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2020年2月 3日 (月)

2020年2月のことば

2月を迎えました。1月のブログは、掲示板のことばをアップしただけで終わってしまいました。

Windows7のサポートが終了するのに際し、新しい相棒(パソコン)を使い始めたのですが、タッチの感覚になじめず、文章を書くに至りませんでした。とはいえ、いつまでもそんなこと言ってられないので「2020年2月の寺報」を作り始めましたが、文章がまったく書けません(パソコンのせいではなく、自分自身の力として)。珍しく穏やかな時間(締め切りに追われない時間)で、寺報だけに向き合えたのに、完成が2月3日にずれ込んでしまいました。申し訳ありません。
前の相棒とは9年近い付き合いだったので、よくもってくれたなぁと感謝しています。新しい相棒、よろしくお願いいたします。

 ☆ ☆ ☆

2020年2月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)

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吉凶は 人によりて 日によらず
             
吉田兼好

今を大切に生きたい

除災招福を願い、日や方角の良し悪しを選ぶ人も多いのではないでしょうか。名前の画数や相性を気にする人もいることでしょう。朝のテレビ番組には占いコーナーが欠かせません。運勢やラッキーアイテムをチェックしてから出かける人もいることでしょう。

葬送の場から帰宅して「清め塩」を身にかけたことがある人もいるのではないでしょうか。穢れを払うつもりのようですが、果たして何が穢れなのでしょうか。先往く方ですか? 葬送の現場ですか? 万難を排してお別れの場にお参りしたのに、帰宅すると穢れと化すとはおかしな話です。ちなみに、浄土真宗では、葬送に際して塩を用いません。死も、先往く方も、葬送の場も穢れではありませんから。

おみくじには「吉」や「凶」などがありますが、神社には「凶」を入れないでほしいという要望があるそうです。要望に応えて「凶」を除いてあるおみくじもあるとか。「吉」とか「凶」を、人間の要望のままに招いたり除いたりできたら楽ですね。

さて、実際に「吉日」とか「凶日」という日があるわけではありません。方角や名前もしかりです。

私は、限りのあるいのちを生きています。また、誰とも代わりのきかない、かけがえのないいのちを生きています。限りのある時間のなかを、唯ひとりの私が生きているにもかかわらず、良い日悪い日と制限を設けて生きるということは、もったいないことです。

吉凶に囚われ、限りのある、誰とも代わることのできないいのちを生きている現実に目を背けながら生きること。そのことが吉凶ではないでしょうか。実際に吉凶なるものがあるわけではなく、人間の側の問題です。

明日とも知れぬいのちだからこそ、今を大切に生きたい。

縁起の道理

お釈迦さまは「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆるいのちや事柄は、縁によって起こり、縁によって滅す」と。

仏教、お釈迦さまの教えに触れ、「縁起の道理」を学びました。私もまた、縁起の道理のなかを生きています。さまざまな縁が織りなし合うなかに私は生まれ、縁に生き、やがて死の縁を迎えます。いのち生きるものはみな影響し合っています。「いのち生きるもの」とは、今現に生きている人だけを意味するのではなく、先往くいのちも、これから生じるいのちも含めてです。いのち生きるものはみな、代わりのいない、かけがえのないいのちを生きています。

お互いに影響し合っているということは、この世で起こる出来事は、ある特定の人や集団にだけ起こっているわけではありません。
我が身に悲しい出来事があったとき、その出来事に関わる人や物事もあり、悲しみを共有してくれる人もいればほくそ笑んでいる人もいるかもしれません。
我が身に嬉しい出来事があったとき、その出来事に関わる人や物事もあり、共に喜んでくれる人もいれば、やっかみのこころを持つ人もいることでしょう。

「吉」といえる出来事と「凶」といえる出来事が、まったく別の出来事として起こるのではなく、多くの人や事柄と絡み合いながら、嬉しいことと悲しい ことが同じ瞬間(とき)に起きている。私がここにいられるとき、ここにいられない誰かがいる。そういうことを想います。

「縁起の道理」から想わされるように、お釈迦さまの教えは、この世の悲しみを無くす術を説かれたものではありません。いのちあるものは、いつかいのち終えていく。人の為のつもりが、人を傷つけることもある。あらゆる物事は、すべて縁によってつながっている。当然のことのようですが、私たちが目をつぶって生きている現実が説かれています。

なにをかなしまれているのか

親鸞聖人の「正像末和讃」です。

かなしきかなや道俗(どうぞく)の

良時吉日(りょうじ きちにち)えらばしめ

天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ

ト占祭祀(ぼくせん さいし)つとめとす

 

(現代語訳)
今の世を生きる僧侶も世間の人々も、
良い時・吉日を選ぶことに囚われて、
天の神・地の神をあがめながら、
占いや祭祀に努めています。
なんともかなしいことです。

 

いつの世も、人は吉凶禍福に囚われているものです。まだ見ぬ未来、見通せない将来に対しての不安の表われなのかもしれません。
親鸞聖人は、なにを「かなしきかなや」と嘆いておられるのでしょう。
「僧俗共に、吉凶禍福に囚われて、自身の幸福追求や、不安を取り除くために、天の神・地の神へのお願いごとに努めている」。そのことを「かなしきかなや」と嘆いているのでしょうか? でも、それだけではないような気がします。

聖人自身も、師や弟子や家族との出あいや別れ、「南無阿弥陀仏」の念仏との出遇いや被弾圧など、さまざまな喜びや悲しみに遭遇しました。不安や恐怖に襲われることもあったことでしょう。そんなとき、親鸞聖人には念仏がありました。生きていく歩みのなかで、不安や恐怖に立ちすくみそうなときも、聖人は常に念仏を忘れませんでした。念仏は不安を鎮めるための呪文ではありません。私を支える念仏。念仏があるからこそ、縁に生き、吉凶禍福交差する人生を生きていけます。

いついかなるときも私と共にある念仏。すべての人々に念仏に出遇ってほしい。阿弥陀如来は、生きとし生けるものへ念仏を与えてくださっているのだから。教えに触れながら生きてほしい。念仏を称えながら生きてほしい。まだそれが叶わずに苦しんでいる人が大勢いる。そのことに対するかなしみと、教えを伝え得ぬ自身へのかなしみが親鸞聖人にはあったのです。

南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

~掲示板の人形~
温泉につかるネコ
お店で見つけて、ひとめぼれしました(*^-^*)Dsc_4400

 

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