにいます。
そして、私は世界を一気にストップさせました。

やっと私はあなたに耳を傾けさせました。
私はあなたに避難を余儀なくさせなした。
私はあなたに物質本位な考えをやめさせました。
今、あなたは地球のようです。
あなたは自分が生き残ることだけを心配しています。

どう感じますか?

私は あなたに熱を与えます。
地球で起こる火災のように。
私は あなたに呼吸器障害を与えます。
地球の大気汚染のように。
私はあなたに衰弱を与えます。
地球が日に日に衰弱していっているように。
私はあなたの安らぎを奪いました。
あなたの外出。
あなたのいる地球と、地球が感じている痛み
そして私は世界をストップさせました。

そして今・・・
中国の大気質が改善しました。
工場が大気に汚染を吐き出さなくなったことにより、
空が澄んだ青色です。
ベニスの水が澄んでイルカが見られます。
水を汚染するゴンドラを使っていないから。
あなたは 自分の人生で何か大切なのか
深く考える時間ができました。

もう一度言います。
私は あなたを罰しているのではありません。
私は あなたの目を覚まさせるために来たのです。
これが全て終わり、私がいなくなったら、
どうか これらの時を覚えていてください。
地球の声に耳を傾けてください。
あなたの魂に耳を傾けてください。
地球を汚染するのをやめてください。
争いごとをやめてください。
物質的なものに執着するのをやめてください。
そして、あなたの隣人を愛し始めてください。
地球と、その全ての生き物を大切にし始めてください。

なぜなら、次回、私はもっと強力になって
帰ってくるかもしれないから・・・

          コロナウイルスより

2020年7月12日 (日)

声に出せることの有り難さ

夕刻のニュースにて・・・

【「香港国家安全維持法」の撤回訴え 東京でデモ行進】のニュースを報道していた。

香港における反政府的な活動を取り締まる、中国による「香港国家安全維持法」。

中国への反政府的な言動が監視され、香港においては逮捕される可能性もあり、外国に滞在している間の活動も監視・マークされ、香港や中国に入った場合には逮捕されることもある。

ニュースでは、

『香港国家安全維持法では「香港以外で行った犯罪にも法律が適用される」』と、サラッと紹介していた。

え!? 「香港以外で行った“犯罪”」と言ったけれど、

その“犯罪”は中国政府への反政府的な態度を指している。

つまり、中国政府批判が、もうすでに“犯罪”であると、日本のニュースがサラッと言ってしまったのだ。

政府への批判は、“犯罪”ではない。

「おかしい!」と思うことに対しては、思ったことを述べていいはずだ。また、述べなければいけない。

(「述べる権利がある」というような、“権利”を使う言い方は好きではないので、上記の表現に留めます)

にもかかわらず、中国政府批判は=犯罪であると認めてしまっているかのような報道。

「そうではありません」ということを、日本の報道はすべきではないか。

しかし、香港で今起きていることは、他国の出来事として済ませられることではない。

たとえば、コロナウイルスの自粛が解除され、ニュースでは新宿・池袋・品川など、人の出入りの変化を当然の如く解説している。

それを聞いて、「人の動きが激しくなると、感染者数が増えるね」などと当然の如く感想をいう私たちがいる。

人の動きは、スマートホンのGPSから読み取られている。

つまり、日本に住んでいる私たちも、ある意味すでに監視されている。

今は、ルールを守ってビックデータを活用することになってはいるが、実際は分からない。

日本政府が、「国家安全維持法」やそれに準ずるものを施行しようとする日もくるかもしれない。

そうすると、「おかしい!」と思うことに、私たちだって声を挙げられない世の中になってしまう。

香港で起きている出来事としてみて、「気の毒だね」「中国はひどいね」「香港から出て行けばいいんじゃない?」などという感想で済ませていいのだろうか?

近々私たちが言われる日がくるかもしれない。

香港の、中国の、日本の動静を知ることは、大切なこととなる。

 ☆

そして、そのニュース番組では引き続いて、「アイヌ文化の発信拠点「ウポポイ」オープン 北海道 白老町」というニュースを発信した。

北海道白老町でアイヌ文化の発信拠点となる国立施設「ウポポイ」が、12日、オープンしました。オープンした「ウポポイ」には、北日本で初めての国立博物館などが整備され失われつつあるアイヌ文化を復興。発展させる拠点としての役割が期待されています。
「ウポポイ」が、アイヌ語で「大勢で歌うこと」という意味で、明治時代以降に本格化した、いわゆる同化政策の影響で差別や偏見に苦しんできたアイヌの人たちにとって重要な施設となります。

