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2020年3月 8日 (日)

夜半の嵐に吹かれて

新型コロナウィルスが世界規模で流行しています。かつて、親鸞聖人在世のときも疫病が流行り、聖人自身も罹患したと言われています。
寛喜31231)年、聖人59歳のとき、人口の3分の1が亡くなられたと伝わる大飢饉と疫病が流行しました。聖人は、僧侶として、苦しむ世の人びとを救いたいと願うのですが、自身も罹患し、世の人びとを救うどころか、家族に心配をかけている自身の姿に気づきます。けれど、その経験を通して自身の無力さを知り、他力(阿弥陀如来が、衆生を救うと誓われたはたらき)に支えられてある身であることをより強く感じました。自身を知ることを通して、阿弥陀をより感得されたのです。

また、本願寺8代目の蓮如上人も、延徳41492)年、上人78歳のときに疫病の流行を経験しています。その年の6月の「御文(お手紙)」に、以下のように綴られています。

当時このごろ、ことのほかに疫癘(えきれい)とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

(意訳「近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。このことは決して、伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。さほど驚くことではありません。」)

人の死、いのちの終わりは、その理由はさまざまあるけれど、因はみなこの世に生を受けたことにあります。上人は当然のことを綴っています。その当然のことに目をつむりながら、つまり、この世に生を受け、限りあるいのちを生きているという根っこの部分を見失いながら生きてはいませんか?と、上人は問いかけています。いつ尽きるとも分からぬいのちを授かり、生きている。そのことを本当に受け止めたとき、私はどのような生き方をするのか。桜の咲くころ、親鸞聖人が9歳で出家得度を願われたときの和歌が思い起こされます。

明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは

(「明日があると思っていると、夜中に嵐が吹き、美しく咲き誇っている桜も瞬く間に散ってしまうかもしれません。私のいのちも同じです。いつ尽きるか分からぬいのちです。どうか今晩のうちに得度させてください」)

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