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2020年6月22日 (月)

君たちがいて、僕がいる

「法話も、聞く人がいてこその法話。

聞く人がいなければ、お釈迦さまがどんなに素晴らしいお話を説かれても、現代(いま)に教えが伝わっていない。」

と、昨日の投稿。

昨日は、父の日。

夕飯にピザを頼んで(持ち帰りは半額♪)、みんなで食事。

子どもたちが「美味しい」😋😋と言いながらピザを食べている。

あぁ、この子たちがいるから、私が“父”として生きているんだなぁ。

この子たちが、私を“父”にしてくれているんだなぁと、あらためて感じる。

説く人だけでは説法ではない。

私だけでは父ではない。

それは、たとえいのち終えても、父と子、母と子、父と母、夫婦・・・関係は変わらない。

思えば、父とか母とか、兄弟姉妹とか、関係が結ばれているから出てくる固有名詞。

夕食時、住職(私にとっての父)が私の前に座っている。

坊守(私にとっての母)が私の左側に座っている。娘たちからすれば、ジィジとバァバ。

食事をしながら、昔話になる。

西蓮寺は、今でこそ家族みんなで寺を護り、門徒さんみんなが支えてくださっている。

けれど、暗黒の時代があった。

住職と坊守は、まさにいのちがけで西蓮寺を護ってきた。門徒さんたちの先祖を護ってきた。

住職と坊守でなかったら、西蓮寺はつぶれていただろう。

孫と一緒に食事をして、坊守はホッとしてつぶやく。「今はとても幸せだわ」

ピザを食べ終えてテレビを見ている娘たちに、

「ちょっとおいで~。ジィジとバァバにハグして‼」と促す。

「ジィジ~」「バァバ~」と、ハグし合うジィジと孫、バァバと孫。

孫がいて、ジィジがジィジに バァバがバァバとして生きている。

私は私だけでは、私にすらなりえない。

でも、誰かがいてくれるから、私が私として生きている。 

ふと、父の日に感じた。

みんな、ありがとう♡の日だ

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