« ウィルスは目に見えないけれど、人は目に見えている | トップページ | へんしん »

2020年4月 1日 (水)

2020年4月のことば

2020年4月を迎えました。
本来なら、これからの新しい歩みにワクワクしながら、第一歩を踏み出す季節ですが、
新型コロナウィルスにより先行きの見えぬ不安とともにある門出となってしまいました。
そういえば不思議ですね。新年度・新学期・新入生・新社会人の門出も、先が見えない、先が分からないという意味では、現在の状況と変わらないのに、どちらかといえば前向きな気持ちでいられます(当然、不安な気持ちもありますが)。けれど、現在の状況は、いつかは収束するのかもしれないけれど、不安な気持ちに覆われています。同じ先行きの見えない道を歩むにしても、不安な気持ちの比重によって、ワクワクしたり、気が重くなったり、心持ちは変わるのですね。明るい兆しが見えて、現在の不安な状況が終息しますように。
4月1日、今朝の新聞には、公立学校の先生方の異動が載っていました。娘たちが通う小学校の先生も異動がありました。一言お礼を言いたかったのに言えずにお別れとなってしまった先生もいます。「お世話になりました。ありがとうございます」
新しく赴任される先生もいます。「いろいろと大変な時期ですが、よろしくお願いいたします」
南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

2020年4月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」4月号の文章です)

Dsc_47099

人の世にいのちのぬくもりあれ、

人間にいのちの輝きあれ

          藤元正樹

 

ウィルスという鏡

2020年を迎えたころ、新型コロナウィルスに怯える現在の世界状況を誰が想像していただろうか。
未知の病気、新型コロナウィルスの感染拡大。それに伴い、学校の休校、活動の自粛、できうる限りの自宅待機が要請されている現状にある。先の見えない状況に、誰もが不安や恐怖を抱いている。けれど、不安や恐怖が人を突き動かすのか、マスクやアルコール消毒液は店頭から姿を消して久しく、デマが拡散してティッシュペーパーやトイレットペーパーまでもが品薄となり、都知事が会見で活動の自粛を要請すると、途端にスーパーには食糧買い出しの長蛇の列ができた。病気そのものへの不安や恐怖が生活や人生そのものへの不安や恐怖へとつながり、人間のエゴが丸裸となっている。

新型コロナウィルスが発生し、世界各地で感染者が出始めたころは、武漢を、中国を非難する声が上がり、世界のいたる所でアジア系の人が責められる事件が相次いだ。それぞれの国においても、感染者やその家族は責められ、ネット上では感染者の特定までされ、まるで犯人捜しの様相を呈している。どんなに神経を尖らせても感染し得るのがウィルスであり、しかも人類の誰も抗体を持たないウィルスが今現在蔓延している。誰もが皆、感染し得るのに、なぜ感染者に非難を浴びせるのだろうか。

名前を持った一人ひとり

病気は、ふたつのことを表出させている。
ひとつは、不安や恐怖から、人は他者を責め、貶めてしまうこと。
ひとつは、当たり前にあると思っていたものが、実はまったく当たり前のことではなく、有り難いことであったということ。

マスクやティッシュペーパーや食糧が手に入らなくなり、お店に行けば買うことが出来ることがどんなに有り難いことだったか身をもって感じている。けれど、それだけではない。今朝一緒に食事をした人、「早くこの騒動が収まってほしいね」などと挨拶や会話を交わした人、自宅待機のイライラから些細なことで喧嘩をしてしまった人・・・。身近な人が、いとも簡単に亡くなってしまう。この原稿を書いている最中、志村けんさんの訃報が入ってきた。私は「8時だョ!全員集合」世代だけれど、娘たちが「志村どうぶつ園」を楽しみにし、「バカ殿様」の面白さに目覚めて特番を見るようになり、最近あらためて志村けんさんの面白さに触れていただけに、残念で淋しくてならない。

決して、志村けんさんだけを特別視しているわけではない。3月30日現在、世界中で3万3千人を超える方が新型コロナウィルスによって亡くなっている。言葉やデータとしては「3万3千人」と、ひとくくりになってしまうが、そこには名前を持った一人ひとりのいのちがある。その一人ひとりに関係する人たち、涙を流す人たちがいる。被害者は3万3千人ではない。その何倍もの人の胸が今、締め付けられている。

