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2019年10月 9日 (水)

仏法不思議

2019年10月9日(水) 西蓮寺聞法会

ご本山発行『真宗の生活』を拝読してお話。
今日は「10 仏法不思議」 (藤原千佳子先生著『仏さまのよびかけ』より)

親鸞聖人の和讃 3つにふれながら「仏法不思議」についてお話しました。

〇いつつの不思議をとくなかに
 仏法不思議にしくぞなき
 仏法不思議ということは
 弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり
  (親鸞聖人「高僧(曇鸞)和讃」)

【試訳】
五種の不思議(衆生多少不可思議・業力不可思議・竜力不可思議・禅定不可思議・仏法力不可思議)の中でも最高の不思議は仏法力不可思議です。
なぜかというと、凡夫がたすかる弥陀の本願が説かれているからです。「不断煩悩得涅槃」が不思議なのです。
凡夫のおもいはかることのできないところで、凡夫のたすかる本願が誓われ、たすけられてもそれを知らざるほどに広大な力がはたらいている。
それを不思議というのです。

〇浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮(こけ)不実(ふじつ)のわが身にて
 清浄(しょうじょう)の心もさらになし
  (親鸞聖人「正像末和讃」)

【試訳】
浄土真宗に帰依しました。阿弥陀如来のすくいを頼りとしてまいります。
真実に帰依したけれど、その帰依した真実によって照らし出されたのが、真実など一点も無い私の姿でした。
阿弥陀如来は、清浄にして真実なるものである。その清浄真実なるものが私にはたらくとき、私の不実であり煩悩に汚れている姿がはっきりと見えます。
浄土真宗に帰依したおかげで、私に真実の心がなかったのだということが知らされました。

無慚無愧(むざんむき)のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀(みだ)の回向(えこう)御名(みな)なれば
 功徳(くどく)は十方(じっぽう)にみちたまう
  (親鸞聖人「正像末和讃」)

【試訳】
慚愧(ざんき)なきを畜生と名づく」(『涅槃経』)
「慚」も「愧」も、どちらも〈はじる〉という意味です。「慚」は内に向かって自らをはじること「愧」は他者に対して自らをはじることであると釈尊は説きます。
真実の心などない無慚無愧である私に、阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」の念仏を回向してくださいました。
阿弥陀如来の光明は、無慚無愧の私を含め、すべての人々に行き渡っています。

ご自身の内面を見つめ、阿弥陀如来に出遇われた聖人の姿勢が強く表現されている和讃であると、あらためて感じました。

「不思議」について、
目の前にあるものが無くなったり入れ替わったりして「わぁビックリした!!」が不思議ではなくて、
衆生(人間)の思いはからいを越えて、阿弥陀如来から「南無阿弥陀仏」の念仏を回向されている(いただいている)ゆえに不思議なのです。
というようなことをお話しました・・・

で、“不思議”なことに、今日の聞法会の数日前、藤原千佳子先生から、先生のお寺の寺報「法爾」が届きました(教区同朋大会でお世話になってから、寺報やお手紙のやりとりをさせていただいています。ありがたいことです)。
その寺報に、金子みすゞさんの「不思議」という詩が載っていました。

不思議   金子みすゞ

私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。

私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。

「あたりまえ」に思っていることが、どんなに「あたりまえ」でないことか!! どんなに有り難いことか!!
藤原先生の文章をテキストにしながら、藤原先生の寺報からさらに言葉を教えていただき、不思議なご縁をいただきました。
南無阿弥陀仏

お話終わってお茶の時間
毎回参加してくださっているおじいちゃんが、お話を切り出してくださいました。
「今日は私の誕生日でして、94歳になります。正直、こんなに長く生きられるとは思っていませんでした。不思議です。しかも今日、自分の誕生日に聞法会が重なって、みなさんにお会いできて、みなさん私が今話していることを聞いて下さって、不思議で、有り難い気持ちでいっぱいです。不思議がいっぱい積み重なって、今日という日を迎えられました。みなさんありがとうございます」
その他にも、戦前・戦中・戦後の話をしてくださいました。東京の発展に勤められた人生です。一緒に聞いていた小5の娘も、おじいちゃんの熱弁を聞いていて、「大事な話をきかせてもらいました!!」と感動していました。
今日の私の話が「不思議」についてだったから、おじいちゃん“不思議”を連呼されたのではありません。お話は ほとんど聞こえていないのですが、にもかかわらず、「不思議」について語られ始めたので、ビックリしました。おじいちゃんは、西蓮寺寺報を道すがら手に取ってから、聞法会に来て下さるようになりました。
おじいちゃんの姿を見ていて、まさに「仏法不思議」を思いました。
聞法会の場で教えを語る以上に、姿そのものが教えを表わしている。だから、聞法の場とは教えに出遇う場であり、人に出会っていく場として大事にされてきたんだなぁと感じました。

嬉しい聞法会でした。

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