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2020年1月 2日 (木)

2020年1月のことば

2020年、明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願い致します

人間は、節目を大切に生きています。
節目節目で冠婚葬祭をお勤めして、竹が成長とともに節目を築くように、人間も節目を刻みつつ成長してゆきます。
ですから、新しい年が始まって、「明けましておめでとうございます 今年もよろしくお願いいたします」と挨拶し合うことも大事な節目だと思うのですが、でもそれと共に、いつもと変わらぬ一日であることを忘れてもいけないと感じている新年です。
困窮や淋しさのさなかにいる人、虐待を受けている人にとって、元日だから気が休まる、ということはありません。それどころか、節目を迎えることによって、かえってつらい想いをしている方もいるかもしれません。
人生において特別な一日もあります。けれど、特別な一日も含めて、いつもと変わらぬ一日一日です。
困窮のなかに身を置きつつも一所懸命に生きている方々、その方々を支援されている方々の活動報告を読ませていただいて、新しい年を迎えてこれからどう生きるべきかを考えています。
「これからが これまでを決める」

真宗大谷派では、2023年に「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」をお迎えします。
親鸞聖人の誕生から850年、念仏の教えをよりどころとして主著『教行信証』を著わされてから約800年を迎えることをご縁としてお勤めする法要です。
2019年の暮れ、新年最初2020年1月の掲示板は、その慶讃法要のテーマを掲示しようと決めました。
それゆえ、2019年12月は慶讃法要テーマに真向かいになって過ごしていました。一人ひとりが、それぞれの人生を歩いています。でも、それと共に、すべての人々と一緒に人生を歩んでもいます。
どうしてこれほどまでに人が人を見下すのだろう、差別をするのだろう。
どうしてこれほどまでに貧富の差がひらくのだろう。
どうしてこれほどまでに、権力を手にした者がいばるのだろう。
いつの世も、どこの地でも、誰であっても、人が人であることに変わりはない。
だからこそ、南無阿弥陀仏は、いつでも、どこでも、誰でも称えられるものとして、親鸞聖人は私たちにお示しくださいました。

慶讃法要テーマ
 南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう

を胸に、たずねて生く歩みをしていきたいと思います。南無阿弥陀仏とともに。

   ☆ ☆ ☆

2020年1月のことば (以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)


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南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう

 

阿弥陀

南無阿弥陀仏の「阿弥陀」は、「無量寿」「無量光」を意味します。人知では量り得ない「寿(いのち)」と「光」。

「無量寿」。何年もの時を経て、何人もの人と人との縁が重なり合って、私は生まれました。そのうちの誰か一人でも違う人であったなら、今の私はいません。

「無量光」。この同じ時間と空間に、多くのいのちが生きています。光は空間に広がり、すべてを照らします。同じ時間と空間を生きるすべてのいのちが、同じ光に照らされています。一生会うことのないいのちであっても、関係がないとは言えません。

「寿」という縦糸と、「光」という横糸が織物のように織り成しあって、私という模様となりました。その模様は、私だけではなく、すべてのいのちと共に描かれています。既に亡くなったいのちも、これから生まれるいのちも含めて。人生で直に出会ういのちだけでなく、出会うことのないいのちも含めて。

私の快適な生活は、環境の破壊に貢献しています。私が便利な生活を享受しているとき、その便利な生活を支えるために苦労している誰かがいます。私の願いが叶うとき、多くの犠牲が生じています。
いのちある者は、いつか必ずいのちを終えて往きます。大切な人・身近な人の死は、私の価値観を覆します。また、自身の死期が近付いたとき、「まだ死にたくない」と狼狽したり、「遺される人のことを想うと」と受け容れられなかったりします。いのちを授かることと他者の悲しみは、切っても切り離せません。そして他者の悲しみは、自身の痛みとしてこころに刻まれます。

つながり合いながら生きているのですから、皆が「喜」を味わうことはありません。私が「喜」を味わうとき、誰かが「悲」の渦中にいます。ですがお釈迦さまは「それゆえに一切が皆苦である」と言われたのではありません。我が身を、現実を観察することを通して「すべてはつながっている。すべては縁によって成る」ことを覚られました。