との報道。

ここでもサラッと「同化政策の影響で・・・」と述べ、先に進んでいきました。

ゾッとしました。

「ウポポイ オープン」のニュースの前に、香港のニュースを報じていたわけです。

大きな国、大きな権力からの一方的な圧力によって、民衆の、発言や集会の自由、そして生命そのものが脅かされている現状を報じました。

次に、「同化政策の影響で差別や偏見に苦しんできたアイヌの方々」について触れました。

で、あるならば、現代(いま)中国がしていることを、日本政府もしてきた過去があるという目線があってもよかったのではないでしょうか。

日本政府がしてきたといっても、政府の一部の人間がしたこと、という受け止めではなく、「私たち自身の過去として」という記録・記憶が大切なことです。

また、アイヌの方々だけでなく、他国を統治し、そこに住む人々の言葉や名前を奪い、人を人として見てこなかった歴史もあります。

そのことは、消すべき過去ではなく、心に刻み続けるべき記憶です。

でなければ、せっかく「ウポポイ」がオープンしても、「アイヌの方々は大変な苦労をしてきたんだね」と、他人事で終わってしまいます。

他人事の目線では、大切なことを見失います。忘れてしまいます。

だから、「アイヌの人たちにとって重要な施設となります」という報道になってしまうのです。

アイヌの人たちにとって、ではない、私たちにとって重要な施設です。

過去を知ることは、現代(いま)にとっても、未来にとっても大切なこととなる。

看過できない報道だったので、一言書きました。

2020年7月11日 (土)

紫の 絵の具

「東京新聞」 2020年7月9日(木)朝刊 「私の東京物語」より

太郎先生の絵の具 ジミー大西さん(タレント、画家)  (全10話中の第7話)

絵描きになるなんて、考えたこともありませんでしたが、僕が描いた絵を紹介するテレビ番組があって、放送後、手紙をもろたんですよ。驚きました。あの、岡本太郎先生からなんです。

キャンパスからはみ出しなさい

手紙の言葉は、どういうことなんだろう。模索しながら、芸人の仕事をしつつ、絵も描き続けていました。

ある時、ロケでインドへ行き、「ミティラー画」を見ました。パブロ・ピカソが感動したという絵なんです。太郎先生もピカソを見て涙を流したと聞いたんで、ピカソが涙を流した絵を見たかった。そこで出合った砂曼荼羅(すな まんだら)を、絵に描いたんです。

その絵を太郎先生に見てもらいたかったんですが、太郎先生が亡くなられたんです。ショックでした。この絵を奉納して、それで絵を辞めよう。そう思って、南青山の太郎先生のご自宅をお訪ねしました。娘の敏子さんが「あなたの絵を見て、すごくにこにこしていたわよ」と、先生の話をたくさんしてくださいました。アトリエに案内されたら「形見分けで、何か持っていきなさい」って言うてくれたんですよ。紫の絵の具と、筆をいただいたんです。紫を選んだのはたまたまなんですけど、僕、それまで紫は、他の色との掛け合わせが難しくて、使っていなかったんですよ。紫を使いこなさなあかん、という太郎先生のメッセージなのかなと思って、その後は、絵に紫を入れるのが、僕の大きなテーマの一つになりました。でも、太郎先生の絵の具は、いまだに使っていません。

著名人の、東京に出てきた頃の物語を、10話ずつ連載されている「私の東京物語」。

ジミー大西さんの文章は、読んでいると そこに書かれている風景が膨らんでくるかのようです。

岡本太郎先生とのエピソードに、特にこころ打たれました。

ジミー大西さんは、「絵の才能があるんじゃないの!?」と言われる前から、絵を描き続けていらっしゃいました。

その絵が番組で紹介され、岡本太郎先生の目に留まりました。

そして、岡本太郎先生からの手紙には、「キャンパスからはみ出しなさい」と書かれていました。

あぁ、素敵なやりとりだなぁと思いました。

岡本太郎さんの意図と、ジミー大西さんの受け止めがどのようなものだったかは、ふたりのみぞ知る世界でしょうね。

キャンパスからはみ出しなさい」って、温かいなぁ。

岡本太郎先生とジミー大西さんの結びつきは、必然だったのでしょうね。

最初に新聞を読んだときは、そこの部分の出合いだけに目が行っていたのですが、それだけではなく、

ミティラー画を見て感動したピカソ

ピカソの絵に涙した岡本太郎

ミティラー画の砂曼荼羅を見て、それを絵にしたジミー大西

絵を見てもらうことかなわず、先往かれた岡本太郎さん

もう絵を辞めようと思っていたら、岡本太郎さんの娘さんから形見分けをしてもらい、もらった紫の絵の具と筆

そこから始まる紫との格闘(格闘か、協調か、受容か…)

この日のエピソードには、数えきれないほどの出合いがあるのですね。

ジミー大西さんの絵を紹介した番組とは、上岡龍太郎さんのEXテレビじゃないかなぁ?

当時、その番組を見ていました。オークションで、多分笑いの要素としてジミー大西さんの絵を出品したのですが、たしか番組内での最高値がついていた気がします。

そこから、ジミー大西さんの画家としての評価が見いだされました(もちろん、複合的な要素があってのことでしょうけれど)。

上岡龍太郎さんも、ジミー大西さんの絵を見ていて、「けっこういけるんちゃうか」と想ったのではないだろうか(想像です)。

結果、その番組を見たか伝え聞いたかした岡本太郎先生の目に留まり、背中を押してもらった。

また、ジミー大西さんのこの連載を読んでいると、明石家さんまさんが多く登場します。

彼にとって明石家さんまさんは、多くの影響を与えてくれた人物だったようです。

周りからバカにされるジミー大西さんの、良いところ 良いところを引っ張り出して、前を向いて生きることを進められているように伝わってきます。

あぁ、人生は、いろいろな出合いによって成り立ち、私が私となっているんだなぁと思いました。

とっても奥行きのある物語です(決して、批評して言っているのではなくて)。

ジミー大西さんの文章、紙面からあふれ出て居ます‼

2020年7月10日 (金)

