他力の信心うるひと
2019年11月13日(水) 西蓮寺聞法会
報恩講のお勤めで、5首目に読まれる和讃
他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友(しんぬ)ぞと
教主世尊はほめたまう
(「正像末和讃」)
「阿弥陀さまの慈悲のこころを信じ、他力の信心を得る人を、敬い多く慶ぶ人は、私の友であると、教えを説かれる釈尊は誉め讃えます。」
と、意訳できるかと思うのですが、なにか違和感が。
他力の信心を得るということは、自力のはからいではできません。つまり人間の諸行ではないということ。
人間の諸行ではないのだから、他力の信心を得た人はなく、当然その人を敬うこともできません。
この和讃は、人間目線で語られる和讃ではなく、阿弥陀目線の和讃ということ。
「正信偈」において、この和讃と同様の表現をされているのが、
獲信見敬大慶喜
この「獲信見敬大慶喜」がある赤本勤行集11頁の四句をみると、
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣
たとえば日光が雲や霧におおわれても
その下が明るくて闇にならないように仏の真実のこころは いつも澄み切っているのです。
まことの信をえて いのちの真実を見て 敬い大きなよろこびに満たされたならば
その時 迷いの悪道を 願いの力で 横にすみやかにとび越えて たちきるのです
〔意訳 戸次公正先生(東京教区教化委員会発行「正信偈」より〕
と、ある。
煩悩の眼で阿弥陀の慈悲を見たならば、一心に信じることは難しく、雲や霧の如き我がこころ(本当に信じていいの? 信じたらどんな良いことがあるの? 念仏だけでいいわけないじゃん!等々)で、慈悲のこころを覆ってしまう。
けれど、阿弥陀の慈悲のこころは、そんな雲霧をものともせず、私を照らしている。
つまり、阿弥陀の慈悲の対象は、すべての生きとし生けるもの
ということは、信心を獲る人とは、(その可能性も含めて)すべての生きとし生けるもの。
あなたもそう わたしもそう
和讃の「他力の信心うるひとを」を、他力の信心をえたすごい人! 特定の人! という見方は、阿弥陀の慈悲から漏れる人を生みだしてしまう。
阿弥陀の慈悲は、すべての生きとし生けるものに及んでいる。
目の前のあなたも、この私も、
先往くあなたも、後を生きるこの私も、
「他力の信心うるひと」である
今日の聞法会では、そのような話から、いろいろとお話させていただきました。
お参りいただきました皆さま ありがとうございます。
お茶会でのMさんの武勇伝が楽しかったです^^
南無阿弥陀仏
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