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2019年11月

2019年11月25日 (月)

真宗本廟 報恩講2019

というわけで、11月22日~24日、家族で真宗本廟報恩講へ参拝してきました。
今年の報恩講は暖かかったです。娘たちは半袖で過ごしていました。
とはいえ、21日は寒かったそうで、日によって寒暖差が激しいのがつらいところです。報恩講を支えてくださっている皆様、お風邪など召しませんように。

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23日、「子ども報恩講のつどい」に参拝(東京教区からは、うちの家族だけでした)。
子どもと保護者とスタッフを合わせて200名を越える参拝者。
阿弥陀堂と御影堂でお参り。子どもたちの正信偈の声が響き渡りました。
和敬堂の食堂でお昼ご飯。次女は、「子ども報恩講」の昼食のカレーライスが大好きで、大人盛りで2杯分のカレーを食べました(夕食もしっかり食べました)。
食事の後は、同朋会館でつどいの時間。楠信生先生のおはなし・光善寺念仏一座さんの音楽紙芝居。最後は200人超の集合写真撮影。

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今年で8回目の「子ども報恩講のつどい」
そのうち5回目の参加。娘たちも楽しみにしているようです。
お堂に入るとき出るときはみんな頭礼をし、「正信偈」をお勤め。
泣く子もいるし、じっとしていない子もいるし、じゃれている子たちもいる。そんなカオス状態が、「真宗大谷派 子ども報恩講のつどい」の醍醐味だと感じます。素晴らしい空間です。この場も、親鸞聖人や南無阿弥陀仏の念仏をよりどころとしてきた方々が作ってくださいました。後に続いていくことでしょう。
来年もお参りできますことを(‐人‐)

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2019年11月22日 (金)

偶然という必然

昨日(2019年11月21日)より、ご本山 真宗本廟(京都 東本願寺)にて報恩講が始まりました。
毎年11月21日から28日(親鸞聖人のご命日)にかけて報恩講が勤まります。

各寺での報恩講の法話・法要も楽しみですが、ご本山の報恩講にお参りに行くと、今までに出会った方々との再会が果たせたり(ほとんど偶然の産物)、初めての出会いがあったり(いや、必然なのかもしれない)、ワクワクします。

昨年は、10月に長女が得度式を受式したので、11月の報恩講にはお参りに行けませんでしたが、今年は2年ぶりに家族揃ってお参りに行けます。
本日(22日)から24日までお参りに行ってきます。

今年は誰に会えるだろう。

先ずは阿弥陀さまと親鸞さまにお会いしてきます。南無阿弥陀仏

2019年11月21日 (木)

明日ありと・・・

寒さが厳しくなってきました。
といっても、11月も下旬、この寒さが本来だったのかもしれません。

門徒さんの葬儀が相次ぎ、少し滅入っています。
秋彼岸にお墓参りにみえて挨拶を交わしたのに、思いもよらぬきっかけでお浄土へ還られました。
斎場に着き、横たわる門徒さんの顔を見た途端に涙が溢れてしまいました。葬儀社の方も驚かれたことでしょう。
葬儀の読経中にも泣いてしまうのではないかと思いましたが、泣くときに泣くことができたので、読経中は落ちついてご遺族と向き合うことができました。
お名前から一字いただき、法名に「元」という字を入れさせていただいたので、葬儀中、ご遺族や参列の方に問いかけながらお話ししました。
「一般的には、“浄土へ往く”と言いますが、本当は“浄土へ還る(かえる)”のです。元に戻る、元に帰る(還る)ということです。“還る”というからには、元々居たところなんです。“行ったことのないお浄土へ初めて往く”のではなくて、元居た阿弥陀の浄土へ還るのです。海から生じた波が、また海に還り、海と一味となるように、いのちあるものは、今の姿として生じはしますが、またひとつの大きないのちに還ってゆきます」と。

葬儀をお勤めし、車を運転中、いろいろな想いが脳裏を駆け巡りました。
寺へ帰ると妻が、「あのね・・・」と言いにくそうにしています。
近所の門徒さんがお亡くなりになったとのこと。
台風一過、近所の公園の掃除を一緒にしたばかりでした。
娘たちに会えば、いつもニコニコ声をかけてくださり、秋彼岸もほぼ毎日お参りされていました。

いのちあるものは、やがていのち終えてゆく。

「諸行無常」を説きながら、そうはいっても一人ひとりの死に向かうときは、胸がドキドキします。
平均寿命が80歳だ90歳だと騒ぎますが、その歳の前に亡くなる方もたくさんいます。
自分も50歳を目前にし、自分と同じくらいの歳の方の葬儀を勤めることも多くなりました。
その度に、一呼吸先の自分の姿を見せてくださっているのだなぁと想いながら、お勤めさせていただいています。

お世話になりました。ありがとうございます。多謝 南無阿弥陀仏

2019年11月20日 (水)