非難されるいのちなどあるだろうか。
虐げられていい いのちなどあるだろうか。
死んで当たり前のいのちなどあるだろうか。

現代社会(わたし)への問いかけ

ここまで書いてきて、津久井やまゆり園を襲撃した植松聖被告のことばが思い起こされた。
「意思疎通のとれない人間は心失者であり、不幸をばらまく存在です」

彼の弁護人が死刑判決に対して控訴していたが、彼自身がその控訴を取り下げた。つまり、彼の死刑が確定した。この国は、やがて彼の死刑を執行するだろう。裁判における彼の言動を報道で知る限り、被害者やその家族に向けて意思疎通(謝罪等)をとる意識はなく、裁判官や弁護人とも意思疎通はとれていなかったものと思われる。多くの人が思っていることだろう。「意思疎通のとれない者は死ぬべきだ」と主張しているその人自身が意思疎通をとれない者だったんだ(死刑は当然だ)と。そのように彼の死刑判決を当然と考えることは、自分と意思疎通をとれない者に対する差別意識、つまり彼と同じ差別意識が私の中にあることの証となってしまう。そのことには気づかないといけない。彼の言動は決して認められるものではないが、彼を否定しても肯定しても、私の中にある正義に対して刃を突き付けるロジック(論理)が、彼の言動には含まれている。現代を生きる人間の闇が露(あらわ)にされている。

ウィルスに感染した方に対して非難を浴びせる行為は、彼と根っこの部分ではつながっている。殺人を犯した者を死刑に処して、それで終わる問題ではない。大きな問いを、彼は現代社会(わたし)に突き付けた。

熱と光

今月の掲示板は、藤元正樹先生(真宗大谷派僧侶 19292000)のことばを掲示した。

1922年(大正11年)3月、西光万吉氏を中心として、部落解放運動団体「全国水平社」が創立された。創立にあたり、「水平社宣言」が採択され、その宣言文の最後に、「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」とある。そのことばを大切に受け止めて、「人の世にいのちのぬくもりあれ、人間にいのちの輝きあれ」と表現された。

私たちは普段、「いのちは大切だ」「手を取り合うことが大事だ」などと口にしながら、そのことについてより深く考えたことがあるだろうか。ひとたび何か自身に不都合なことがあれば、途端にそんな想いは吹き飛ぶのではないだろうか。自分は他者を傷つけていない、自分は差別をしていない。その思いが他者を傷つけ、その思いが差別を見えなくしてしまっている。

人と人との接点に、ぬくもりが生まれる。関係性を生きているからこそ、困難な人生の中に光明が差し込む。
接点を失ったとき、ぬくもりは冷め、関係性を断ったとき、光明は儚く消え去る。現代(いま)はまさにそんな時代(とき)。

人と人との接点とは、なにも仲のいい者同士が手をつなぎ合うことだけではない。主義主張が違うならば違うままで、どうすれば少しでも良い方向に向かうのか、亡き人から何を学ぼうとするのか、目の前にいる人とはもう会えないかもしれないと思えるのか・・・非難し合うこととは違う、そのような接点の持ち方がある。

本来ならば、ウィルスが蔓延しなくとも考えなければいけないことだけれど、こんなときだからこそ考えたい。
 人の世にいのちのぬくもりあれ、
 人間にいのちの輝きあれ

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
00260004

3月、久しぶりにカッパ橋に行きました。やはり、買い物客、海外からの観光の方は少なかったです。
掲示板の人形をよく買っていたお店・・・久しく行ってなかったので、「まだあるかなぁ」と思いながら足を運んだのですが、ありました‼
よかった(*^-^*) 桜の木の下で昼寝する猫。かわいかったので買ってきました。
賑わいが戻りますように。

« ウィルスは目に見えないけれど、人は目に見えている | トップページ | へんしん »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ウィルスは目に見えないけれど、人は目に見えている | トップページ | へんしん »

フォト
2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

西蓮寺ホームページ

無料ブログはココログ