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2020年4月18日 (土)

東京五組同朋大会2020 (‐人‐)

2020年4月18日(土)☔
今日は、本来ならば「真宗大谷派 東京五組 同朋大会」の日でした。
尾畑文正先生と佐賀枝夏文先生にご法話をお願いしていました。
只今のコロナ騒動の為、3月頭には中止を決定していましたが、今日は大荒れの天気☔
しかも懇親会は東京湾クルーズを企画🚢という…
もし開催されていたら、どんな会になっていたことでしょう💧

東京五組の教化テーマ「いのちの声を聞く」をもとにご法話をいただくことになっていました。
先生方からは、以下のメッセージをいただいていました(同朋大会チラシに表記されています)。

尾畑文正先生(1947年三重県に生まれる。同朋大学名誉教授。真宗大谷派南米開教前監督。真宗大谷派三重教区泉称寺前住職)

「いのちの声を聞く」。この場合の「いのち」とは何でしょうか。病気の時には体の声に聞くということがあります。仏教では「いのち」に限らず、いかなるものも実体化して捉えることをしません。だから「いのち」という実体があるわけではありません。あえて言えば「いのち」とは私を私にしているすべての関わりであり、人と人、また、人と自然との関わり、そういう関わり全体を表わす言葉と受け止めるならば、仏教で言えば「縁起」です。
「いのちの声を聞く」とは、縁起として存在している私の根本的事実に心を注ぎ、目を凝らし、耳を傾け、身を据えるということです。
しかし現実の私は、その事実に背き、踏みにじり、傷つけ、壊して生きています。具体的には戦争と差別の現実に目をそらし、自己絶対化の我が身を生きています。だからこそ、存在の根本的事実である「いのち」を見失った私に、「いのち」そのものから、全ての存在と平和にして平等な関係を回復せよと呼びかけられているのです。

佐賀枝夏文先生(1948年富山県魚津に生まれる。臨床心理士。大谷大学名誉教授。真宗大谷派青少幼年センター研究員。京都・高倉幼稚園前園長)
ボクは、どちらかといえば道草と迷子の子でした。長年、真宗大谷派の社会的実践を調べてきました。その間、教員生活と相談業務など実にまとまらない歩みでした。
心理カウンセラーでしたので「傾聴」「アクティブ・リスニング」を学びました。しかし、いつのころからか「自己都合で聞いている」のではないかと考えて悩みました。今考え、実践しているのは「こころに届いている声を感じる」ことができたらいいと考えています。
「聞く」そして、「伝える」ということが大切と考えています。「聞く」というと「受け入れる」に通じるかもしれません。その前提には「相手のこころを和ます」ことができたらと考えています。
「聞く」と「尋ねる」が似ているようにも思います。悲しみの「闇のトンネル」で人は「ともしび」や「星」の輝きを求めます。この頃、このつながりを考えます。

 

今、こうして読み返して、あぁ聴聞したかったなぁと感じます。
現在のコロナ騒動のなか、日々人間のエゴが露出し始めています。
「全ての存在と平和にして平等な関係を回復せよ」という叫びは、何を呑気なことをと一笑に付されかねませんが、そもそもそういう願いが先になければ、私たちは“全ての存在”なるものに目を向けようと、考えようと、感じようとしません。
この「闇のトンネル」のなかに身をおいているからこそ、「ともしび」や「星」の輝きを求めます。なぜ“輝き”があることを知っているのか?
それは、阿弥陀如来が「全ての存在よ」と呼びかけてくれているからであり、その教えに生きて念仏申してきた方々がいてくれるおかげです。

聞法の場は、“要”であり、“急”のことであります。不要不急のことではありません。とはいえ、出かけて、三密の場に身をおくわけにはいきませんから、家にいなければなりません。
けれど、家でも聞法はできます。本を読むこと。録音していた法話を聞き返すこと。現代ならば、ネットでも仏法聴聞できますし、そのために発信されている僧侶もいます。私も、ネットスキルがないなりに、せめてブログをと綴っています。
さて、聞法といっても、読書やネット聴聞だけが仏教に触れる方法ではありません。
家族が家にいて、お互いにイライラが募っているということを聞きます。そのイライラも、ただイライラするだけではイライラが自身の中で増幅して、家族どうしでイライラして、家庭がイライラの場になってしまいます。
普段いない人がいるのだから、普段見ることのない姿・態度を目にするわけだから、イライラそのものを取り除くことはできません。けれど、そんなイライラに直面した時に、今まで聞いてきた仏法を聞きなおす(頭の中で反芻する)。「あのとき聞いて分からなかったことだけど、今の状況を言い当てているように聞こえるぞ!」とか「仏教のあの言葉って、こういうことを言っているのかな?」など、平時では気づかないことがたくさんあります。こんなときだから聞こえてくることがたくさんあります。
「イライラするから、お内仏(お仏壇)の前で「正信偈」をお勤めしよう!」でもかまいません。
現実から離れて仏法聴聞はできません。身を置いている現実に即して教えをいただいてこそ、聞こえることがあります。
イライラするときは、イライラするままに、でも他者に当たらず、自分の時間(仏法聴聞の時間)と想い、大切にしましょう。

南無阿弥陀仏 

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