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2020年6月18日 (木)

現実は多面的だけれど、真実はひとつ

昨日、難民の問題について書いた。

難民の方々の受け入れに反対する方が多いことも知った。

ひとつの現実を見つめても、

人の数だけ感想がある。人の数だけ思いがある。人の数だけ(その人にとっての)正義がある。

主体の側に立つと、知ってほしい、分かってほしい、助けてほしいとメッセージを発するけれど、

傍観の側に座り込むと、メッセージを発する者を否定しだす(傍観しているだけなら、ただ座っていればいいのに)。

メッセージを発するのは、小さな声でも、とてもエネルギーを必要とする。

人を叩くときの声は、なぜかとても大きい。それでいてなぜかエネルギーも充填される(気分転換になるのだろうか)。

自分がある立場に立つか、自分が傍観者でいるか、どこに立つかで、見えるものも変わってくる。

見たくないものを見ざるをえなくて悲しい想いをする人もいれば

見なくてもいい人が見たがりもする。

誰もが、自分の立ち位置から物事を眺める。

ちょっと立ち位置を変えるだけで、見え方はまったく違ってくるのだけれど、その、ちょっと立ち位置を変えるということが、とても難しい。

法然上人や親鸞聖人、南無阿弥陀仏にこころ救われた方々は、阿弥陀の眼をいただいた。

阿弥陀の眼といっても、実際の阿弥陀さんの眼をいただくわけではなく、その、ちょっと立ち位置を変えるというものの見方を、阿弥陀さんから教わった。

南無阿弥陀仏と称えるときに合わさる私の手の中に、たくさんの罪業性があることを、教わった。

ネットやテレビや新聞などから流れてくる情報。

ただ鵜呑みにして、自分のいいように解釈するのではなく、手を合わせてみて考えてほしい。

これは、私のことなんだ!

そんな眼を、阿弥陀さまから賜っている

南無阿弥陀仏

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