人は、いろいろなことばを発する。あんなこと、こんなこと・・・。でも、それらのことばは、根っこの部分でつながっている。

7月の寺報を読んだ方から、感想をいただきました。

蓮如上人の「白骨の御文」と「疫癘の御文」、ただ読んでいると、なかなか受け入れがたいことを書かれているのですが、寺報に書かれている文章を読んで、突き刺さりました。

「白骨の御文」…朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり。

朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。

「疫癘の御文」…疫癘によりて はじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。

(伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。)

これだけ読むと、確かに受け入れがたい文言です。

蓮如上人という人、そのお仕事をちょっとだけでも知っているから読めるのであって、まったく知らない人であったり、お他宗の信者さんだったりしたら、読めないでしょうね。

今月の寺報を書くにあたり、先ずは山門の掲示板に掲示する言葉を選びます。

7月は、その蓮如上人の言葉「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。」にしようと決めました。

で、6月中はその草稿を書くことから始まり、20日頃には書きあがっていました。

で、月末に、寺報の仕上げをしようと読み返したら、その文章がまったくつまらなくて、ゼロから書き直しました。

「仏さまの教えに出会ったものにとって、明日ということはないんだ」という言葉、それはつまり「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」じゃないか!

それはつまり、人の死とは、死因はいろいろあるかもしれないけれど、根本の因は生まれたことにある、ということじゃないか。

そのことを蓮如上人は、「疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり」と仰っているじゃないか!

と、思い至り、ふたつの御文も紹介させていただきました(破棄した文章に、ふたつの御文はなかったんですね💧)。

それとともに思い浮かんだのが、お釈迦さまからの問いかけ「あなたは、あとどれくらい生きられると思いますか?」

「あと何年かは大丈夫だろう」「来年の今頃は、まだ生きてるでしょう」「まだしばらくは生きていられるだろう」と、長さの違いはあれ、「まだ〇〇くらいは生きられる」と考えます。

でもお釈迦さまは、「今吸った息が、出なくなったら終わりのいのちですよ」と説きます。

蓮如上人も、お釈迦さまのそのお話は知っていたのではないでしょうか。(知らなかったかな💧 本当のところは分かりませんが)

だから、「まだ生きられるいのち」ではなく、「今日限り(今この瞬間)のいのち」「死ぬのは、生きているから(生まれてきたから)こそ」という想いが湧いて出たのだと思います。

紹介した蓮如上人のふたつの御文は、蓮如上人自身の いのちの受けとめです。

お釈迦さまの説教をはじめ、法話は、語り手だけでは成り立ちません。

聞き手(受け止め手)がいてこそ、説教であり、説法です。

蓮如上人は、お釈迦さまの時代から時を経て、お釈迦さまの説教の聞き手(受け止め手)となり、御文の筆を執られました。

私も私なりに、蓮如上人の言葉と御文とにらめっこして、感じたことを書きました。

そして、私(白山)の書いた文章を通して、今までは受け入れ難かった「御文」が自分の中に突き刺さったという感想をいただき、とても嬉しく思いました(私の書いたこと、私の思ったことが、正しい!という意味ではなくて)。

 ☆

さて、受け入れがたい言葉という意味では、蓮如上人も、親鸞聖人も、お釈迦さまが発した言葉にも、受け入れ難い言葉があるのではないでしょうか。

現代で言えば、政治家は、受け入れ難い言葉を発する方の宝庫です。

よくもまぁ、そういうことを言えるなぁということを、あっさりと言ってしまいます。

そこで、政治家(に限らないけれど)の失言を取り上げて、報道やSNS上でバッシングが起きます。

バッシングは起きてしかるべきですが、失言(とされる発言)を取り消してお詫びするように迫るのは、ちょっと違うなぁと思っています。

発言は、その方の知識・思想・交友関係などから湧いて出てくるものです。

つまり、その人自身です。

それを聞いた者は、失言とされる発言を取り下げさせるのではなくて、「この人は、こういう考え方をする人なんだ」ということを覚えておけばいいのだと思います。

それが、次の選挙で結果として表われるのですから(いや、表われないか💦)。

それに、「発言を取り消せ!」と言って、取り消して謝罪するために出てきたのかなぁと思ったら、

「私の発言によって不快な思いをさせてしまいましたら、お詫びします」って、発言のどこがいけなかったかを省みてのお詫びではなくて、「もし不快な思いをする人がいたのなら(そんな人いるんですか?)お詫びしておきます」ということを言いだす始末。

あるいは、「発言の一部だけ抜き出して批判するのはやめてください。言ったことの全てを読んでいただければ、あなたたちが言うような問題発言ではないことを分かっていただけますから」って、発言のすべてを読んだら(聞いたら)、もっと問題があるじゃないか!という発言もあったりします。

