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2020年5月 7日 (木)

今を生きる

今日は風が強いです。

境内の掃除をして、落ち葉を集めても、次から次へと葉が舞い散っています。

「緊急事態宣言」が延長されました。

テレビでは、海で遊んだり、海岸でBBQしたり、パチンコ屋に出かける人にインタビューして、「ダメだと言われていることをして、どういうつもりなんですか?」とでも言わんばかりに放送しています。その取材をしている取材陣の人数の多さを放送しているニュースに笑いましたけど。
テレビで見るような、出かけている人はほんの一部で、多くの人、多くの家族がお家で過ごしていることと思います。
強いられている感覚は、窮屈なものです。公園を掃除していても、今まではベンチで飲み食いしたものをそのまま散らかしたゴミばかりでしたが、最近はゴミの内容が変わってきました。家庭で出るゴミを公園に捨てているようです。ストレスがゴミという形で表出しているのが伝わってきます。
公園には、ほんのちょっとの時間でも、時間を絞って子どもたちが遊びに来ます。その子どもたちに、ゴミは見せたくありません。日本は、従来通りゴミの回収がなされているわけですから、ゴミの日を守って捨てましょう。ゴミ収集に携わっている皆様に感謝申し上げます。

さて、昨日の投稿で、「今」といっても、瞬間としての「今」と、現在・過去・未来とひとつの線としての「今」があると書きました。

このコロナ禍において、「今だからこそ」できることを模索している人たちがいます。

たしかに、「今だからこそ」できること、必要とされることはあります。

けれど、その「今」も、点としての「今」ではなく、線としての「今」を見ることが大事です。

コロナ禍が落ち着き始めているドイツや韓国においては、新型コロナの問題を、現在(いま)起きていることという点だけで見るのではなく、「今後にも続くこと」と未来を見て対策をとったり、「過去のサーズ・マーズの反省を踏まえて」コロナ以前から入念な準備をしたりしていました。線のなかの「今」として捉えています。それゆえに、コロナ騒動の収束への動きも早いのです。
日本は、点です。恐らく、このコロナ騒動の収まったあと、大した反省もせず、次に備えるということもしないことでしょう。だって、「布マスク2枚の配布によって、市場でのマスクの高騰を抑えることにつながりました!」って、首相が堂々と語っているのですから。地下鉄サリン事件の後、地下鉄サリンの被害者の救命にあたった聖路加病院に、「どのような対応をされたのですか?」「なにが必要でしたか?」「これからのために必要なことは?」等々、聞き取りに来たのは、諸外国の政府関係者・医療関係者・報道関係者でした。当の日本の関係者は姿さえ見せなかったと聞いています(時期遅く来たかもしれませんが)。
現在を点として見ている。過去を点として見ている。すると、未来の点なんて見えません。現在の状況も、なるべくしてなっているのかもしれません。

点としての「今」ではなく、線としての「今」のなかに身を置いているという感覚が、今を生きるということにつながります。

ゴミを不当に捨てるということは、そのゴミを見て育つ未来に向けてゴミを捨てるということです。

南無阿弥陀仏

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