周囲の気遣いによって、安全が保たれている

今日は高速道路を使って移動。運転しながら思う・・・

今年は「あおり運転」が話題になりました。
ターゲットを決めて、後方からあおったり、横から喧嘩をふっかけてきたり、前方に回りこんで道をふさいだり・・・。ターゲットにされた車のみならず、周囲の車から見ても危なくてヒヤヒヤします。
けれど、あおり運転をする車を含んで事故に発展することは、あまりありません。
あおり運転をする人からすれば、「俺は運転が上手いから」というおごりがあることでしょう(あ、「おごり運転」だ)。けれど、周囲を走る車や、ターゲットにされた車も、事故を回避すべく運転をしているわけです。周囲や、自分がターゲットにした車のおかげで、あおり運転の車は事故に遭わずに済んでいるのです。
言いがかりをつける前に、周囲からの気遣いによって無事故で済んでいる事実に気付いたならば、カッとなるよりも感謝の気持ちの方が大きくなるのではないでしょうか。

あおり運転のドライバーに限った話ではありませんが、周囲との協調によって、車の運転って成り立っているんだなぁと思います。そんなことを思いながら、運転していました。

安全運転 安全運転

2019年11月19日 (火)

新しい風が吹いてきた!!

久しぶり開催 好きな画家さんの個展を見に行く。

あぁ、素敵だなぁ (^-^)

お気に入りの絵の前で、じっと見入る、魅入る。

じっと見るほどに、細かい描写に気がつく。

 あぁ、こんなに細かい線 こまかいスケッチが・・・

 これ、以前の絵にも描かれていた描写だなぁ つながってるんだぁ・・・

 え、この絵の奥に、さらに絵が描かれてる!!・・・

欲しいけれど、
これほどまでに細かく、気を遣いながら、今まで描いてきたことが塗り重ねられて(人生でいろいろな経験を積み重ねられて)描かれた絵を、私なんかが買っていいのだろうか。私は、この絵を買うに値するような生き方をしてきただろうか。ということを、絵を見ながら感じました。
自分自身で、「うん、買っていいと思うよ^^」と言えるようになってから、堂々と絵を買おう!!と誓いながら、展示場を後にしました。
(画家さんからすれば、買ってくれた方がありがたいことでしょうが)。

他者(ひと)から求められるものを創作できるって、素晴らしいなぁ

2019年11月18日 (月)

立派になる

若い僧侶と話していて、
「一生懸命修行・勉強をして、立派なお坊さんになりたいと思います」
と、力強い言葉を聞きました。

またある日、別の僧侶から、
「自分は以前、“立派な僧侶にならなければいけない!”と、自分を追い詰めていました」
という、落ちついたお話を聞きました。

「立派」・・・「非常にすぐれているさま」「不足や欠点のないさま」という意味です。
そうありたいものの、それもまた難しい。それに、仮に立派な人になれたとして、面白味のない人になってしまいそうです。

立派になるってどんなことだろう?と考えたのですが、向上心だと思うのです。
「立派な人になって出世をめざす」といったことを言います。不足や欠点のない人間となり、周囲からの評価を得て、出世する。そのように願うのが、世間における考え方かもしれません。
けれど、僧侶が「立派になる」とは、一派を立ち上げるほどに三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)に精通した者となることを指すのでしょう。もちろん、世間の人びとから信用されるようになることも、立派なお坊さんになるということなのかもしれませんが、僧侶とは、そもそも世間から出た者、出世間した者のことを言います。そのように根本を考えると、「立派になって出世する」のではなく、「出世して、立派を目指す」のが僧侶の道です。世間とは逆ですね。
ですから、「立派なお坊さんになりたい」と決意したのであれば、名誉欲や信用を得るという意味での立派を目指すということではなく、ただひとすじに教えに聞いていく生き方(生涯聞法)をしていくということでしょう。

目指せ 立派!!

2019年11月17日 (日)

身を粉にしても ほねをくだきても

2019年11月17日(日)
自坊での法務を勤め、都内のお寺の報恩講に、今日は出仕のため出かけました。
報恩講のお勤めの巡讃(親鸞聖人が書かれた和讃を読む順番)で、三重の二、つまり恩徳讃の和讃をまかされました。
恩徳讃は、法要に出仕している僧侶の中でも、老僧が勤める和讃です。
恩徳讃の巡讃があたり緊張もしましたが、今日の出仕が今年の報恩講のお勤めの最後でした。今年を締めくくるに相応しい大事な役をいただいたなと思い、丁寧にお勤めさせていただきました。

 如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし

「身を粉にしても」「骨をくだきても」というのは、苦悩を抱えながらも生きている私たちの姿です。
阿弥陀如来の慈悲のこころを信じたから、身を粉にする、ほねをくだくほどに報いるということではありません。
苦悩を抱える私たちが、親鸞聖人の教えに出あい、親鸞聖人の教えを頼りとして聞法の人生を歩むということが、「身を粉にしても」「ほねもくだきても」ということだと思います。
つまり、教えに出遇い、聞法の人生を歩んでいる私は、すでに如来大悲の恩徳に、身を粉にしながら報じています。師主知識の恩徳に、骨をくだきながらも謝しています。

信じたから、何かをするのではない。
私に、粉骨砕身の慈悲が阿弥陀如来から注がれているからこそ、私はそれに応える、南無阿弥陀仏と念仏申すことができる。
恩徳讃とは、そういうご和讃であるといただいています。
南無阿弥陀仏

2019年11月16日 (土)

今年はどんな年でしたか?