確かに、その人の そのときの発言・コメントを全部読む(聞く)ことは大切です。

新聞やネットニュースで知りうる発言・コメントは、一部抜粋です。

でも、現代は、発言の全体が動画で見られたり、全文を文章に起こしてくださる方もいます。

全文や、あるいはその人の普段からの発言を知ることをせず、一部抜粋の言葉でもって叩くのは、とても危険です。

たとえば、〇さんはAという思想・信条・理想などを持っていたとします。

Aの大切さを訴えるために、「今の世の中Aが大事です」「〇〇の成功のためにはAしかありません」「Aでもって、世のなかを良くしていきましょう!」と、Aを連呼して訴える場合もあります。

けれど、「Bでは、どこどこがダメなのです」「Bでは成功はありえません」「Bが世の中に最悪をもたらすのは目に見えています」と、Aとは違うBを否定することによって、Aの良さを引き立てる言い方もあります。

でも、後者は、Aの良さを引き立たせる効果があるかもしれませんが、中途半端に聞かれると、Bの良さを言っているようにも聞き取られることがあります。

聞き手の問題もあるものです。

ある先生の法話を聞いた方から「〇〇先生って、こういうこと言ってたんですよ! 見損ないました!」みたいな感想を言われたので、「え、その先生は そんなこと言うはずないのに…」と思って、録音されたものを聞いたら、やはり聞き手の聞き間違いだったことがありました。
先生は、否定の否定で強調する言い方をされていたのですが、聞いた方にとっては、否定した部分しか耳に残らず、「そんなことを言うんだ! 見損なった!」となったのでした。

語る方の責任の重大さは当然のことですが、聞く方も真剣に聞かなければいけません。

 ☆

あ、長くなりました。

蓮如上人も、親鸞聖人も、お釈迦さまも、たくさんのお話を説かれています。

もちろん、中には受け入れ難い表現、耳障りの良くない言葉、「ちょっと何言ってるかわからないんですけど」と思うセリフもあることでしょう。

けれど、そこで拒否感・嫌悪感を抱いて終わってしまうのではなくて、その他の発言・言葉を読むことによって、「あぁ、そういうことを言ってたんだ!」「あぁ、こういう考え方のうえで、こういう言葉を言われたんだ!」「ふ~ん、ああいうつもりで、あのような表現をされたんだなぁ」という気づきがあります。

その人が発する言葉は、根っこでつながっています。

ひとつの言葉、一側面の言葉(私と話すときの言葉)だけで 言葉の意味、発言主の想いを考えるのではなくて、

複数の言葉、他側面への言葉(私以外の人に発した言葉)にも触れて、言葉の意味、発言主の心の奥底に思いを馳せるということが大切なことではないでしょうか。

7月の寺報の感想をいただき、お風呂に入りながら、上記のようなことを思い巡らせていました。

南無阿弥陀仏

2020年7月 9日 (木)

言い換えるということの意味

7月3日の投稿「世の中はレシピ通りにはいかない」の文章中、

文章の表現上「障害者」「健常者」という言い方をしましたが、私は、そのような区別はないものだと考えています。誰もが日によって体調が違うように、ひとり一人の体調やからだの特徴も違います。けれど、それは決して障りとなるものではありません。今日の文章を読んで、不快に感じられる方もいるかもしれません。申し訳ありません。

と、注意書きをしました。
「障害者」の表記については、今までにさまざまな議論がなされ、「障碍者」や「障がい者」などへの言い換えがなされてきました。
私は、その言い換えにどのような意味があるのだろう?と感じています。明確な意図・意思があっての言い換えならば良いのですが、クレームが来ないようにするための言い換えに見えることもあります。言葉の言い換えだけでは済まない、私たちの心根の問題です。

常々そういうことを思っているのですが、今週の「週刊金曜日」(2020年7月3日号 1287号)の読者からの投稿のページに、『「障害者」に代わる呼び名を考えよう』のタイトルで、以下の文章が掲載されていました。

前略)
『広辞苑』では「障害」の意味について「①さわり 妨げ じゃま ②身体器官に何らかのさわりがあって機能をはたさないこと」と解説されています。この①と②の意味は、同義の内容であり、共通の概念でしょうか? 概念が違えば別な表記になるのが漢字文化の基本です。
実は、55年の初版では①の概念しかありませんでした。②の概念は、91年の改訂4版で突然、後付けされたものです。 ①の概念から②の概念を連想することもできませんし、違う概念を一つの言葉にすること自体が矛盾で、漢字文化の否定につながります。その矛盾から、②を意味するときは「障がい」の表記を使用すべきだとの不毛な「言い換え」論議が生まれたように思います。
(中略)
ただ最近、インターネットで ある当事者からの「障害者、という言葉に代わる、あたらしい呼び名の創造を」と題した投稿を見つけました。当事者から「障害」に真剣に立ち向かい、本質的な議論が提起されたことをうれしく思いました。
(後略)

脳性麻痺の方の療育に長きにわたって関わってこられた方からの投稿です。

まずは、『広辞苑』の内容に驚くとともに、「障害」の意味として書かれている①と②の内容の矛盾や乖離は、ちょっと考えれば分かることなのに、なんの疑問も持たずにいた自分を恥ずかしく思いました。
漢字だけでなく、言葉は、複数の意味を持ちます。けれど、それら複数の意味は、まったく意味内容が違うわけではなく、関連性があります。あるいは、関連性のない、元々はなかった意味が生まれるには、歴史的背景などがあります。

