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2019年12月

2019年12月31日 (火)

実におもしろい

2019年も暮れようとしています。
10月から久しぶりに集中してブログを書いていましたが、11月下旬に体調を崩してから投稿が滞ってしまいました(^∀^)

48歳という年令を過ごした2019年。
40代になってから、そんなに体の変化を気にしたこともありませんでしたが、今年はいろいろと、いわゆる老化を感じる年でした。

右肩の50肩の痛みがひどく、電車の吊革は右肩を上げることもできず、プールでクロールで泳ぐこともできません。

老眼も本格化してきました。寺報に描いている絵の色塗りに苦労しています。枠のなかの色塗りができず、はみだしてしまいます。

お酒は、もともと強くはないのでそんなに量は呑めませんが、それでも翌日に残るようになりました。

右肩の痛みを感じたり、老眼で小さい字が読めなかったり、お酒が残っていたりすると、和田先生のことばを思い出します。

「年をとると、足が曲がらなくなってね、耳が遠くなってね、おもしろいねぇ! はじめての体験だからねぇ。足が曲がらなくなると、こんな生活になるのか。耳が遠くなると、こういう思いをするものなのか。はじめて分かりました。日々新しい体験をさせてもらっています。おもしろいねぇ!」

「おもしろいねぇ」(^∀^) って、つぶやいています。

2020年も、おもしろくなるんだろうなぁ

みなさま、当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
2020年もよろしくお願い致します。よいお年を!!

白山勝久拝

(東本願寺出版発行の、法語カレンダー随想集『今日のことば』、5月の随想を書いています。お持ちの方はお読みいただけたら嬉しいです)

2019年12月22日 (日)

つくべき縁 はなるべき縁ともに

「言の葉」サイトで取り上げられていました。

2019年師走(12月)の言葉

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる

2019年12月 5日 (木)

中村哲先生

2019年12月4日 アフガニスタンで長年支援活動をされてきた中村哲先生が銃撃され、亡くなられました。
はじめの報道では、一命は取り留めた旨伝えられたので、銃撃されたことに驚きつつもホッとしました。
けれど、悲しい現実が待ち受けていました。

中村哲先生の指導によって作られた用水路は、砂漠地帯に潤いをもたらし、緑化に成功しました。

砂漠が緑化されるように、中村哲先生の生涯を通しての歩みは、先生亡き後を生きる者が潤いをもたらす歩みへと続いて行きます。そうでなければいけません。

けっして襲ってはいけない人(本当はすべての人がそうなのですが)を銃撃し、殺してしまった。犯人もその目的も確実には分っていないので、これ以上は書けないけれど、
AI(人工知能)が人類の知恵を超えるシンギュラリティ が2045年だとか、もっと早まるだとか言われている。
シンギュラリティは、「AIの進化」を見越しての計算だと思うが、「人間の退化」も計算に入れてしかるべきだろう。
シンギュラリティは、もっと早くに訪れそうだ。

中村哲先生の活動は、先生に一時期随行されていた方のお話を聞いたりして気に留めていました。実際にお会いすることは叶わなかったけれど、身を動かして活動される姿に元気づけられていました。中村哲先生ありがとうございます。南無阿弥陀仏

「マガジン9」HP内 「この人に聞きたい」バックナンバー「中村哲さんに聞いた~アフガニスタンという国で、9条をバックボーンに活動を続けてきた~
(2008年4月30日UP) 

2019年12月 2日 (月)

2019年12月のことば

2019年も12月を迎えました。
暖かな11月でした。ご本山の報恩講も暖かいなかお参りすることができました。
が、報恩講後半から時期相応に寒くなり、暖かかった分寒さがこたえ、11月末は体調不良に陥りました。寺報を書かねばと思いながらも手に着きませんでした。何とか書き終え、ホッとしています。さて、暮れは印刷所もお休みになってしまうので、新年の寺報も作り始めなければ。
暮れに向かって、皆様体調を整えてお過ごしください。

 ☆ ☆ ☆ 

2019年12月のことば (以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)

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老いも病気じゃないですよ

 

老いも病気じゃないですよ

ネットで次のような投稿に出あいました。

 

優先席で朝から大声でおしゃべり中のおばさん2人組。前に妊婦さんが立ってても

「妊娠は病気じゃないから、年配が座るべきよね」って。

そしたら横に座ってたもっと年配のおじいちゃんが、ニッコリ笑って

「老いも病気じゃないですよ」って妊婦さんに席譲ってた。

おじいちゃんカッコイイ。

 

「老いも病気じゃないですよ」というセリフに感銘を受け、ふと思いました。老いと病気・・・仏教では「生老病死」を「四苦」と教えます。けれど、四苦、四つの苦と教えられながら、「生・老・病・死」ではなく、「生老病死」というひとくくりの苦として捉えてはいなかったか? それこそ、「老いと病気を一緒にしていませんか?」と問われているような気がしました。
「苦」について、あらためて想いを巡らせました。

(しょうく) 生まれること

(所感)「生苦」というと、「自身の、生まれた苦しみ」として受け止めるかもしれません。けれど、虐待のニュースや、妊婦さん・幼いお子さんやその保護者への風当たりの強い現代、「生む」「生まれる」「生きる」ことが苦であるように感じてしまいます。

