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2020年1月23日 (木)

南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう

南無阿弥陀仏

人と生まれたことの意味をたずねていこう

一切皆苦(いっさいかいく) 

お釈迦さまは「一切皆苦」と説かれました。この世の一切はみな「苦」であると。とても大切な指針です。

この世には、人生には、苦と楽があると考えがちですが、そうではありません。あるのは「苦」です。けれど、その「一切皆苦」とは、「私を苦しめる人や出来事に満ちている」などと言っているわけではありません。

 

ひととうまるるをいふ

親鸞聖人は、「人間」という言葉に「ひととうまるるをいふ」と左訓(注記)されています。つまり、「人と生まれることを人間という」と確かめられているのです。

「人間」という言葉には、「関係性を生きている者」「つながり合いながら生きている者」という意味が内包されています。もし単体で生きている、生きられるのであれば、「人」という言葉だけで済み、「人間」という言葉は生まれてこなかったことでしょう。

阿弥陀

南無阿弥陀仏の「阿弥陀」は、「無量寿」「無量光」を意味します。人知では量り得ない「寿(いのち)」と「光」。

「無量寿」。何年もの時を経て、何人もの人と人との縁が重なり合って、私は生まれました。そのうちの誰か一人でも違う人であったなら、今の私はいません。

「無量光」。この同じ時間と空間に、多くのいのちが生きています。光は空間に広がり、すべてを照らします。同じ時間と空間を生きるすべてのいのちが、同じ光に照らされています。一生会うことのないいのちであっても、関係がないとは言えません。

「寿」という縦糸と、「光」という横糸が織物のように織り成しあって、私という模様となりました。その模様は、私だけではなく、すべてのいのちと共に描かれています。既に亡くなったいのちも、これから生まれるいのちも含めて。人生で直に出会ういのちだけでなく、出会うことのないいのちも含めて。

ここまでの話だけならば、「つながりを大切にして、感謝の生活をしましょう」などという教訓で終わってしまいます。お釈迦さまは「一切皆苦」であることを覚られたのです。つながりを生きることが「苦」であると覚られた内容を考えなければなりません。

私の快適な生活は、環境の破壊に貢献しています。私が便利な生活を享受しているとき、その便利な生活を支えるために苦労している誰かがいます。私の願いが叶うとき、多くの犠牲が生じています。

いのちある者は、いつか必ずいのちを終えて往きます。大切な人・身近な人の死は、私の価値観を覆します。また、自身の死期が近付いたとき、「まだ死にたくない」と狼狽したり、「遺される人のことを想うと」と受け容れられなかったりします。いのちを授かることと他者の悲しみは、切っても切り離せません。そして他者の悲しみは、自身の痛みとしてこころに刻まれます。

つながり合いながら生きているのですから、皆が喜を味わうことはありません。私が喜を味わうとき、誰かが悲の渦中にいます。ですがお釈迦さまは「それゆえに一切が皆苦である」と言われたのではありません。我が身を、現実を観察することを通して、「すべてはつながっている。すべては縁によって成る」ことを覚られたのです。

南無阿弥陀仏

「寿」と「光」をあらわす「阿弥陀」に「南無」がついています。

インドの人々は、相手の目を見て合掌をして「ナマステ」と挨拶します。「南無阿弥陀仏」の「南無」は、その「ナマステ」が由来です。「あなたに会えてよかった」「あなたを敬います」という想いがこもった言葉です。

「南無」「阿弥陀仏」は、すべてはつながり合いながら生きている「一切皆苦」の人生を、bそこに何か大切な意味があるんだと、敬い・尊重の気持ちを持って生きる者となります、という告白です。

微妙(みみょう)

「微妙(びみょう)」とは、「言葉にしがたい美しさや味わい」という意味ですが、こんにちでは「ビミョー」と、否定的な想いを込めて使われる場合もあります。けれど本来は「微妙(みみょう)」といいます。「微」とは、極めて細かいさま。物事の奥底まで、極めて細かいところまで観察したとき、そこに大切なこと(「妙」)が見えてきます。

私のことを観察したとき、私を見つめて見つめて見つめたときに、私は私だけで成り立っているのではなく、外からの縁によってあることが見えてきます。私の内側に、私には持ち得ない外側の世界が広がっていることが見えてきます。

そして、外側の世界を観察すると、「私」が見えてきます。外側の世界は「私」がいることによって構成されています。一人ひとりの「私」によって世の中はあります。

私の内を見つめて外が見え、外を見つめて私が見える。私のなかにすべてがあり、すべてのなかに私がいます。とても不思議な微妙な世界が見えてきます。

人と生まれたことの意味

「人と生まれたことの意味をたずねていこう」とするとき、個人的な「意味」をたずねてしまいがちです。「私はなんのために生まれてきたのだろう」「私は、〇〇のために生まれてきたんだ」と。

「一切皆苦」「人間」「南無阿弥陀仏」「微妙」・・・私は、私だけで完結して生きているのではありません。他者やさまざまな事物との関係性において私となりました。

関係性を、つながり合いを生きているのであれば、人は淋しさや不安や孤独とは無縁な気もしますが、そうではありません。私の周りには多くの人がいるのに、でもひとりぼっち。自分の居場所を見失っている人が多いのが現代です。

人は、自分の名前を呼ばれることによって「私の居場所はここなんだ」「私はここに居ていいんだ」と安心できます。生まれてから今日に至るまで、そしてこれからも、私の名前を呼び続ける声がします。それは、阿弥陀如来が私を呼ぶ声です。その声が聞こえているからこそ、私の口から「南無阿弥陀仏」と念仏の声が出ます。私が念仏を称える声は、阿弥陀如来の呼びかけに応じている声です。「南無阿弥陀仏」と念仏称えるとき、阿弥陀仏と私は呼応しています。「南無阿弥陀仏」は、私の存在の証です。

念仏は、いつでも、どこでも、誰でも称えることができます。つまり、いつでも、どこでも、誰にとっても、念仏称えたその場所(境遇)が、私の居場所となるのです。

阿弥陀は、すべての一人ひとりに対して呼びかけています。あみだから、あなたもわたしも呼びかけられています。「あみだとあなたとわたし」、決して崩れることのない微妙な三角関係が築かれています。

「意味」は、私ひとりのこととして答を求めるものではありません。一人ひとり「一切皆苦」を生きている、すべてのいのちという大地を私は生きています。今、私があること。その事実そのものに意味があります。

お釈迦さまや親鸞聖人の教えを聞く歩み、生涯聞法の歩みが、「人と生まれたことの意味をたずねてい」く歩みとなります。

つながり合っているからこそ私があることの讃嘆と、たとえ他者を傷つける気持ちはなくとも、他者を傷つけている私であることの懺悔。そのことは、聞法を通して自覚されます。阿弥陀如来の呼びかけがあるから、自然に手と手が合わさり、「南無阿弥陀仏」と念仏の声が出ます。

聞法を大切にしてきた人々の姿が、後を生きる人に伝わり、教えが、南無阿弥陀仏が今に至ります。種から芽が出て花が咲き、やがて花は枯れて散ってしまっても、種が残ってまた花を咲かすように。
南無阿弥陀仏

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