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2020年3月 4日 (水)

末法(まっぽう)

今日、墓地の掃除をしていたら、お墓参りの門徒さんがいらっしゃいました。

「こんにちは」(^▽^)と声をかけ、

「こんにちは」(^-^)とお返事いただき、しばし世間話。

当然のごとく、新型コロナウィルスの話に

「先が見えないんですから、怖い世の中ですね」と言うと、

「“末法”の世の中ですからねえ」のお返事。

そうか、末法だもんなぁ…と思いました。

“末法”とは、仏法を説いてくださった仏陀亡き後、時間が経過し、仏陀の教えをもとにしてさとりを得る者も、仏陀の教えをもとにして行を行う者もいなくなり、ただ仏陀の言葉のみが残っている時代を言います。仏陀の教えの実践者がいない、つまり、仏陀の教えに対しての真偽があやふやになる時代を言います。だから現代、仏教は残っていますが、仏陀の教えにせっかく触れるご縁をいただいたにもかかわらず、「仏陀はそういうけど、理想論だよね」とか「仏陀って、奥さんや息子さんを捨てて修行に出て人なんでしょ」とか「仏陀って、キノコにあたって死んだ人なんでしょ」など、教えの真髄に触れて自信を顧みることもしないで、仏陀や仏教について否定したり、うんちくを垂れるだけで終わってしまう人ばかりの時代をいいます。
また、まさにこの時代(いま)の状況で考えれば、「自分さえよければいい」とばかりにティッシュペーパーやトイレットペーパーの買いだめを、デマにそそのかされてしてしまします。
あぁ、末法だなぁと、門徒さんと話していて思いました。
新型の、未知の病気が流行っていることが“末法”の世なのではなく、未知の病気が流行ったときに、人間の本性がハッキリと出てくる。そういう時代を“末法”というのだと思います。

仏陀在世の頃、未知の病気が流行ろうと、悲しい出来事(大切な人との死別など)が生じようと、誰もが助け合いながら、他者のことを優先しながら生きていた。それに比べて現代は…などと言っているのではありません。
人間の本性は、いついかなる時代も変わるものではありません。こういう生き物です。
けれど、仏陀の教えをいただいた人々は、自身の内面性を知る縁をいただき、そのことによって阿弥陀のはたらきを感得するご縁をいただきました。末法以前の世は、仏陀の教えによって行じて(聞法して、念仏称えて)さとりを獲る人がいたから、その人に続いて聞法し、念仏申す人がいたのです(親鸞聖人の頃も末法に入りましたが、まだ聞法を大事にされた名残がしっかりとありました)。だからこそ、昨日書いたように「聞かずにはおれない」「聞法あっての生活」と、なにをさしおいても聞法・念仏されていたのです。
現代(いま)は、自分の都合が最優先で(「今日は〇〇があるから、聞法はしない」「今日は雨降ってるから、教えを聞きに行くのやめよう」等)、教えに納得いかなければ(自分の価値観と違うならば)文句を垂れる。
そのような、私たち自身が作りだしている態度が、“末法”なのだと思います。時代そのものが“末法”なのではなくて。

お墓参りされていた門徒さんから、現代の姿、末法の世を教えていただきました。

南無阿弥陀仏(‐人‐)

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