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2019年11月14日 (木)

花は咲き、枯れるからこそ美しい

「桜を見る会」来年2020年は中止とのこと。
今、「桜を見る会」そのものの賛否を語るつもりはなく、そこに招かれる方々は「各界の功績のあった方や功労があった方」というところが、こころにひっかかっています。
職場においても、PTA等の活動においても、NPO等の活動においても、ボランティア等の活動においても、功績・功労・実績を残される方々はいらっしゃって、頭が下がる想いの方々がたくさんいらっしゃいます。その功績を讃えることも自然に湧き起こる感情だし、讃えられることによってモチベーションが上がる方もいることと思います。

今ひっかかっていることは、「お宅のお寺には、〇〇の功績がある方が眠っておられるそうですね」というお尋ねをいただいて、私自身把握していないのですが、どうやら事情通の方によると、歴史的に功績のある方のお墓があるようなのです。
あるいは、「お宅のお寺には、有名人のお墓はありますか?」「どなたのお墓がありますか?」といったお尋ねを受けることがあるのですが、どうしてそういうことを尋ねるのだろう?と常々思っていました。

亡き人のことを慕う(おもう)ことは、関係が深ければ深いほど自然に湧き起こることだし、なくなる感情ではありません。亡き人もまた、のこされた者がその人のことを慕うかぎりにおいて、亡くなったとはいいきれません。いつまでも生き続けます。
ただ、功績・功労において亡き人を見るということが、私には解せなくて(私がひねくれているということはわかっていますが)、淋しくて。
誰もが名を持って生きていたのだから有名人であり、記録や記憶に残る功績・功労はなくても、生きた事実が充分な功績・功労であり、そうであるならば、特別に「〇〇さんのお墓がある」ということを気に留める必要もないのではないかと考えています。

今、生きているときにおいて、自分の為したことを誉めてもらいたい気持ちは分るけれど、そういうのって身近で私のことを見ていてくれた人が「お疲れさま」「よくがんばったね」って言ってくれるだけで報われた気持ちになるものです(ではないですか?)
たまには自分で自分を誉めてあげることもありです。「自分で自分を誉めてあげたい」。誉めてあげましょう。で、明日からまた頑張れる^^

花は咲き、咲き続けるのではなく、枯れるからこそ美しい
また咲く姿を想像できるから。また咲けば感動するから
咲いて枯れての循環があるから、こころ動かされる
咲いたまま(実績を残し続ける)というのは、窮屈だろな


「桜を見る会」花の咲いてないときに開催するというのは味わいぶかいのではないだろうか。

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