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2019年10月 1日 (火)

2019年10月のことば

2019年も10月を迎えました。報恩講をお勤めする季節となり、ワクワクしてきました。
けれど、まだ暑いですね。夏の疲れが出る頃でもあり、インフルエンザの兆しも出ています。
おからだお大事になさってください。

2019年10月のことば

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葡萄に種子があるように

私の胸に悲しみがある

青い葡萄が酒になるように

私の胸の悲しみよ 喜びになれ

                高見順

葡萄は葡萄のままに

 葡萄に種子があるように

 私の胸に悲しみがある

現代(いま)では「種なし葡萄」なるものもあるけれど、

現代(いま)といえど、「悲しみなし私」を作ることはできない。

人間の理想や欲望に応える形で科学技術や医療が発展してきた。にもかかわらず、科学や医療の発展は、必ずしも悲しみをなくすものではなかった。
人間の理想や欲望に応える形で発展する世の中は、ひとつ欲望が叶えば、それに伴って、より多くの困難や破壊が待ち構えている。その悲しみ、人間が生きることによって生まれる悲しみは、葡萄の種をなくすように消し去ることはできない。

 青い葡萄が酒になるように

 私の胸の悲しみよ 喜びになれ

葡萄の果汁が発酵して葡萄酒になる。見た目は違うけれど、どちらも葡萄。お酒になっても、葡萄は葡萄。
私の胸を締め付ける悲しみ。その悲しみが無くなって喜びが溢れるわけではない。悲しみと喜びは、まるで違う感情のようだけれど、同じ根っ子を持っている。悲しみという根っ子があるからこそ、喜びが生まれる。葡萄が酒になるように、悲しみが喜びとなる。

(高見順さん 1907年~1965年 小説家・詩人)

笑顔の中身

世の人々から差別を受け続けた方、大切な人に先立たれた方、人生の先輩から教えてもらったことばです。

人間って面白いよね。本当にうれしい時って悲しいんだよね

人は笑顔の中にどんなにたいへんなことがあっただろうか

人は、自分自身の悲しさと、人間が生きることによって生まれる悲しみを知り、喜怒哀楽すべてのパーツが揃うのではないだろうか。喜怒哀楽すべてを知った人から自然にあふれる表情が、笑顔なのかもしれない。
周囲の人々を惹きつける魅力を持つ人。その人の顔は、喜びにあふれている。けれど、その人自身の内面が、喜びで満たされているわけではない。喜怒哀楽のすべてを、身をもってした経験が、笑顔という表情で表われる。そんな笑顔の背景には、深い悲しみがある。  笑顔と涙は相容れないもののようだけれど、それぞれがきちんとあるから、本当にうれしいときに涙が出る。こころの中に涙をためた笑顔があふれる。

苦をねぎらう

最近、手紙を書いていますか?

手紙を書きながら、「ねぎらう」は 漢字でどう書くんだっけ?と思った。

調べると「労う」だった。

「へぇ~、苦労の労なんだ!」と、ちょっと驚いた。なぜなら、「苦労」とは、「苦を労うこと」「苦を労われること」と読めるから。

なんらかの越えなければならないものを背負いながら頑張っている人、努力している人、耐えている人がいる。その人の姿を目の当たりにしたとき、自ずと「労い」のことばが出る。
他者(ひと)から労いのことばをかけられたとき、私が背負っている苦しさは、「苦労」となる。
誰かに褒めてもらうために頑張っているわけでもないし、耐えているわけでもない。けれど、私が抱える苦しさを分ってくれる人がいるだけで、苦しさは「苦労」となる。
労いのことばは、私から誰かへかけるもの、私が誰かからかけてもらうもの。つまり、自分ひとりのこととしてなされることではない。「苦」を背負うと、ひとりぼっちの感覚に襲われる。けれど、誰かがそばにいてくれる、そんな安心があるだけで、「ちょっと苦労してるんだ」とためらいなく口にすることができる。「苦」と「苦労」は違う。

「若いときの“苦労”は買ってでもせよ」という故事がある。
「若いときの“苦”は買ってでもせよ」ではないんだなぁと思った。

「苦」は、ひとりで背負っているつもりにもなり、誰も助けてくれないと自暴自棄にもなるけれど、「苦労」と感じられるとき、孤独感はない。
「若いときの苦労は買ってでもせよ」という故事は、「私は自分の力でこれだけ頑張った」と、頑張った記憶を蓄積させるため、自負心を養うためのものではない。「苦しいことがあっても、けっして独りではない」と、ひとりで成り立っている世界ではないと、周りに目を開かせてくれることばだと聞こえてきた。
親鸞聖人の遺教と伝わることばが思い起こされる。

 一人居て喜ばば二人と思うべし、
 二人居て喜ばば三人と思うべし、
 その一人は親鸞なり

葡萄は葡萄のままに葡萄酒となる

「ねぎらう」だけではなく、「いたわり」も「労り」と書く。

人間は、関係性のなかに生まれ、生きている。だからこそ、関係性によって「苦」が生じる。けれど、関係性があるからこそ「ねぎらう」「いたわる」という想いも生じる。「苦労」ということばは、人の世は「苦」だけではないと感じた人が生みだしたのではないだろうか。

「苦」を労ってくれる人がいるのと同じように、「悲しみ」を受け止めてくれる人がいて、「悲しみ」が「喜び」となる。「苦」や「悲しみ」の現実がなくなったわけではないけれど、「苦労」や「喜び」になる。青い葡萄が、熟成した葡萄酒になるように。

 

~掲示板の人形~
いつの頃からかうちにいます
楽器を演奏して楽しそうです

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