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2020年5月10日 (日)

母なる大悲

曜日の感覚を、ゴミ出しの日で保っています (+_+)

2020年5月10日(日)

あ、今日は「母の日」なのですね。失念していました。

例年なら、アレンジ花を買ったり、母が欲しがっている本を買ったりしているのですが、現在(いま)は極力外出を控えています。

「う~ん、お花も買いに行けないなぁ・・・」

なんて思っていたら、娘が折り紙で作ったお花をママ(妻)に渡していました。

おぉ‼ 買ってすまそうとする根性がこびりついていました💧

気持ちのこもった手作りの品もいいですね♪

私も折り紙で花を作ろう(〃▽〃)ポッ (←多分、それは違うと思う)

母の日にちなみ、「母」という字について

以前書いた文章ですが…

 

Dsc_1085

親鸞聖人は「母」という字を、上記のように書かれます(上記の字は、住職の筆です)。
「母」の字の中に「子」がいます。生命の源、母に対する敬いの気持ちでもあり、母が子にかける愛情を表わしてもいるのかもしれません。
しかし、聖人の書かれる「母」からいろいろ考えていると、敬意や愛情のみを表現されたのではないように感じてきました。
母の、子に対する愛情は計り知れません。しかし、愛情ばかりを注げられないのも、人間です。愛しているけれど、愛に徹底できない。愛したいのに、愛せない。愛しているゆえに、憎い。子もまた、母に敬いの気持ちだけを持つことはできない。敬ってはいるけれど、腹が立つ。大切なんだけど、鬱陶しい。人間の持つ愛情には、複雑な感情が入り混じっています。
このような気持ちになるということは、関係が近いということ、大切な人であるということの表われでもあるのですが。

聖人が、「母」の字をこのように書かれるのは、人間の想いを超えた、大いなるはたらきとの出遇いがあったからだと思います。
聖人が書く「母」は、「母」なるものを表わしているのと同時に、「子」なるものをも表現しています。母に包まれ守られながら生きている存在。それが「子」。
生きとし生けるもの すべてを「仏(ほとけ)の子」と表現することがあります。老少男女、たとえ国が違っても、たとえ信じる教えが違っても、生きとし生けるもの、みんな「仏の子」です。仏が子を想う慈しみのこころに、差別や区別はありません。
「母」の中の「子」…それは私。仏の子です。人間の哀しみを抱えながら生きる私を、慈悲のこころで包んでいます。私は、すでに仏の慈悲に包まれながら生きているのです。
聖人も、人間の持つ哀しさをなんとかできないかと思い悩んだことでしょう。しかし、それは無理なこと。関係が近ければ近いほど、人と人との出会いがあればこそ、愛情も憎しみも深くなるのですから。そのことに目覚めたとき、哀しみは哀しみとしての必然性があり、だからこそ自身を包み込む大いなるはたらき、「大悲」を感じられたのだと思います。

親鸞聖人は、
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
(私親鸞は、父母の供養のために念仏を申したことは、いまだかつて一度もありません)
『歎異抄』

と、言われました。
このセリフを受けて、「なぜ両親のために供養したことがないのですか?」とか「親鸞聖人は冷たい人ですね」などと言われることがあります。

私たちは、「亡き人のため」と言いながら、自分のための供養をしてはいないでしょうか。
親鸞聖人は、父母の縁によってある いのちを感じ、そのいのちは大いなるはたらきに包まれていることを感じ取られました。我が身を生かすはたらきを感じ、今、私にまでつながるいのちの流れを受け止められたのです。ですから、「父母の孝養のため」の念仏はしたことがないのです。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、「大悲」より私に与えられた いのち感覚の告白のことばです。
今も、昔も、これからも、「大悲」を受けながらこの身がある。その喜びを、聖人の「母」の字から感じました。
南無阿弥陀仏
 

Dsc00204

 

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