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2020年3月23日 (月)

私の願いを仏さまに聞いてもらうのではない。仏さまの願い(私の名を呼んでくれ)を聞くのです

2020年3月23日(月) 春のお彼岸7日目、最終日を迎えました。
昨晩も、法話生配信を聴聞させていただきました。ありがとうございます。

(白山雑感)
中根信雄先生は、迷いの世界“六道”の話を時間をかけて丁寧にお話くださいました。
六道…地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天
どこか自分とはかけ離れたところにあるのが、地獄をはじめとした六道ではなく、六道を作り出しているのは私自身。存在に立ち返ることの意味を説いてくださいました
瓜生崇先生のお話、時間がなくて、どう収めようか考えながら話している最後の最後のところで、「みんなが救われる世界なんて、本当はみんな納得できないでしょ。一生懸命頑張った人が報われて、悪さした人は報われない。そういうことを望むのが私たちなんだけど、そこから私たち抜けられない。みんなが救われるって、嫌なんだわ。でも、そこんとこを分かったときに救われるんだわ」(「」内、私の記憶で書いてます)と語られているところに、昨日今日通した「こんなときだからこそ法話生配信」を願われた企画者の竹川さんの想いに応える部分だと伝わってきました。また、中根先生のお話の、六道のうちの“人(にん)”に充たるお話だと思います。
新型コロナウィルスが蔓延し、こんなときだからこそ“みんな”で協力し、助け合い生きなければならないときに、どこがウィルスの発生源だの(疫学的に、今後の為に調べなければならないことという意味では発生源をハッキリさせねばいけませんが、ののしり合いの為に発生源を調べるのではありません)、アジア系の人間が他国で批判・非難・暴力を受けたり、品薄のマスクが高値で売られたり、ティッシュペーパーの買い占めが起きたり、自分さえよければ、自分がよくあるために、身が動いてしまいます。人間の怖さ・淋しさを思います。

「わが名を称えよ」という法蔵菩薩の願いは、私が持つ根源的願いでもある。
南無阿弥陀仏称えるところに、阿弥陀仏と共にある私がいる。ひとりではない。

南無阿弥陀仏と念仏称えることは、私自身の存在の証。南無阿弥陀仏

「法話生配信」第2弾は4月15日 19時より‼

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