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2020年6月20日 (土)

起悪造罪 一生造悪の私

昨日は「五濁」の話をしました。

お朝事で『正信偈』を読んでいて「五濁悪時群生海」のところで、「五濁」について考えました。

すると、繰り読みの和讃が「道綽和讃」で、次のように出てきました。

「末法五濁の衆生は/聖道の修行せしむとも/ひとりも証をえじとこそ/教主世尊はときたまえ」

末法の時代を迎えた時、そこに生きる衆生は、自力修行によって悟りを得ようと努めても、誰一人として悟りを得る者がいないだろうと、仏教を説かれた釈尊は仰っています。

修行しても無駄だと仰っているのではありません。今は末法五濁の時代であるという自覚こそ大切なのだと説かれています。

濁世の起悪造罪は/暴風駛雨にことならず/諸仏これらをあわれみて/すすめて浄土に帰せしめり」

五濁悪世において、悪心を起こし罪を造ることは、暴風や激しい雨が急に沸き起こるのと同じように、とどめようのないことです。十方の諸仏は、このような衆生を憐(あわ)れんで、阿弥陀如来の本願力を頼りとするとうにと、おすすめになられたのです。

「縦令一生造悪の/衆生引接のためにとて/称我名字と願じつつ/若不生者とちかいたり」

縦令(たとい)一生を造悪に費やす衆生であっても、阿弥陀如来は衆生を浄土に引接する(導く)ため、我が名を称えよ(南無阿弥陀仏と念仏申せ)と願を起こし、若し阿弥陀浄土への往生が叶わないことがあれば、この私自身も仏とはならないと誓われました。

道綽和讃ではありませんが、
五濁悪世の衆生の/選択本願信ずれば/不可称不可説不可思議の/功徳は行者の身にみてり」で締めます。

五濁悪世を生きる衆生が、阿弥陀如来から賜る本願を信じて念仏を申したならば、人間の知恵では称(たた)えがたく説明しがたく思議しがたい功徳を、この私の身にいただくのです。

6首読むうちの4首を書きました。

「五濁」とは、自分の外に見るものではない。

悪心を起こし、罪を造っているのは・・・この私自身。

そんな私の姿を暴風駛雨と表わされています。昨日は一日強い雨が降っていましたが、あの尽きることなく強く降っていた雨は私自身でした。

けれど、縦令(たとい)強い雨が降り続けていようとも、太陽は、あの真っ黒い雲の向こう側でこの私を照らし続けています。

どんなに強く、長い時間雨が降っていようとも、太陽そのものがなくなっているわけではありません。

太陽はあり続けます。太陽は私を照らし続けます。黒雲という壁を作っているのは、私の方なのかもしれません。

そのような私を、倦(あ)くことなく(諦めることなく)、阿弥陀如来の大悲は照らし続けています。

「五濁」とはなにか? 「五濁」とはこの私自身だった! そう気付いたとき、阿弥陀の大悲も感じる。

毎朝毎夕お勤めし続けていても、その時々の想いによって、新しい気づきや感じることがある。

五濁の世、私に出来ることは、法に触れ続けることだけしかない。

南無阿弥陀仏

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