2019年11月16日(土)
自寺での法務を勤め、都内某お寺の報恩講へ出講。
15年も報恩講のお話でお育てをいただいています。
報恩講に参拝される門徒さんとも顔見知りになり、お互いに「今年もお目にかかれましたね^^」って雰囲気のなか、お話をさせていただいています。
そんな雰囲気なので、こちらのお寺での報恩講へは、法話の内容を固めずにうかがいます。
「今年はどんな年でしたか?」とお尋ねすることから始まります。

上がった声は、「台風」「異常気象」。
被災されて、いまだ避難生活を余儀なくされている方々のことを思うと胸が痛みます。
そんな思いをみんなで共有した後、「首里城の火災」という声も上がりました。
形あるもの、実体としてあるものは、建造物も人も、なくなってからその大切さに気付くということがあるものです。誰もが経験されているのではないでしょうか。
「首里城の火災」を通して、首里城そのものの意義だけでなく、“戦争”が残した傷跡・沖縄が“戦争”の地上戦の舞台となってしまったことなどが共に思い起こされます。
建造物も、人も、なくなったときに その大切さに気付く。で、歎く、悲しむだけで済むか? いや、なくなったことを通して感じる、考える、想像するといったことがあるのではないか。感じる、考える、想像するといったことをしてきたのが、宗祖親鸞聖人の死を縁として、今に至るまで勤められている「報恩講」の意味なのではないか。亡き人を偲んで終わる法事ではなくて。だからこそ、親鸞聖人の教えが今に伝わってきた。報恩講が大事に勤められてきたのだと思います。

後半は、もう15年もお育ていただいている皆さんだから・・・ということで、私の身に起きた出来事をお話することを通して法話させていただきました。

人は、目に見えないはたらき・支えによって生きている。自分ひとり頑張れば、自分ひとり耐えれば、自分がなんとかする、などと考えるけれど、それがどれだけ他者(ひと)を傷つけることか。守ろうとした人、助けようとした人に、既に支えられている私でした。喪失感や、どんなに泣いても尽きることがないほど悲しい出来事によって、そんなことに気付かせていただきました。気付けてよかった。

今年の報恩講は、そんなお話をさせていただきました。南無阿弥陀仏

(付記)
法話の後、報恩講のお勤め。お寺の長男さんも出仕されました。40分ほどのお勤めが終わって足がしびれてしまい、立てずに倒れてしまいました。
その場にいるのも恥ずかしいよね。肩を貸してあげて、一緒に下がってきました。
「足、大丈夫? 今日出仕してたお坊さんたちみんな同じ経験してきたから^^」と言って、さよならしてきました。
次の世代に受け継がれているなぁということを感じられて、とても嬉しい報恩講でした(‐人‐)

2019年11月15日 (金)

昨日は、がっつり話し合いをしました

昨日(2019年11月14日)は、僧侶仲間との談合の会(語りあう会)
LGBについて学びました。
Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー、性別越境者)の頭文字をとってLGBTと言います。セクシュアルマイノリティ(性的少数者)の総称のひとつです。

昨日は、セクシュアルマイノリティの方とお話して、いろいろとお話を聞きました。
お話していて思ったのは、「セクシュアルマイノリティ」と書いてはいるけれど、どうして少数者とわざわざ表現しなければならないのだろう? どうして少数者と位置付けなければならないのだろう?ということ。

それから、

「LGBT」と表現されているけれど、「X」や「A」もあり、「ノンセクシュアル」もあって、私たち自身もハッキリ言ってわけわからない^^

というお話を聞きながら、どうして分類をしなければいけないのだろう?とも感じました。
分類の必要性というか、理解する過程で分類がなされてきたのだろうけれど、分類が進んでいくと、そこに多様性が見えてくる。同じところに分類されたとして、それでもひとり一人を見ると、さらに違う面もある。それは、のんけ(異性愛者)だって同じ。

「のんけ」(異性愛者)の者も、異性を好きになるということを、誰かから教わってそうするようになったわけではなく、湧き起こる感情として好きになったのが異性なだけ。
同性愛者も、同性を好きになることを意図的にしているわけではなく、湧き起こる感情として好きなるのが同性なだけ。

「受け容れられない」とか「生産性がない」とか言う人がいて、べつにその人たちに理解してほしいとは思わないけれど、自分をマジョリティ(多数者)において、自分の思考のテリトリー外の人をマイノリティ(少数者)と見なすのは悲しくて淋しいことだと思う。

