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2019年11月 1日 (金)

2019年11月のことば

暖かい11月を迎えています。
台風や暴風雨の傷跡の報告が耳に入るようになってきました。報道の情報だけでも、被害の大きさに胸痛む想いですが、被害に遭われた方・ボランティアに行った方の話を聞き、よりいっそう被害の大きさ・深刻さ・つらさが伝わってきます。
2019年10月31日沖縄県の首里城が火災により全焼しました。琉球の歴史を伝えるシンボル的建造物の焼失は、こころのなかに大きな喪失感を生じさせます。建造物の焼失自体もショックなことですが、琉球の歴史・戦争の記憶・戦後の歴史も刻まれた建造物です。目に見える形での歴史の語り部は焼失しても、そこに刻まれてきた、語り伝えられてきた歴史までもが喪失したわけではありません。首里城焼失のニュースと共に、嫌いな人間を貶めるような、犯人捜しをするような、悲しい発信が散見されます。
こころにポッカリと穴が空いてしまったかのような感情に襲われている方々がいます。その穴を埋める力はありませんが、たとえ現場に行けなくとも、想いを馳せることはできます。憶念のこころを大切にしたく思います。

2019年11月のことば (以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)

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阿弥陀さまに見出されているあなたとわたし

差異(ちがい)障(さわ)りとならない

お大事になさってください

台風19号及びその後の暴風雨により被災された皆様に、お見舞い申し上げます。
10月下旬は、気温の寒暖差も激しく、体調を崩されている方も多いと思います。お大事になさってください。
今年の夏も厳しい暑さでしたが、11月を迎える頃となると、さすがに肌寒くなってきました。そうすると、また暖かさが恋しくなるものですね。
穏やかなときが来ることを願ってやみません。

目に見えないはたらき

今夏、西蓮寺では駐車場のブロック塀を改修してフェンスに建て替えました。長年目にしてきたブロック塀ですが、傾きやぐらつきが出てきたため、急きょ建て替えました。
ブロック塀は、その強度を保つために鉄筋が入っています。セメントを塗るとはいえ、ただブロックを積み上げただけでは塀の安全は保てません。

9月9日の台風15号により、寺の渡り廊下の漆喰が剥離しました。
漆喰の背面には、木や土で作った壁があります。木や土で作った壁がなければ、漆喰を塗り固めることはできません。

また、屋根瓦も数枚吹き飛びました。屋根瓦も、その下には粘着質の葺き土や、横に渡した木があり、それらがあって固定されています。ただ並べただけでは、瓦は簡単に落ちてしまいます。

ブロック塀、漆喰、屋根瓦。今夏のいろいろな出来事によって、外観から見える姿の奥底・背景には、それらを支えるものがあることを再認識しました。土台となる支えがあるからこそ、その周囲を綺麗に、丁寧に、堅固に保つことができます。

人間もまた、目に見えないはたらきによって支えられています。

人は誰もがマイノリティ

昨今、「多様性を認め合おう」というフレーズをよく耳にします。その通りだと思います。けれど、それを声高に叫ばなければならないということは、多様性が認められていない社会である、私であるということの裏返しであるということもまた理解しなければいけません。

「多様性を認め合おう」と言うとき、自分が普通・一般的・正しいという立場に身を置いてはいないだろうか。そのうえで、自分以外の人を排除しないよ、受け容れるよ、という意識であるならば、それは多様性を認めている、認めようとしている態度とはいえません。

人は、一人ひとりそれぞれの縁によって生きています。当然、身を置く環境も一人ひとり違います。物事の考え方も、趣味も、嗜好も一人ひとり違います。突き詰めて考えると、人は、誰もが皆マイノリティ(少数者)なのです。百人いれば百通りの考え方が、感情が、想いがあるものです。

「一人ひとり」ということばを沢山書きました。つまり、みんな違う一人ひとりが集まって、この世の中を、この社会を、この家族を形作っています。多数派の中に少数派がいるのではありません。

お釈迦さまの教え 仏法

「人間もまた、目に見えないはたらきによって支えられています。」

「突き詰めて考えると、人は、誰もが皆マイノリティ(少数者)なのです。」

そういうことを考えていたら、お釈迦さまが説かれたことが、ジワッと染み入ってきました。

身自當之(しんじとうし) 無有代者(むうたいしゃ)

私はこの身を生きています。私のいのちと代わる者は、誰もいません。
私が受ける悲しみも苦痛も、また喜びや平穏も、誰とも代わることはできません。私が、誰かの悲しみや喜びを引き受けることもできません。
この手をじっと見る。誰も代わる者のないいのちを、私は今生きています。この身を生きる者は、私ただひとり。

天上天下(てんじょうてんげ) 唯我独尊(ゆいがどくそん)

お釈迦さま誕生の第一声 「天上天下唯我独尊」
天にも地にも、ただ私はひとりにして尊し。
誰も代わる者のないいのちを生きている。
誰もが、ひとり一人のいのちを生きている。ゆえに誰もが皆尊い。

独生(どくしょう) 独死(どくし) 独去(どっこ) 独来(どくらい)

人は、生まれるときも独り(ひとり)
人は、死ぬときも独り。
ひとり生まれ、ひとり死に往く。

「ひとりで生まれ」ではなく、「ひとり生まれ」。
生まれるためには、父と母の縁があり、そのまた父と母の縁も欠かせない。私が生まれるために、助産の環境も必要です。数多くのはたらきのなか、独り生まれます。誰とも代わる者のないいのちが生まれ、人生を尽くします。

「ひとりで死に往く」ではなく、「ひとり死に往く」。
死ぬためには、生きるということがあります。
生きている間に、どれだけの人や事柄と出会うことだろう。どれだけの人の手を煩わせることだろう。数えられないほどのはたらきのなか、誰とも代わる者のいない、ただひとつのいのちを尽くして往きます。

「独」とは、孤独ということではなく、「ただひとりの私」ということ。私ただひとり。たった一人の私を、誰もが皆生きています。

お釈迦さまの教え、仏法に出あわなくても、動作はしていけます。けれど、お釈迦さまの教えに出あえたならば、目に見えないはたらきによってある私、誰も代わる者のいないいのちを生きている私であることに目覚めて生きられます。

表面の私からは見えない奥底に、お釈迦さまの教えが支えとして、土台として建立(こんりゅう)されています。そのことは、あなたも、わたしも同じ。差異(ちがい)はあっても、障りとはなりません。

~掲示板の人形~
11月21日~28日、ご本山(京都 東本願寺)では報恩講ご勤まります(私も、家族で参拝に参ります ^人^ )。
親鸞聖人のご命日(11月28日)の前後、各地の真宗寺院でも報恩講が勤まります(西蓮寺報恩講は11月5日です)。
11月の掲示板は、親鸞聖人を中心に、たくさんの人形がいます。年々賑やかになっていくような^^
南無阿弥陀仏
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