そもそも、「四苦」の「苦」とは、「苦しいこと」というよりも、「思いどおりにならないこと」を意味します。「生苦」とは、「自分の思いで生まれてきたのではない」「生まれたくて生まれたのではない」という思いを意味します。その思いを出発点として、人として生まれたことの意味をたずねるものです。けれど、思いどおりにならないというイライラを、他者(ひと)への批判や非難としてぶつけてはいないでしょうか。

(ろうく) 老いること

(所感)「老い」というと、いわゆる老人をイメージしがちですが、「老い」とは、すべてのいのちある者に現在進行形で起きている厳粛な事実です。刻一刻と老いている。その事実は、80、90、100歳の方も、生まれたばかりの赤ちゃんも、老いる身を今現に生きていることに変わりはありません。そう考えると、誰もが皆老人です。
若いときは「成長」と呼んで喜び、年を重ねると「老化」と言って抗うのですから、苦しみも深くなります。

(びょうく) 病や痛みの苦しみ

(所感)年が明けると、新年のお参りに出かけ、「健康第一」や「無病息災」を願う方もいることでしょう。けれど、健康を願うあまり、病気になったときの落胆が大きくなることもあります。「今まで出来ていたことが出来なくなってしまった」「健康でなければ生きていてもつまらない」と。

「健康」を願いながら、病気に対する無知や誤解から、病に苦しむ方々への差別心が生じてはいないでしょうか。自身にとって良いことを願うとき、他者の姿が見えなくなることがあります。見えなかったものが見えるようになること。それを「健康」というのだと思う。

(しく) 死ぬことの恐怖や不安

(所感)癌で亡くなられた門徒さんが、生前語っていたことが忘れられません。

「私は死ぬこと自体は怖くないんです。ただ、死ぬまでの間、この癌と共に生きることが怖いんです」と。

死ぬことの恐怖や不安は、生きることの恐怖や不安であることを、その門徒さんの生き様から教わりました。
人(いのち)は、死にゆくものなのか、生き尽くすものなのか。捉え方の違いで、苦の内容も変わります。

 

「四苦八苦」の「八苦」は、「四苦(生老病死)」と「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」をいいます。

(あいべつりく) 愛する者と別れる苦しみ。

(所感)別離という、実際の別れだけでなく、気持ちが離れることも別れでしょう。愛するゆえに憎しみが湧くことがあります。愛が憎しみへと転化する。いや、愛する感情には、憎しみの感情が伴っているのかもしれません。愛憎は、ひとつのものであるがゆえに苦しい。

(おんぞうえく) 怨み憎んでいる者とも会わねばならない苦しみ。

(所感)「愛別離苦」の所感で書いたように、愛に憎しみが伴うならば、憎しみにも愛が伴うもの。怨み憎い奴を、怨み尽くし憎しみきることが出来るならば、それはとても楽なこと。しかし、愛情とは言わなくとも、相手を気遣う気持ちが芽生えることもある。怨み憎い奴なのに、そいつやその家族のことを慮ってしまう。ひとつの感情で生きられたら楽なのかもしれない。けれど、人間はさまざまな感情が複雑に入り混じりながら生きている。「怨憎会苦」は、そんな人間の姿を浮き彫りにしているかのようだ。

(ぐふとくく) 求める物を得られぬ苦しみ。

(所感)求める物が実際に手に入らない苦しみもあるけれど、手に入れてみたら思っていたものと違うという苦しみもある。
地位・名誉・伴侶・家族・財産等々。「こんなはずではなかった」「もっと良いものだと思っていた」「より良いものが欲しくなった」。
人間の欲は、手に入らないときよりも、手に入れてからの方が深くて大きい。

(ごうんじょうく) 心と体が思いどおりにならない苦しみ。

(所感)厳密に言うと、心と体が思いどおりにならないことが苦しいのではなく、心と体への執着が、私を苦しめる。「生・老・病・死」も、それぞれの現象自体が私を苦しめるわけではない。「こうあるべきだ」という執着が、苦しみを生んでいる。
その苦しみを、自分自身の苦しみとして受け止めたならば、「なぜ生まれたのだろう?」「なぜ生きるのだろう?」という人生の問いとして開花するときがくる。けれど、時として自分自身の苦しみを他者への蔑み(さげすみ)や嫉み(ねたみ)として転化してしまうことがある。そのような私の姿に気付いた苦しみが「五蘊盛苦」ではないだろうか。であるならば、「五蘊盛苦」という苦しみを感じずに死にゆくよりも、感じながら生き尽くしたい。

と、ここにも執着が生じている。
「執着」は、決していけないものではない。苦しみを生じさせるとともに、生きていることを痛感させるものでもあるから。

「四苦八苦」も病気じゃないですよ。

~掲示板の人形~
理由(わけ)あって、親と離れて施設で暮らしている子どもたちがいます。そういう施設の子どもたちへ、手作りのサンタクロースをプレゼントしている方が、お寺の近所にいらっしゃいます。
「副住職、お寺さんにサンタさんの人形はおかしいかもしれないけれど、娘さんたちが寺報に描いている絵が大好きなんです。娘さんたちにプレゼントしていいですか?」と声をかけていただき、サンタさんの人形をいただきました。
ありがとうございます。大歓迎でいただきました♡
掲示板にも飾らせていただいています。サンタさんは、サンタさんだけでは意味がないので、子どもの人形も一緒に飾っています^^

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