LGBTについていろいろとお尋ねするところから始まったのだけれど、いつの間にか出身地の話や方言の話、食事の嗜好の話で盛り上がっていました。目の前の方がLGBTであろうがそうでなかろうが、それぞれにそれぞれの人生を歩んでいる人間です。マジョリティ・マイノリティで分けられるわけはなく、理解しようとして分類を試みても、分類では表現できない、ひとり一人の人間である。
そういう当たり前のことに、人と話すことによって気付かせていただきました。
南無阿弥陀仏(‐人‐)

2019年11月14日 (木)

花は咲き、枯れるからこそ美しい

「桜を見る会」来年2020年は中止とのこと。
今、「桜を見る会」そのものの賛否を語るつもりはなく、そこに招かれる方々は「各界の功績のあった方や功労があった方」というところが、こころにひっかかっています。
職場においても、PTA等の活動においても、NPO等の活動においても、ボランティア等の活動においても、功績・功労・実績を残される方々はいらっしゃって、頭が下がる想いの方々がたくさんいらっしゃいます。その功績を讃えることも自然に湧き起こる感情だし、讃えられることによってモチベーションが上がる方もいることと思います。

今ひっかかっていることは、「お宅のお寺には、〇〇の功績がある方が眠っておられるそうですね」というお尋ねをいただいて、私自身把握していないのですが、どうやら事情通の方によると、歴史的に功績のある方のお墓があるようなのです。
あるいは、「お宅のお寺には、有名人のお墓はありますか?」「どなたのお墓がありますか?」といったお尋ねを受けることがあるのですが、どうしてそういうことを尋ねるのだろう?と常々思っていました。

亡き人のことを慕う(おもう)ことは、関係が深ければ深いほど自然に湧き起こることだし、なくなる感情ではありません。亡き人もまた、のこされた者がその人のことを慕うかぎりにおいて、亡くなったとはいいきれません。いつまでも生き続けます。
ただ、功績・功労において亡き人を見るということが、私には解せなくて(私がひねくれているということはわかっていますが)、淋しくて。
誰もが名を持って生きていたのだから有名人であり、記録や記憶に残る功績・功労はなくても、生きた事実が充分な功績・功労であり、そうであるならば、特別に「〇〇さんのお墓がある」ということを気に留める必要もないのではないかと考えています。

今、生きているときにおいて、自分の為したことを誉めてもらいたい気持ちは分るけれど、そういうのって身近で私のことを見ていてくれた人が「お疲れさま」「よくがんばったね」って言ってくれるだけで報われた気持ちになるものです(ではないですか?)
たまには自分で自分を誉めてあげることもありです。「自分で自分を誉めてあげたい」。誉めてあげましょう。で、明日からまた頑張れる^^

花は咲き、咲き続けるのではなく、枯れるからこそ美しい
また咲く姿を想像できるから。また咲けば感動するから
咲いて枯れての循環があるから、こころ動かされる
咲いたまま(実績を残し続ける)というのは、窮屈だろな


「桜を見る会」花の咲いてないときに開催するというのは味わいぶかいのではないだろうか。

2019年11月13日 (水)

他力の信心うるひと

2019年11月13日(水) 西蓮寺聞法会
報恩講のお勤めで、5首目に読まれる和讃

他力の信心うるひとを
 うやまいおおきによろこべば
 すなわちわが親友(しんぬ)ぞと
 教主世尊はほめたまう
         (「正像末和讃」)

「阿弥陀さまの慈悲のこころを信じ、他力の信心を得る人を、敬い多く慶ぶ人は、私の友であると、教えを説かれる釈尊は誉め讃えます。」
と、意訳できるかと思うのですが、なにか違和感が。
他力の信心を得るということは、自力のはからいではできません。つまり人間の諸行ではないということ。
人間の諸行ではないのだから、他力の信心を得た人はなく、当然その人を敬うこともできません。
この和讃は、人間目線で語られる和讃ではなく、阿弥陀目線の和讃ということ。

「正信偈」において、この和讃と同様の表現をされているのが、

 獲信見敬大慶喜

この「獲信見敬大慶喜」がある赤本勤行集11頁の四句をみると、

 譬如日光覆雲霧
 雲霧之下明無闇
 獲信見敬大慶喜
 即横超截五悪趣

 たとえば日光が雲や霧におおわれても
 その下が明るくて闇にならないように仏の真実のこころは いつも澄み切っているのです。
 まことの信をえて いのちの真実を見て 敬い大きなよろこびに満たされたならば
 その時 迷いの悪道を 願いの力で 横にすみやかにとび越えて たちきるのです
  〔意訳 戸次公正先生(東京教区教化委員会発行「正信偈」より〕

と、ある。
煩悩の眼で阿弥陀の慈悲を見たならば、一心に信じることは難しく、雲や霧の如き我がこころ(本当に信じていいの? 信じたらどんな良いことがあるの? 念仏だけでいいわけないじゃん!等々)で、慈悲のこころを覆ってしまう。
けれど、阿弥陀の慈悲のこころは、そんな雲霧をものともせず、私を照らしている。
つまり、阿弥陀の慈悲の対象は、すべての生きとし生けるもの
ということは、信心を獲る人とは、(その可能性も含めて)すべての生きとし生けるもの。
あなたもそう わたしもそう