『広辞苑』の初版にはなかった②の意味が、36年後の改訂4版で後付けされているということは、その36年の間に、身体器官に何らかのさわりがある人を、どのように呼びましょうか?という議論があったことと思います。そして、元々あった「障害」という言葉に重ね合わせた。その議論の場にいたのは、いわゆる「健常者」と呼ばれる人たちだけだったのではないでしょうか。
と、私の想像の域を出ませんが、身体器官に何らかのさわりがあることを、そうではない人が「障害」と受け止めていた。その思い込みが②の意味を生み出し、定着してしまったのではないでしょうか。

そもそも①の意味としての「障害」を持っているわけではないのに、身体器官に何らかのさわりがあることを「障害」と見立てた。出発点が間違っているのに、「障害者」という言葉を基準にして「障碍者」「障がい者」と言い換えをしても、本質はまったく変わりません。私が持っている優性意識や差別意識が問われることがありません。

「障害者」に代わる呼び名を考えよう
という呼びかけは、単に呼び名を考えるというだけの話ではありません。私が持っている優性意識や差別意識を問うことから始まります。

大切な気づきをいただいた投稿でした。ありがとうございます。

2020年7月 8日 (水)

はだかで出発する

 はだか    武部勝之進
いつもはだか
いつもはだか
はだかで出発する
尊いことだ

 

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、自粛という名の抑圧が生活を覆い、家庭だけでなく、仕事の面においても今までとは違う様式を模索している状況にある。

でも、私たちは、私たちに先立って生きておられた方は、より良い生活、より良い環境、より良い社会を求めて人生を築いてきた(結果、どうなっているかは別にして)。

すると、「今までとは違う様式」と言っても、「今」を前提として、「今」を基準として、「今」を最低限のレベルとして、「今までとは違う様式」を模索してはいないだろうか。

ゼロベースからの出発、というわけではないけれど、

いつもはだか いつもはだか 

迷ったときは、いつもはだかの状態に戻って考える、動くということがとても大事だと思います。

とても難しいことだけれど。

途中まで作っていたものを、その状態のままから、今まで作ろうとしていたものと違う方向性で進むのと、

途中まで作っていたものだけど、一回壊して、ふりだしに戻して、今まで作ろうとしていたものと違う方向性で進むのと、

結果的にはどっちがいいだろう。

もちろん、結末・結論なんて分からないことだけれど、

でも、「今」や「今まで」に囚われすぎて身動き取れなくなっている状態にあるなぁと、思っています。

はだかで出発する 尊いことだ 南無阿弥陀仏

2020年7月 7日 (火)

念仏申すそのとき、いつも一緒

7月7日という命日は、記憶に刻まれます

1年が経ちました

一年前の7月7日も、雨が降っていました☔

会合中に訃報が入り、中抜けしてお寺へ駆けつけました

気持ちを紛らわすために、車内で、フルボリュームで音楽をかけながら🚙

もう一年なのか、まだ一年なのか…

確実に時は移ろうている

今朝は、いろいろなことを想い起こしながら、お朝事をお勤めしました

あぁ、私のことをちゃんと見ていてくれて、気にしてくれていた人でした

うん、居場所を与えてくれた人だなぁ

ありがとうございます

南無阿弥陀仏

2020年7月 6日 (月)

がんばる

九州各地の豪雨で被災されている皆様のご無事を念じています。

 ☆

日中、お世話になっている仕出し屋さんの店長が、夏の挨拶に来てくださいました。

お寺は、法事そのものが減っているうえに、法事後のお斎(おとき…お食事)を現在休止しています。

なので、3月以降、仕出し屋さんにお仕事をお願いすることもなくなってしまいました。

仕出し屋さんも、コロナによる自粛期間中、ほとんど仕事がなかったそうです。

でも店長さんが、「元気に頑張っています! その姿をお見せしたくて‼」と、訪ねてきてくださいました。

お話ができて嬉しかったです。

 ☆

私は、「がんばる」という言葉が好きです。

最近は、「がんばっている人に、これ以上何を頑張れというのか!?」という声が出るように、「がんばる(がんばれ)」という言葉の使いどきを考えねばならない時代です。

でも、「がんばる」は、「我を張る」から来ているという説があります。

「我を張る」。つまり、「自分の意思を貫く」ということでしょうか。

動き続けること、前を向き続けることだけが「がんばる」ではありません。

がんばって、くじけたって、凹んだって、休んだっていいんです。

そのことも、立派に「我を張る」ことです。

また、「がんばる」は、「顔晴れる」から来ているという説もあります。

「顔晴れる」。つまり、「笑顔」ということでしょうか。

たしかに、しんどいときに笑顔でいることはつらいです。

しんどいときに笑顔をつくる必要はありません。

でも、私は「カラ元気も元気のうち」って言葉も好きで、自分が暗い顔しているなぁって思った時に思い出しています。

「カラ元気も元気のうち」 たとえカラ笑顔であっても、それもまた笑顔のうち、です。

「顔晴れる(笑顔)」の状態でいれば、いつか心の底からの笑顔になります。

「我を張る」も「顔晴れる」も、「自分として生きていく」ということだと思います。

「がんばれ!」という声が耳障りだったら、「俺は、がんばっているよ! お前もがんばれよ‼」と言い返せばいいと思います。

それもまた、がんばっている姿です。

私は、「がんばる」という言葉が好きです。

 ☆

「私たちもがんばっていますので、これからもよろしくお願いします」の店長の声から力をいただきました。

「こちらこそ、これからもよろしくお願い致します。ありがとうございます」

お互い顔晴れ(笑顔)でした。

南無阿弥陀仏

2020年7月 5日 (日)

