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2020年4月19日 (日)

身の回りの苦しみを見えなくすれば、それで苦しみがなくなったと言えるのか

『週刊金曜日』1277号(2020年4月17日号)
シリーズ 死を忘るなかれ02 ーmemennto moriー 上野千鶴子さんインタビュー

介護保険をやってみて、蓋を開けてみると思いがけない結果が起きたのは、施設入所のスティグマ(負の烙印)が減ったことです。それまで施設は姥捨山(うばすてやま)のイメージが強くて、親を施設に送るっているのは他人に言えないようなことだったのに、介護保険以後、利用者の権利意識が高まったことや、施設の水準が向上したこともあって、団塊世代は親をためらわず施設に入れるようになりました。そういう人たちに「あなたも将来、施設に入ってもいいですか?」と聞くと、ほとんどの人は絶句します。

この部分を読んでいて思いました。
高齢になって足腰が弱ったり、認知症が進んだりして、施設に入るということが当たり前の世の中・・・つまり、そういう方々の姿を街中で見かけなくなるということです。
そこでふと思いました。あれ?どっかで聞いた話だなぁって。お釈迦さまの四門出遊の話でした。


ゴータマシッダールタ(後のブッダ)懐妊のおり、シュッドーダナ王と王妃マーヤは、お腹の中の子のことを占い師に見てもらいました。
すると、その占い師は泣き出します。
王と王妃は驚いて尋ねます。
「なんだ! この子になにか災いが起こるのか?」
「いえ、お生まれになる皇子は、やがて世の人びとを救う人となられます。けれど、そのお姿を拝見する前に私の寿命は尽きてしまいます。世の人びとを救う皇子にあうことが叶わぬことがつらくて泣いているのです」と占い師は応えました。
それを聞いた王と王妃は、「皇子は国とこの国の民を守ってくれればいい。世の人々を救うということは、この国を飛び出すということだ。それはならない」と、考えました。
皇子がお生まれになり、王と王妃は、若くて健康で健やかに育った若者だけを皇子の身の回りに置き、世話をさせました。生きるということに悩みやつらさがあるということを感じさせないために。
けれど、皇子29歳の折、国の門を出たときに見たものが、皇子の人生の歩む方向を決定づけます。
国の東門を出ると、そこには老人がいました。年を重ねた人間の姿など、両親の他に見たことがありませんでした。
南門を出ると、そこには病人がいました。身の回りの世話は、健康な若者がしてくれました。病気ということがわかりませんでした。
西門を出ると、そこには死者がいました。死!? 今まで考えもしなかったことが皇子の胸を締め付けます。
老病死という、生きる者の当然の姿を目にして、皇子は動揺し、悩みます。
またある日、北門を出ると、そこには沙門(出家者)がいました。皇子と同じように、いのちや世の無常に疑問や悩みを持った者が修行の生活を送っていました。なかには、清らかに尊い姿の沙門もいました。
皇子は、国を出て沙門の道を歩むことを決意します。

という「四門出遊」という、釈尊出家のエピソードがあります。
人間に限らず、いのち生きるものはすべて、生老病死を生きています。
それらを無くすこと、抗う(あらがう)ことが果たして人間にとっての幸せなのか。求めるものなのか。

上野さんのインタビューを読みながら、老いが見えずらいものとなっている社会を考えました。

現在(いま)、コロナウィルスに罹患された方々は“隔離”されています。感染を防ぐ手立てとして隔離は仕方のないことかもしれませんが、罹患された方々を“忌み嫌う”という“隔離”が、人間会では起きています。病を追い払い、見えなくしようとしています。
病が見えずらいものとなっています。

死もまた隠されています。志村けんさんが荼毘に付される際、お身内の方ですら志村けんさんのご遺体に対面することも、火葬場に付き添うことも、収骨もかなわかったということが報道されました。感染しないためにということもありますが、お身内が、本当に亡くなったのかどうかも確認できず、遺族は自身の気持ちの中で納得しえないままに荼毘に付されていくことが現実に起きています(その処置を批判しているのではありません。現在はそうせざるをえない状況のあるのです、ということです)。
コロナウィルスの感染者が増え、病院の態勢がそれだけでいっぱいになれば、その他の病気や怪我などで亡くなられた方々の処置も、形式的にこなさなければならないときも来るかもしれません。
わけのわからない状態に追われ、死も見えない社会状況に向かいつつあります。

私たちは今、城壁に囲まれたなかにいます。

コロナウィルスの不安や恐怖のなかに身を置き、それすらもないことにしようとしています。何事もおきてないかのように。
「もう年だから罹って死んでもいいんです」とインタビューに応える高齢者がいましたが、罹患者が放っておかれるわけはありません。病院で必死に治療されます。あなたの分の医療関係の方々、ベットや備品などが確実にあなたのために割かれます。つまり、ひとりの身ではないということです。

老病死は現実です。無いこと、無かったことにはできません。

この未知のウィルスに立ち向かっている沙門(医療従事者や私たちの生活を支えてくださっている方々)がいます。
その方々を無視したり、感染のリスクが高いと差別したりするのか、
その方々の尊い姿を感じ取るのか。
感じたならば、私は何をすべきか。どういう行動をとるべきか。

見えていないときは、何も疑問に思いません。
人間が、いのちが見えたとき、感じること、悩むこと、他者(ひと)を想うということが生じます。

南無阿弥陀仏

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