和讃の「他力の信心うるひとを」を、他力の信心をえたすごい人! 特定の人! という見方は、阿弥陀の慈悲から漏れる人を生みだしてしまう。
阿弥陀の慈悲は、すべての生きとし生けるものに及んでいる。
目の前のあなたも、この私も、
先往くあなたも、後を生きるこの私も、
「他力の信心うるひと」である

今日の聞法会では、そのような話から、いろいろとお話させていただきました。
お参りいただきました皆さま ありがとうございます。
お茶会でのMさんの武勇伝が楽しかったです^^

南無阿弥陀仏

 

2019年11月12日 (火)

彼の痛みを我がこととして

2019年11月12日(火)
風は強くて冷たいけれど、暖かな日射し
屋外で、寒さを感じながら掃除をして、冬を感じていた午前
屋内で、11月のものとは思えない日射しを浴びながらデスクワークをしている午後
日射しを浴びながら からだが温かくなっていくのを感じながら、見つめることのできない太陽に ありがたみを感じている

からだの温もりを感じながら、
いつものように食事をし、
いつものように子どもたちを送り出し、
いつものように掃除をし、
いつものように仕事をし、
何気ない いつものルーティンが、とても有り難いことだと認識される

今朝、テレビでは、警察に撃たれる香港の若者の姿が映し出されていた
昨日から何度も何度も見ているけれど、見る度に目を疑ってしまう、本当に起きたことなのか?と問うている
けれど、本当に起きてしまったことだ

為政者や権力者に対して声をあげることが、暴力によって封じられてしまう
力を持った者は、権力や暴力によって封じようとするようになる

よその国の出来事ではなく、今、この地球上で起きている出来事
この一件だけでなく、今もこの地球上では争いが起き、争いに巻き込まれている人びとがいて、その争いを、自分は安全な場所から俯瞰している力のある者たちがいる
よその国の出来事ではなく、今、私が住んでいるところでも起こり得る出来事

今朝、テレビで堀潤さんが富士山の映像を見て、「あぁ、最近では特にきれいに富士山が見えていますね」と言っていた
ほんと、綺麗な富士山(の映像)だと思った

日射しを浴びながら、その温もりに感謝し
富士山を見て、あぁ綺麗だなぁと感嘆できる
そのことすら奪われてしまう世の中にしていいのか!
桜を眺めることすらできなくなるんだぞ!?
そのことすら奪いながら手に入れたいものって何なのか?
市民の血で染まった大地に立ちたいのか?

2019年11月11日 (月)

同じことを言うにしても

SNSでイベントや行事の案内を発信されているものに対して、「行きたいけど行けない」旨をアピールする際、

「そのイベントに行きたいのですが、仕事があって行けません」と書くのと、

「仕事が入っていて行けないのですが、そのイベントはとても楽しそうですね」と書くのとでは、受け手としては印象が違う。

前者より後者の方が気分いい♪

「行きたいのですが行けません」ってアピールはいらない気がする。出欠確認をされているわけではないのだから。

「仕事があって行けない」コメントが目立つなか、「仕事が入っていて行けないのですが、そのイベントはとても楽しそうですね」というコメントを見かけたとき、「あ、いい伝え方だなぁ」って感心しました。

別件ですが、携帯の普及に伴い、約束を簡単にキャンセルする人が増えた気がしませんか?
携帯の手軽さがそうさせるのか、そう感じるだけで元々人間ってそんなものだったのか・・・。
前日とか当日に「あの約束、行けなくなったから」って、簡単に言われると凹みます。難しく言えばいいという話ではなくて。
この場合は、
「この約束は守りたかったんだけど、仕事が入ってしまいました」の方がしょうがないなぁって思えるか。
「仕事が入ってしまい行けなくなりました。この約束は楽しみだったんだけどなぁ」って言われる方が腹が立ちますね。
約束を守れないときは当然ありますが、約束をしたからには第一優先で動きましょう。

2019年11月10日 (日)

報恩講

2019年11月10日(日)
今日は、娘たちが所属するラクロスチームの試合の日。
朝5時半に起きて支度。朝ご飯を食べて、妻と娘たちは川崎の競技場へ向かいました(私は、最寄りの駅までお見送り)。

帰宅後、お寺でご法事。

さて、只今報恩講月間です。
今日は、13時から赤坂のお寺、14時半から南麻布のお寺の報恩講に出仕です。
例年なら、赤坂のお寺の報恩講のお勤めを終えてから、タクシーで南麻布のお寺へ向かいます。
ところが、今年は何かパレードがあって交通規制とのこと。

寺から赤坂のお寺へ向かう道中でも、職質を受ける恐れがあったので、すぐに身分を明かせるようお坊さんの格好で向かいました。
幸い職質もされず、赤坂のお寺へは間に合いました。