自分で自分の身を守る

2020年7月5日(日) 朝早く 東京都知事選挙の投票に行ってきました。

期日前投票も多かったと聞きますが、今朝も、多くの方が投票所に来ていました。

密を避けるために、早く来られたのでしょうか。

投票記入の鉛筆は、記入台の上に置きっぱなしではなく、投票用紙をもらう横に「一本お持ちいただき、使ってください」と並べてあり、投票箱の横に返却ボックスがありました。

鉛筆を拭いてくれる方がいるのですね。

誘導の方も、本人確認の方も、投票用紙を渡す方も、立会人の方も、鉛筆や記入台を拭いてくれる方も、皆様ありがとうございます。

政府も都知事も、これ以上自粛を呼びかけるつもりがなく、「自分で自分の身を守るための行動をしてください」旨語り始めました。

「自分で自分の身を守るための行動」は、コロナ対策だけでなく、選挙に行って投票する(あるいは自身が立候補する)ことこそ、自分で自分の身を守ることに通じます。

だいたい、こんなときに衆議院解散 選挙の噂が立つなんておかしな話だと思います。

任期を全うして し尽す仕事が目の前にあるというのに。国会も閉会しているし!

もし選挙になんてなったら、それこそ自分で自分の身を守るために投票に行きましょう。

2020年7月 4日 (土)

西蓮寺新盆法要2020

2020年7月4日(土)

例年ならば、7月の第1土・日曜日は「西蓮寺新盆法要」。

けれど本年は、コロナ感染拡大防止の観点から中止。

寺の人間のみで新盆法要をお勤めさせていただきました。

ご本尊(阿弥陀さま)の前でお勤めして、

今年新盆を迎えられる方々の法名前に移動して、亡くなられた皆さんの法名の前でお勤めして、ご遺族の皆様に代わってお焼香させていただきました。

法名を前にし、ひとり一人とのお顔とお付き合いを思い返していました。

それぞれの関係を結んできましたが、誰一人欠けても、今の私はいません。

ありがとうございます。

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今夏「新盆法要」を迎えられるご遺族には、「新盆法要は行いませんが、7月4日(土)午前11時より お勤めを致しますので、時間はいつでもかまわないので、お内仏(お仏壇)の前で手を合わせてください。」のお手紙を差し上げていました。

今朝、ご遺族のうちのお一人から、「私も、午前11時にお参りさせていただきます。よろしくお願い致します」とお電話をいただきました。

昼過ぎ、「今日は月命日だから」と、お墓参りに見えた方がいました。

「ようこそお参りくださいました。ちょうどよかった、本堂の法名軸の前でお焼香して行って!」とお誘いしたら、嬉しそうにお焼香をされていました。

人と人とのつながりは、「死んだら終わり」と言う人もいるけれど、「いや、亡くなったって続くんだよ。それが人間関係だよ」と、電話をくださった方、お墓参りにみえた方から、教わりました。

南無阿弥陀仏

2020年7月 3日 (金)

世の中はレシピ通りにはいかない

2020年7月3日(金)テレビ番組、TOKYO MX「モーニングCROSS」視聴。

今朝のゲストは、網屋信介さん (了徳寺大学客員教授/元衆議院議員)と中嶋涼子さん(車いすインフルエンサー)。

番組内オピニオンクロスのコーナーでは、ゲストの方が、自身の専門分野の知見から現代社会で起きていることを解説します。

中嶋涼子さんは、9歳のときに突然歩けなくなり、原因不明のまま下半身不随になり、車椅子の生活をされるようになりました。車椅子インフルエンサーとして、車椅子生活者の視点から、社会にメッセージをはっしていらっしゃいます。

今朝は、「障害者を一括り(ひとくくり)にしないで」というテーマでお話をされました。

録画していないので、彼女の正確な文言は記せません。以下の文章は、彼女の話を聞いて、私なりに受けとめたことを書きました。

私たちは、「障害者」といったとき、思い浮かべるイメージがあるのではないでしょうか。

中嶋さんのように車椅子に乗っていれば、「あ、障害を持っておられるんだな」と認識します。

見た目で判断しているところがないでしょうか?

