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2020年5月21日 (木)

度(ど)す

ネットでの法話配信がなされ、家にいながらも仏法聴聞できるようになってきました。南無阿弥陀仏

いま、あなたに届けたい法話」(真宗大谷派 しんらん交流館)

お坊さんの話を聞こう」(真宗大谷派 東京教区 真宗会館)

浄土真宗live!」(浄土真宗法話配信有志の会)

法話の初めには「三帰依文」を拝読します。法話配信においても、はじめに「三帰依文」の拝読があります。

「三帰依文」に「この身 今生において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。」とあります。

「人と生まれ、仏法聴聞のご縁をいただき、今聞くことがなければ、いつ聞くことがあるだろうか(いいえ、聞くことはない)」という意味になります。

「聞くこと」と書きましたが、「三帰依文」の「度せずんば」「度せん」の「度」とは「救われる」という意味があります。

ですから、直訳すれば「今救われるということがなければ、いつ救われるだろうか(いいえ、救われることはありません)」ということになりますが、「救われる」と言ってしまうと、悟りの境地に入ること、悩み苦しみがなくなること、など現実の問題からの回避が目的となってしまいかねません。それでは、仏法聴聞自体が、現実の悩み苦しみを無くすための手段になってしまったり、悟りの境地に入ることを目的としてしまうと「私はこれだけ聴聞した(あなたはまだまだですね)」など、他者(ひと)との比較のために聴聞したりしてしまいます。

生涯仏法聴聞 そのこと自体が、いかに難しく、いかに尊いことか。

「三帰依文」を拝読するということは、その時点で仏法聴聞の場に身をおいているわけですから、「これから聴聞して、楽な気持ちになるぞ! 人生のスキルアップするぞ!」なんてことを目的とする必要がないわけです。すでに弥陀の大悲(救い)のなかにいるということです。

さて、「度す」が「救い」を意味するのは、「度す」ということが対岸、つまり弥陀の浄土へ“渡す”ということだからです。

「度」に「さんずい」を付けて「渡」。「渡す」と表現されれば、この娑婆世界(此岸)から弥陀の浄土(彼岸)へ渡してもらう、とイメージしやすいと思います。

「この身 今生において渡してもらわずんば、」の方が、読んでいても分かりやすいでしょうか?

しかし、「度」には そもそも「渡」という意味があるのです。

「度」は「わたる」ことを意味するから、わざわざ「さんずい」を付けて「渡」と表記する必要がなかったのです。

けれど、意味の厳密性というか分かりやすさを求めて、時代を経る中で、川や海を「度(わたる)」ことを「渡る」と表記するようになりました。

確かに、「さんずい」がつくことによって、「渡る」イメージも想像できます。

と、かつてある先生から「度」についての説明をいただきました。

そして、その先生が、説明の最後に言われました。

「分かりやすさを追求して、人間は想像力や連想力を失ってしまいましたね」と。

「度」の説明以上に、その言葉が耳の底に留まっています。

「度」という漢字を見ただけで、「渡す」ということも、そこから派生して「救い」ということもイメージしたわけです。

それがいつしか「渡」となり、そうすると、川や海を「渡る」イメージは易くなりましたが、「救い」はイメージしにくくなったのではないでしょうか。

今日「度」について書いているのは、昨日の投稿で「祝」と「呪」について書いていて思い出したからです。

「祝」も「呪」も、元々は「兄」だけでした。

「兄」に、「豊作祈願の願いごと、敵将を倒す願いごと」が含まれていたのです。

それがいつからか、

「豊作祈願や、雨ごいの願いごと」は、神事を表わす「示」がついて「祝」に、

「敵将を倒す願いごと」は、呪文を口で唱えますから「口」がついて「呪」に、

言葉の厳密性を含めて分かれてゆきました。

いまでは、「兄」という漢字を見て、そこまで想像できませんね。

漢字や言葉の変化も、時代と共に、人と共に変遷してゆきます。

でも、起源をたどると、今では思いつきもしない(想像すらしない)意味が知らされます。

厳密性を追求して結果意味が分かりづらくなるということは、よくあることです。

私たちが手にする取扱説明書であったり、誓約書・契約書であったり、規約・条例・法律であったり…。

読んでも分からない、というか、読む気すら起こらない。

みんなのために作ったルールが、かえって除外者を生み出している。

自粛の間の給付金や自粛協力金の申請するための書類や条件が細かすぎて、なかなか給付に至らない。そもそも申請する気すら失わせる。

そういうことになっている、ということに気づかない。

想像する力、連想する力、そこに人がいるということを想う力…そういう力が失われている世の中

さて、私たちは「どーする」(されど、弥陀は衆生を「度する」)。

南無阿弥陀仏

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