報恩講のお勤め終わって、少し歩いて交通規制の外側へ。
タクシーが・・・来ません(汗)

なんとかタクシーが止まってくださって、間に合いました(アウトかセーフかで言ったらアウトのタイミングだったけど)。
報恩講のお勤めをさせていただきました。

「正信偈」をお勤め中、「あぁ、正信偈っていいなぁ」と想いながらお勤めさせていただきました。
南無阿弥陀仏

2019年11月 9日 (土)

あたたかくて まぶしい

2019年11月9日(土)
小学校の学校公開(授業参観)へ。

10月に町探検で西蓮寺に来てくれた2年生たちが、感想を書いてくれたものが貼り出されていました。
本屋さん、ケーキ屋さん、駐在さん、西蓮寺…子どもたちが印象に残ったこと、驚いたこと、知ることができてよかったこと等々書いてました。

町探検で来寺の際
西蓮寺の本堂で、
「阿弥陀さまがとっても大事なんだ。お寺の建物が無くなっても、阿弥陀さまと仏さまの話を聞いてくれるみんながいれば、そこがお寺になるからね。大事なことを聞く場所になるからね」
とお話をしたことが印象に残ったようで、多くの小さな人たちが、
「阿弥陀さまが大事なことを教えてもらって良かったです」
と書いていました。

その言葉と、阿弥陀さまの絵がとても温かかったです。
みんな、ありがとう❤️
南無阿弥陀仏(ー人ー)

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2019年11月 8日 (金)

しあわせ 出あいと別れをつとめること

2019年11月2日(土) 真宗大谷派存明寺報恩講逮夜法要
北海道から、3年前に教区教導協議会でお世話になった金石潤導先生がお話に見えるので、拝聴に出かける。
講題は「人間獲得(じんかんぎゃくとく)」

以下、私の聞き書きです。
先生のお話の中心は、「人と人との出あい」とお聞きしました。

往生浄土の道を問い尋ねていくのが、親鸞聖人の仏道
その道を、共に聞いてゆこう 共に歩もう

人は、やがて死を迎える
「遺族」というと、こんにちでは「遺された親族」、身内を指すが、もうひとつ意味がある。
「遺体となった人の、身を処す仕事をする人」という意味が。親族、身内に限らない。
仕事というと経済活動としての仕事をイメージしてしまうが、そうではない。
遺体となった人の身を処すために、葬儀を勤める人びとのことを指す。
火葬場で、遺体をお窯に入れ、焼やすためのスイッチを押す務めを喪主がする地域があるという。
大切な、重たい務め。なかには、押せずに泣き崩れる方もいらっしゃる。
人の死を、遺された者が受けとめる。そういう者のことを「遺族」といい、そういう務めのことを先生は“仕事”と表現されました。

“仕事”と聞いた瞬間(とき)、私は“しあわせ”ということを思い出していました。
“しあわせ”を、こんにちでは「幸せ」とかくけれど、本来は「仕合わせ」と書く。
この世に生を受け、仕えるべき人と出あえたこと、仕えるべき務めと出あえたこと、それら有ること難い出あいに 出えたことを「仕合わせ」という。
大切な、重たい務め。悲しみや痛みと共にあることだけれど、そういうことに出あうことなく生涯を尽くしていいのだろうか、いえ、生涯を尽くせるだろうか。
誰もが、いのちあるものとの別れは経験する。先往く人との仲がどうであれ。
そのときに、務めを果たす。縁あるいのちとの出あいと別れを経ることが、人と生まれた「仕合わせ」ではないだろうか。
ということを、拝聴しながら思っていました。

また、
「念仏」というと、「私が仏を念(おも)い続けること」ですが、私たちにはできないことです。
「念仏」に「お」をつけて「お念仏」といただくことによって、「仏に私が念(おも)われていること」といただかれます。それは、ずっとです。
とお話くださいました。
「南無阿弥陀仏」仏に念われている私です。

金石先生のお話は翌3日に続き、講題の「“人間獲得”に触れる部分はまた明日お話します!!」とのことでした。
が、3日は茨城のお寺さんの報恩講法話出講のため、よりコアな部分は拝聴できませんでした。残念。
生涯聞法 一度ひとたびの聞法を大切に 南無阿弥陀仏

2019年11月 7日 (木)

後に生まれん者は前を訪え

昨日の投稿で、報恩講での海法龍先生のお話に少し触れました。「弔」と「訪」と「尋」について。
お話を聞いていてちょっとビックリしていました。
報恩講の支度をしているとき、妻と「訪」について会話をしていたからです。

本堂のホワイトボードに張ってある言葉を外す際、その言葉を見ながら妻が呟きました。

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「『後に生まれん者は、前を“尊べ”』 とか 『“敬え”』じゃないんだね。亡くなった人を尊びましょうとか敬いましょうっていうのは よく聞くけど、道綽大師は“訪え”って言ってるんだね。」