けれど、見た目では分からないけれど、障害を持ってられる方もたくさんいます。

モーニングCROSSに度々出演されるゲストの方が、心の病を患いました。

ある場所に出かけ、車椅子の絵の描いた駐車コーナーに車を停めていたところ、注意を受けたそうです。

テレビで拝見するかぎり、自分の意見をハッキリと語られるので、外見上は健常者と変わりありません。

障害者ではないのに、停めてはいけないところに駐車した!と、注意した人には見えたことでしょう。

けれど、外見では分からない障害もあるのです。

車椅子に乗っている人も、まったく歩けなくて車椅子に乗っている人もいれば、からだが疲れやすい病気ゆえ、体力温存のために車椅子を利用する方もいます。必要な時には立って歩くことができます。けれど、そういう病気だということを知らない人からみれば、「歩けるのに、なんで車椅子乗ってんだよ!」と思うことでしょう。

中嶋さんのお母さんが、中嶋さんを乗せて運転し、車椅子の絵の駐車コーナーに車を停めます。でも、彼女が仕事や買い物の為に車を離れれば、お母さんは、健常者にもかかわらず車椅子の絵のスペースに車を停めている人がいる!と見られてしまいます。実際、怒られたこともあるそうです。

見た目だけの判断では、障害者なのか健常者なのか分からないことの方が多いのです。

けれど、私たちは、自分のなかのイメージで判断してしまい、障害を持った方にきつく つらく当たることがあります。

「障害者」というひと括りで見るのではなく、ひとり一人みんな違うという見方をしてほしい、ということをお話されていました。

(注)私の記憶で書いています。中嶋さんが言おうとしていたことと違うかもしれません。また、文章の表現上「障害者」「健常者」という言い方をしましたが、私は、そのような区別はないものだと考えています。誰もが日によって体調が違うように、ひとり一人の体調やからだの特徴も違います。けれど、それは決して障りとなるものではありません。今日の文章を読んで、不快に感じられる方もいるかもしれません。申し訳ありません。

 ☆ ☆ ☆

今朝、モーニングCROSSで、中嶋涼子さんのお話を聞きました。

昼間、今週号の『週刊金曜日』(1287号)を読んでいたら、中島岳志さんの文章に出会いました。

料理研究家の土井義晴さんと対談させていただいた。土井さんは、料理番組などでレシピを提示しながら、レシピを解体しようとする。食材は、収穫されてからの時間や季節、保存方法などによって状態が異なる。食材に触れたり、見たりしなければ、料理方法を決めることができない。均一化された分量や火加減を提示することには意味がない。設計主義を超えて、自然と交わることの重要性を説く土井さんに、多くのことを気づかされた。家食からポストコロナの世界観を考えたい。

中島岳志さんと土井義晴さんの対談って、先ずその設定が面白いなと思いました。

料理番組や料理本では、料理のレシピが表示されます。

けれど、食材自身の体調(^^)によって、調味料の分量や火加減、適した料理法は変わります。

体調を読みとる 感じ取るためには、実際に触れたり、見たり、嗅いだり、あるいは少しかじったりしなければ分かりません。

ですから、料理番組としてレシピは提示しますが、食材を知ることもせずにレシピに忠実であってはならない!と、土井先生は教えてくださったのだと思います。

料理の食材に限りません。

「この方は、障害があるから、このように接してあげればいいのね」

「この方は元気そうだから、自分でできるわね」

などと、型にはめた対応では、目の前の人を思っていることになりません。

自分自身のことを思い返してみても、一日のうちで体調の変化や気持ちの変化があります。

天気によっても変わりますし、人間関係によっても変わります。

たった一言で元気をもらうこともあれば、傷を負うこともあります。

「あの人は障害があるから手伝ってあげなきゃ」

「あの人は自分でなんでもできる人だから、手を出してはいけない」

と決めつけるのではなく、(気安く触るわけにはいきませんから)顔色を見たり、お話してみたり、からだの動きを気にかけたり・・・その“人”を知るために、できることはたくさんあります。

私自身も、体調も気持ちも変わります。

自分のことで精いっぱいなときもあれば、お手伝いできるときもあります。

自分自身の事も、自分で自分を尋ねることを忘れてはいけませんね。

 ☆ ☆ ☆

今日は、中嶋涼子さんと中島岳志さんから、大切な気づきをいただきました。

設計主義とは、「社会とはこうあるべきだ!」とか「こうすれば良い社会になる!」とか、思い描く(設計する)ことです。

けれど、その設計図通りに事を進めようとしても、政治を行おうとしても、そこに生きる人びとを見なければ、知ろうとしなければ、

仮にどれだけ立派な設計図が描かれていたとしても(現代の政治が描いている設計図はろくなものではありませんが)、設計図どおりの物はできません。

人を見て、人を感じ、人を知り、設計図を見直す(レシピを解体する)ことが大切です。

ポストコロナ(コロナ収束後)の世界も、“人(いのち)”を感じ取りながらの生き方が求められます。

南無阿弥陀仏

2020年7月 2日 (木)

人間は、慣れると、危機を忘れる

6月30日に「2020年も折り返しですね」

7月1日に「2020年も後半に入りました」

なんて書きましたが、今年は閏年(うるうどし)。

2月29日がある分、7月2日からが後半だそうです。

まぁ、ことの厳密性はおいとして、2020年もすでに折り返しています。

例年なら「もう折り返しか、早いねぇ」なんて会話をするところですが、

今年は「早くコロナが収束しないかなぁ」と、頭のなかはコロナが占めています。

お昼過ぎ、東京都のコロナ感染者が100人を超えたと、ニュース速報が流れました。

ちょうどテレビに出ていたお医者さんも、5月2日以来の100人越えに驚いていました。

「私の感覚ですと9月に入ってから、早くても8月の終わりころに100人を越えると思っていました」

って、いづれにしても100人を越える日はまた来るという確信はあったのですね。

人の動きが大きくなると感染者も増える。

そのことは肝に銘じておかなければいけません。

「東京アラート」は、その意味があるのか?などと批判を受けて、結果廃止されました。

けれど、「警報」というか、「危機意識の喚起」という意味では「東京アラート」の発動に意味はあると思うのですが。

6月2日、新型コロナウイルス感染者 34人 東京アラート発動

7月2日、新型コロナウイルス感染者 107人 東京アラート発動せず

慣れは、怖い(慣れたわけではないけれど)。

2020年7月 1日 (水)

