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2019年11月 8日 (金)

しあわせ 出あいと別れをつとめること

2019年11月2日(土) 真宗大谷派存明寺報恩講逮夜法要
北海道から、3年前に教区教導協議会でお世話になった金石潤導先生がお話に見えるので、拝聴に出かける。
講題は「人間獲得(じんかんぎゃくとく)」

以下、私の聞き書きです。
先生のお話の中心は、「人と人との出あい」とお聞きしました。

往生浄土の道を問い尋ねていくのが、親鸞聖人の仏道
その道を、共に聞いてゆこう 共に歩もう

人は、やがて死を迎える
「遺族」というと、こんにちでは「遺された親族」、身内を指すが、もうひとつ意味がある。
「遺体となった人の、身を処す仕事をする人」という意味が。親族、身内に限らない。
仕事というと経済活動としての仕事をイメージしてしまうが、そうではない。
遺体となった人の身を処すために、葬儀を勤める人びとのことを指す。
火葬場で、遺体をお窯に入れ、焼やすためのスイッチを押す務めを喪主がする地域があるという。
大切な、重たい務め。なかには、押せずに泣き崩れる方もいらっしゃる。
人の死を、遺された者が受けとめる。そういう者のことを「遺族」といい、そういう務めのことを先生は“仕事”と表現されました。

“仕事”と聞いた瞬間(とき)、私は“しあわせ”ということを思い出していました。
“しあわせ”を、こんにちでは「幸せ」とかくけれど、本来は「仕合わせ」と書く。
この世に生を受け、仕えるべき人と出あえたこと、仕えるべき務めと出あえたこと、それら有ること難い出あいに 出えたことを「仕合わせ」という。
大切な、重たい務め。悲しみや痛みと共にあることだけれど、そういうことに出あうことなく生涯を尽くしていいのだろうか、いえ、生涯を尽くせるだろうか。
誰もが、いのちあるものとの別れは経験する。先往く人との仲がどうであれ。
そのときに、務めを果たす。縁あるいのちとの出あいと別れを経ることが、人と生まれた「仕合わせ」ではないだろうか。
ということを、拝聴しながら思っていました。

また、
「念仏」というと、「私が仏を念(おも)い続けること」ですが、私たちにはできないことです。
「念仏」に「お」をつけて「お念仏」といただくことによって、「仏に私が念(おも)われていること」といただかれます。それは、ずっとです。
とお話くださいました。
「南無阿弥陀仏」仏に念われている私です。

金石先生のお話は翌3日に続き、講題の「“人間獲得”に触れる部分はまた明日お話します!!」とのことでした。
が、3日は茨城のお寺さんの報恩講法話出講のため、よりコアな部分は拝聴できませんでした。残念。
生涯聞法 一度ひとたびの聞法を大切に 南無阿弥陀仏

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