「そういわれるとそうだね。日本語では、「とむらい」というと“弔”の他に、この“訪”もあったから、『弔うということは、訪うこと。つまり、たずねることです』という論が成り立つんだけど、道綽大師は中国の方だから、『「弔」と「訪」は読み方も同じだから、意味も通じ合える』なんてことは考えないよね。ということは、道綽大師は、『弔うということはつまり訪ねることである』ということを感じていたんだね。」

なんてことを、本堂の支度をしながら話していました。

報恩講で海先生のお話を聞いたあとで、先生に感想をお伝えしている方もいらっしゃいました。
「道綽大師の言葉(↑写真の言葉)を思い起こしながら、先生のお話を拝聴していました」。
南無阿弥陀仏(‐人‐)

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。
道綽大師

2019年11月 6日 (水)

西蓮寺報恩講2019

2019年11月5日(火)
西蓮寺報恩講厳修

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快晴のなか、西蓮寺報恩講をお迎え致しました。
ご参拝いただきました法中、門徒の皆様、ありがとうございます。
一緒にお参りできましたこと、嬉しく思います。

 

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【ご法話 海 法龍先生(横須賀 長願寺住職)】
「報恩講は、宗祖 親鸞聖人のご命日をご縁として勤められる「法事」です」という始まりから、「死」とは、先往く人を訪ねることを通して、自分に出遇うことであるというお話をいただきました。
亡き人のご供養をすることを「弔う(とむらう)」と言いますが、「とむらう」という言葉は、そもそも「訪う」から来ています。そして、「訪(たずねる)」ということは「尋ねる(たずねる)」とうことに繋がります。つまり、「とむらう」ということは「尋ねる」ということ。先往く人の姿を通して、いのちを、自分自身を尋ねる。
父と兄を亡くされた先生自身の歩みの中から出て来た感情・想いと共にお話しくださいました。
南無阿弥陀仏

【法要】
鏧(きん)役として、ほぼ本堂の中心に座していると、前面の法中(お寺さん)の声と、背後の門徒さんの声に包まれてある感覚になります。
今年も、昨秋得度した娘が私の横に座ってくれて(給食を食べてから早退してきました)、子ども特有の真っ直ぐで澄んだ声でお勤めをしてくれました。
あぁ、報恩講をお勤めしているなぁと、感慨にふけっていました。

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【親鸞聖人像】
今夏、親鸞聖人像をお迎えして、初めての報恩講。
いつか親鸞聖人像をお迎えしたい・・・住職の願いが叶った報恩講でした。
「御俗姓」拝読は、今年は住職の番。感慨深かったのではないでしょうか。

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【掲示板の人形】
親鸞聖人を囲んで、賑やかです。
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2019年11月6日(水)
報恩講から明けて、お片付け。
何日もかけて報恩講の支度を整えるのに、片付けは半日で終わってしまいます。不思議 不思議
報恩講の片付けと共に、本堂にホットカーペットを敷いて、ファンヒーターを出して、冬支度です。
報恩講をお勤めして、新しい一年が始まります。
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2019年11月 1日 (金)

2019年11月のことば

暖かい11月を迎えています。
台風や暴風雨の傷跡の報告が耳に入るようになってきました。報道の情報だけでも、被害の大きさに胸痛む想いですが、被害に遭われた方・ボランティアに行った方の話を聞き、よりいっそう被害の大きさ・深刻さ・つらさが伝わってきます。
2019年10月31日沖縄県の首里城が火災により全焼しました。琉球の歴史を伝えるシンボル的建造物の焼失は、こころのなかに大きな喪失感を生じさせます。建造物の焼失自体もショックなことですが、琉球の歴史・戦争の記憶・戦後の歴史も刻まれた建造物です。目に見える形での歴史の語り部は焼失しても、そこに刻まれてきた、語り伝えられてきた歴史までもが喪失したわけではありません。首里城焼失のニュースと共に、嫌いな人間を貶めるような、犯人捜しをするような、悲しい発信が散見されます。
こころにポッカリと穴が空いてしまったかのような感情に襲われている方々がいます。その穴を埋める力はありませんが、たとえ現場に行けなくとも、想いを馳せることはできます。憶念のこころを大切にしたく思います。

2019年11月のことば (以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)

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阿弥陀さまに見出されているあなたとわたし

差異(ちがい)障(さわ)りとならない

お大事になさってください

台風19号及びその後の暴風雨により被災された皆様に、お見舞い申し上げます。
10月下旬は、気温の寒暖差も激しく、体調を崩されている方も多いと思います。お大事になさってください。
今年の夏も厳しい暑さでしたが、11月を迎える頃となると、さすがに肌寒くなってきました。そうすると、また暖かさが恋しくなるものですね。
穏やかなときが来ることを願ってやみません。

目に見えないはたらき

今夏、西蓮寺では駐車場のブロック塀を改修してフェンスに建て替えました。長年目にしてきたブロック塀ですが、傾きやぐらつきが出てきたため、急きょ建て替えました。
ブロック塀は、その強度を保つために鉄筋が入っています。セメントを塗るとはいえ、ただブロックを積み上げただけでは塀の安全は保てません。