2020年7月のことば

2020年も後半に入りました。
外出自粛期間中、「今日はこれをやった!」と言えることを必ずやろう!と決めて過ごしていました。
仕事、片付け、大工仕事、子どもたちと目いっぱい遊ぶことなど、必ず何かやりながら過ごしていたのですが、さて、振り返ってみるといったい何をやっていたのやら・・・。
明日ということのない教えをいただきながら、「明日があるさ」な生き方をしていることの落ち着かなさよ。

雨もしっかりと降って、じめじめした日が続きます。けれど、この雨が通り過ぎると、暑くなるそうな。おからだお大事にお過ごしください。
南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

2020年7月のことば(以下、寺報「ことば こころのはな」7月号の文章です。)

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仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。
       
蓮如上人(『蓮如上人御一代記聞書』より)

 

蓮如上人の「御文(おふみ…お手紙)」

浄土真宗の宗祖親鸞聖人から数えて第8代目の蓮如上人。上人は、親鸞聖人の教えを人々に伝えるために、250通を超える「御文」を綴られました。有名な「白骨の御文」も、蓮如上人の筆です。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生 すぎやすし。いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり。(後略)

(試訳)さて、私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、まるで幻のような一生であります。この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生はあっという間に過ぎてゆくものです。いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。ということは、朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。(以上)

また、「疫癘(えきれい)の御文」と呼ばれるお手紙も書かれています。

当時このごろ、ことのほかに疫癘とて ひと死去す。これさらに疫癘によりて はじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

(試訳)近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。このことは決して、伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。さほど驚くことではありません。(以上)

問われている私

蓮如上人(1415~1499)自身も、延徳4(1492)年、上人78歳のときに疫病の流行を経験しています。病による苦しみだけではなく、現代(いま)の私たちと同様に、限りある食料や物資を奪い合い傷つけあう人間社会の苦しみを目の当たりにしました。

また、1467~1478年の「応仁の乱」の世も生きています。主戦場となり、焼け野原となった京の町の様子も見聞きしたのではないでしょうか。欲望から起こる争いが更なる貪り(むさぼり)や怒りを生み、争いに巻き込まれた人々までもが傷つき、飢え、死んでいく世に身を置かれました。

そのような時代に身を置き、人間の姿を凝視された蓮如上人。ただ単に道理として「朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです」とか「人と生まれたときから死ぬということは定まっております」などと言われたわけではありません。

「明日は何をしよう」「コロナが収束したら何をしよう」と考えている私に向かい、「あなたは“今”を生きていますか?」と、上人は問いかけています。

仏法の事は、いそげいそげ

仏法には、明日と申す事、あるまじく候」とは、「お釈迦さまの教えをいただいている身にとって、明日ということはありません」ということです。

仏法には、明日と申す事、あるまじく候。」に続いて「仏法の事は、いそげいそげ。」と上人は説きます。

コロナ禍の渦中、「不要不急の外出は控えるように」と、外出自粛要請が出されました。仏法聴聞の会も、多くのお寺が中止を余儀なくされました。明日とも知れぬいのちを生きているのですから、「仏法聴聞の事は、いそげいそげ」のはずなのに、人の集まる場を開けないという矛盾と葛藤を抱えながらのステイホーム期間でした。

けれど、矛盾と葛藤に覆われるなか、「誰もが“今”を生きている」ということを、ふと思いました。

「きょうともしらず、あすともしらず」のいのちを、誰もが生きています。誰もが、いつ亡くなっても不思議はない いのちを生きているのだけれど、若くして亡くなったり、才能ある方が亡くなったりすると、「まだ早いよ」などと、その人の死を嘆きます。年齢という尺度でいのちを計れば、当然嘆きも出てきます。

けれど、たとえば1秒の長さは誰にとっても同じです。才能ある方の1秒は短くて、無駄に過ごしている人の1秒は長くて・・・などということはありません。誰もが同じ1秒を生きています。

お釈迦さまは、「いのちというのは、吸った息が出るのを待たないほどの長さでしかありません。阿吽(あうん)の呼吸のいのちです」と説かれました。

阿吽の呼吸は、短い時間のように感じますが、いのちの営みが続いてきたことに想いを馳せると、とても永い時間でもあります。

私のいのちのなかに無数のいのちがあり、無数のいのちのなかのほんの一点が私です。「阿吽」は、とても短い時間でありながら、いのちの悠久の流れが内包されています。

そんな途方もない時間や空間を、なんの道案内もなく、私は生きられるでしょうか。いえ、阿弥陀如来の大悲というはたらきに導かれながら、今を生きています。阿吽の一息一息は、南無阿弥陀仏のお念仏。

 ☆ ☆ ☆

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7月は、スヌーピーとカメとアヒルです(^-^)Dsc_5072

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