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2020年5月 6日 (水)

時期純熟

昨日、住職(父)の姿がみえないので、どこ行ったのかな?と思ってさがしたら、本堂にいました。

今までに掲示してきた「掲示板のことば」の整理をしていました。

住職が大谷大学を卒業して寺に戻ってきたころから始めた門前の掲示板。

「掲示板のことば」はずっと住職が書いています。

その頃の紙はもうありませんが、過去30年分くらい残っていました。

住職が「もう捨てようか」と言うので、「とっておこうよ」と言い、残しておくことになりました。

紙が焼けてしまって、さわるだけでボロボロになってしまうものや、虫が食ったものもありました(それらはさすがに処分しました)。

書体やことばの内容に、時の流れを感じます。

整理していて、ふと思いました。

言葉の内容で、

「苦境においてこそ得るものがある」といった類のもの、

「自分が苦しいと思うとき、自分の思いが自分を苦しめている」といった類のものが散見しました。

そういう言葉も大切だし、向き合うべき言葉です。

とはいえ、現在(いま)のコロナ禍のような状況において、そのような言葉はなかなか掲示しづらいものです。

かといって、言葉そのものに問題があるわけではありません。

要は、掲示しづらいと考える私自身が、今、問われています

( あ、「自分が苦しいと思うとき、自分の思いが自分を苦しめている」系だ(^▽^;) )

「時期純熟(じきじゅんじゅく)の法」という表現があります。

教えそのものは、時代状況や個々人の境遇によって変わるものではありません。

けれど、聞く側の態勢が整っていなければ、教えがそぐわないわけではないのに、教えに問題がある!と思ってしまいます。

聞く側の態勢といっても、

正しい姿勢のとき、つまり平穏な状況、落ち着いた心持ち、ということではありません。

「聞法を続ける」ということです。

聞法を続けるなかで、生涯においてさまざまな出来事に直面したときに、

あ、あの法話は、ああいう意味だったんだ!

あ、あの言葉は、こういうことを言おうとされてたんだ!

という気づきがあります。

掲示される言葉は、そういう気づきを得た人の言葉でもあります。

慰めるための言葉でもないし、励ましのための言葉でもない。

教えに出あい、気づきがあった人の言葉です。

だから、誰にでも共有してもらえるわけはないし、

聞く人によっては何も感じなかっり、つらく感じたり・・・

「現在(いま)のコロナ禍のような状況」と書きました。

その現在(いま)とは、ある期間として、ある瞬間としての、点としての「今」です。

瞬間ですから、ブツ切れになります。

けれど、教えにおける「今」とは、現在・過去・未来と、つながった線のなかの一部です。

コロナ禍にある現在はきつく感じる言葉であっても、

あぁ、今にして思えば、あの言葉はああいう意味があったのかな。

あぁ、あのときは受け入れがたい言葉だったけど、こういうことを言わんとしていたのかな。

と、時を経てもつながっていて、いつか、なにか感じることがあります。

それゆえに、時期純熟…ときが熟してくる、言葉がふっとしみこんでくるときがあります。 

そのためには、今、私は僧侶として言葉を発し続けなければならない(義務感という意味ではなくて)と思っています。

南無阿弥陀仏

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