9月9日の台風15号により、寺の渡り廊下の漆喰が剥離しました。
漆喰の背面には、木や土で作った壁があります。木や土で作った壁がなければ、漆喰を塗り固めることはできません。

また、屋根瓦も数枚吹き飛びました。屋根瓦も、その下には粘着質の葺き土や、横に渡した木があり、それらがあって固定されています。ただ並べただけでは、瓦は簡単に落ちてしまいます。

ブロック塀、漆喰、屋根瓦。今夏のいろいろな出来事によって、外観から見える姿の奥底・背景には、それらを支えるものがあることを再認識しました。土台となる支えがあるからこそ、その周囲を綺麗に、丁寧に、堅固に保つことができます。

人間もまた、目に見えないはたらきによって支えられています。

人は誰もがマイノリティ

昨今、「多様性を認め合おう」というフレーズをよく耳にします。その通りだと思います。けれど、それを声高に叫ばなければならないということは、多様性が認められていない社会である、私であるということの裏返しであるということもまた理解しなければいけません。

「多様性を認め合おう」と言うとき、自分が普通・一般的・正しいという立場に身を置いてはいないだろうか。そのうえで、自分以外の人を排除しないよ、受け容れるよ、という意識であるならば、それは多様性を認めている、認めようとしている態度とはいえません。

人は、一人ひとりそれぞれの縁によって生きています。当然、身を置く環境も一人ひとり違います。物事の考え方も、趣味も、嗜好も一人ひとり違います。突き詰めて考えると、人は、誰もが皆マイノリティ(少数者)なのです。百人いれば百通りの考え方が、感情が、想いがあるものです。

「一人ひとり」ということばを沢山書きました。つまり、みんな違う一人ひとりが集まって、この世の中を、この社会を、この家族を形作っています。多数派の中に少数派がいるのではありません。

お釈迦さまの教え 仏法

「人間もまた、目に見えないはたらきによって支えられています。」

「突き詰めて考えると、人は、誰もが皆マイノリティ(少数者)なのです。」

そういうことを考えていたら、お釈迦さまが説かれたことが、ジワッと染み入ってきました。

身自當之(しんじとうし) 無有代者(むうたいしゃ)

私はこの身を生きています。私のいのちと代わる者は、誰もいません。
私が受ける悲しみも苦痛も、また喜びや平穏も、誰とも代わることはできません。私が、誰かの悲しみや喜びを引き受けることもできません。
この手をじっと見る。誰も代わる者のないいのちを、私は今生きています。この身を生きる者は、私ただひとり。

天上天下(てんじょうてんげ) 唯我独尊(ゆいがどくそん)

お釈迦さま誕生の第一声 「天上天下唯我独尊」
天にも地にも、ただ私はひとりにして尊し。
誰も代わる者のないいのちを生きている。
誰もが、ひとり一人のいのちを生きている。ゆえに誰もが皆尊い。

独生(どくしょう) 独死(どくし) 独去(どっこ) 独来(どくらい)

人は、生まれるときも独り(ひとり)
人は、死ぬときも独り。
ひとり生まれ、ひとり死に往く。

「ひとりで生まれ」ではなく、「ひとり生まれ」。
生まれるためには、父と母の縁があり、そのまた父と母の縁も欠かせない。私が生まれるために、助産の環境も必要です。数多くのはたらきのなか、独り生まれます。誰とも代わる者のないいのちが生まれ、人生を尽くします。

「ひとりで死に往く」ではなく、「ひとり死に往く」。
死ぬためには、生きるということがあります。
生きている間に、どれだけの人や事柄と出会うことだろう。どれだけの人の手を煩わせることだろう。数えられないほどのはたらきのなか、誰とも代わる者のいない、ただひとつのいのちを尽くして往きます。

「独」とは、孤独ということではなく、「ただひとりの私」ということ。私ただひとり。たった一人の私を、誰もが皆生きています。

お釈迦さまの教え、仏法に出あわなくても、動作はしていけます。けれど、お釈迦さまの教えに出あえたならば、目に見えないはたらきによってある私、誰も代わる者のいないいのちを生きている私であることに目覚めて生きられます。

表面の私からは見えない奥底に、お釈迦さまの教えが支えとして、土台として建立(こんりゅう)されています。そのことは、あなたも、わたしも同じ。差異(ちがい)はあっても、障りとはなりません。

~掲示板の人形~
11月21日~28日、ご本山(京都 東本願寺)では報恩講ご勤まります(私も、家族で参拝に参ります ^人^ )。
親鸞聖人のご命日(11月28日)の前後、各地の真宗寺院でも報恩講が勤まります(西蓮寺報恩講は11月5日です)。
11月の掲示板は、親鸞聖人を中心に、たくさんの人形がいます。年々賑やかになっていくような^^
南無阿弥陀仏
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