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2020年4月 6日 (月)

私が想われているから、私が思うことができる

昨日、お納骨法要にて「白骨の御文」拝読

拝読しながら、“死”について考える。

死は、死そのものが怖いのではなく、そこにいたるまでの道のり(痛みや悲しみ)、自分が死ぬことによって生じる別れ、まだやりたいことがあったのにという後悔など、死によって生じるものによって怖さが生じるのではないだろうか。当然、死そのものが恐怖である、という人もいることと思います。

自分の場合、自分の死を考えたとき、子どもたちとの別れが頭に浮かびます。
子どもたちとの別れは・・・つらいなぁ。
そう考える場合、自分の死を前提として考えているけれど、子どもが先に亡くなるということもありうる。それもまた、“死”というものの恐怖を増幅する。立ち位置を変えてみるだけで、いろいろな見方に気づけます。

で、子どもたちとの別れがつらいなぁと思いながら、「しあわせ」について、次の考えが浮かんできました。

わざと「しあわせ」と書きました。現代(いま)は、「幸せ」と書きますが、元々は「仕合わせ」と書いたと聞いています。
「仕が合うことが、しあわせなこと」
「仕が合う」とは、「この人に仕(つか)えることが出来た」という出会いの喜びを言います。「仕える」というと、主従関係のようですが、そればかりではないと思います。この人との出会いを通して、「私が生き生きしてきた」とか「この人のために頑張ろうと思える」とか「この人に出あうために生まれてきた」とか。
人との出あいばかりではなく、「この仕事こそ、私のやりたい仕事だ」とか「これをするために生まれてきた」とか「しんどいけど、やりがいがある」とか、仕事(為すべきこと)との出あいもまた「しあわせ」の意味するところだと思います。

ただ、人間は想いがコロコロ変わるので、ある瞬間(とき)は「この人に出あうために生まれてきた」とか「この仕事こそ、私のやりたい仕事だ」と思うことができても、時間がたてば、状況・条件が変われば、「しあわせ」の内容もコロコロ変わってしまいます。

変わらないこと、ほんとうの「仕合わせ」とは、念仏の教えに出あった者にとって「南無阿弥陀仏」と念仏申すことを意味します。
南無阿弥陀仏と念仏申すことは、「私の名前を呼んでください」という阿弥陀如来からの勅命を受けたからできることです。
阿弥陀の勅命を蒙(こうむ)り、今、私は南無阿弥陀仏と念仏申すことが出来る。
まさに、仕えるべき阿弥陀如来からの勅命に出遇えたからこそ、私は念仏申すことができます。
私だけの目線でいえば、「勅命」というと如来からの「命令」のようにも聞こえるかもしれませんが、阿弥陀が私のことを見ているという眼もあります。阿弥陀の目からは、「この人をまもりたい」という慈悲の眼が注がれています。
立ち位置を変えてみるだけで、いろいろな見方に気づけます。

信じられる信じられない、
そう思える思えない、
両方の想いがあることと思います。
ただ、
“死”について考えたとき、子どものこととか、阿弥陀さんのこととか、思い浮かぶものがあるということそのこと自体が「しあわせ」なのかもしれない。私の方が思い浮かべているようだけれど、「実は私の方が想われているから、私が思うことができる」のだと思います。

「白骨の御文」を拝読しながら、そういうことを感じていました。

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