南無阿弥陀仏

「寿」と「光」をあらわす「阿弥陀」に 「南無」がついています。

インドの人々は、相手の目を見て合掌をして「ナマステ」と挨拶します。「南無阿弥陀仏」の「南無」は、その「ナマステ」が由来です。「あなたに会えてよかった」「あなたを敬います」という想いがこもった言葉です。

「南無」「阿弥陀仏」は、すべてはつながり合いながら生きている「一切皆苦」の人生を、そこに何か大切な意味があるんだと、敬い、尊重の気持ちを持って生きる者となります、という告白です。

人と生まれたことの意味

「人と生まれたことの意味をたずねていこう」とするとき、個人的な「意味」をたずねてしまいがちです。「私は、なんのために生まれてきたのだろう」「私は、〇〇のために生まれてきたんだ」と。

親鸞聖人は、「人間」という言葉に「ひととうまるるをいふ」と左訓(注記)されています。つまり、「人と生まれることを人間という」と確かめられているのです。

「人間」という言葉には、「関係性を生きている者」「つながり合いながら生きている者」という意味が内包されています。

私のことを見つめて見つめて見つめたとき、私は私だけで成り立っているのではなく、外からの縁によってあることが見えてきます。私の内側に、私には持ち得ない外側の世界が広がっていることが見えてきます。

そして、外側の世界を観察すると、「私」が見えてきます。外側の世界は「私」がいることによって構成されています。一人ひとりの「私」によって世の中はあります。

私の内を見つめて外が見え、外を見つめて私が見える。私のなかにすべてがあり、すべてのなかに私がいます。

私は、私だけで完結して生きているのではありません。他者やさまざまな事物との関係性において私となりました。

関係性を、つながり合いを生きているのであれば、人は淋しさや不安や孤独とは無縁な気もしますが、そうではありません。私の周りには多くの人がいるのに、でもひとりぼっち。自分の居場所を見失っている人が多いのが現代です。

人は、自分の名前を呼ばれることによって「私はここに居ていいんだ」「私の居場所はここなんだ」と安心できます。

生まれてから今日に至るまで、そしてこれからも、私の名前を呼び続ける声がします。それは、阿弥陀如来が私を呼ぶ声です。その声が聞こえているからこそ、私の口から「南無阿弥陀仏」と念仏の声が出ます。私が念仏を称える声は、阿弥陀如来の呼びかけに応じている声です。「南無阿弥陀仏」と念仏称えるとき、阿弥陀仏と私は呼応しています。「南無阿弥陀仏」は、私の存在の証です。

あみだとあなたとわたし

南無阿弥陀仏は、いつでも、どこでも、誰でも称えることができます。つまり、いつでも、どこでも、誰にとっても、念仏称えたその場所(境遇)が、私の居場所となります。

阿弥陀如来は、すべての一人ひとりに呼びかけています。あみだから、あなたもわたしも呼びかけられています。「あみだとあなたとわたし」、決して崩れることのない関係が築かれています。

「意味」は、私ひとりのこととして答を求めるものではありません。あみだとあなたと共に、決して崩れることのない関係を生きています。今、私があること。その事実そのものに意味があります。

つながり合っているからこそ私があることの「讃嘆」と、たとえ他者を傷つける気持ちはなくとも、他者を傷つけながら生きている私であることの「懺悔」は、聞法を通して自覚されます。お釈迦さまや親鸞聖人の教えを聞く歩みが、「人と生まれたことの意味をたずねてい」く歩みとなります。

聞法の歩みを大切にしてきた人々の姿が、後を生きる人に伝わり、教えが、南無阿弥陀仏が今に至ります。種から芽が出て花が咲き、やがて花は枯れて散ってしまっても、種が残ってまた花を咲かすように。

南無阿弥陀仏

 

~掲示板の人形~
干支の鈴人形
元日の朝、キチンと干支の順番で並べたつもりが、昼前に娘から「パパ、龍とヘビが逆だよ」と指摘を受けて、あわてて並べ直しました。
すぐに指摘してくれて助かりました(^∀^)
昨年までの12年間、干支のお手玉を並べていましたが、干支がひとまわりしたので、今年は違う人形にしました。何年続けられるいのちなのかなぁ・・・なんて考えながら。
限りあるいのちであることを想いながら生きます。南無阿弥陀仏
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