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2019年9月 3日 (火)

2019年9月のことば

2019年9月のことば

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もしかしたら、

失うということと、

与えられるということは、

となり同士なのかもしれません

              星野富弘

 

季節は移ろう

7月、恩ある住職が浄土に還られた。彼女の訃報が届いてから葬儀の日まで10日ほどの日があった。彼女の死を、心の中では受け入れているけれど、  横になっている彼女の顔を見ていると、今にも笑顔で起きそうで、死が現実のことなのか嘘なのか分らない気持ちになった。
その10日間は、梅雨寒から夏の暑さへと、気候の変化を感じさせる時期でもあった。
ひとりの恩ある人の死に接し、まるでひとり時間が止まったかのように、人の死について考えていた。けれど、その間も季節は移ろい、気候は変化し、着るものも変わっていった。
私を取り巻く時間が止まっているかのように過ごしていたけれど、すべての物事は変化し続けている。この私も含めて。

そんなことを ふと思ったとき、車を運転する私の耳に、King Gnuの「Don't Stop the Clocks」という曲の詩が飛び込んできた(掲示板8月のことば)。

 春の風 夏の匂い 木々の色めき
 そして今年もまた雪が舞う
 そんな日々を好きになれる
 あなたとなら季節が巡り始める

死は、時間が止まることではなく、 時の移ろい、季節の移ろい、いのちの移ろいの中の、ほんの瞬間に過ぎない。

時の経過の中に身を置いていることを意識的に感じつつ、厳しい暑さを全身に受けながら、8月を過ごしていた。
そんな8月末、お世話になっている お寺の前坊守も浄土に還られた。私が幼い頃から、文字通りお育てをいただいた。うちの娘ふたりも、そのお寺の子ども会でお世話になり、温かい眼差しで包みこんでいただきました。親子共々お世話になりました。ありがとうございます。

死別

人が亡くなることによる別れを「死別」という。“別”れるという字が入っているのだから、「死別」には「失う」という意味も含まれているのだろう。
身近な人、恩ある人との別れは、つらく、悲しく、悔しい思いが湧くこともある。喪失感が私を襲う。
この世に多くのいのちがある中で、そのすべての死についてつらさ悲しさを感じるわけではない。テレビ桟敷で、多くの人々のいのちが奪われたニュースを、食事をしながら他人事のように聞くことがあるかと思えば、一人の人の死に、まるで自分事のようにこころを揺さぶられることもある。
ひとりの人の死が、それほどまでに私のこころを揺さぶるのは、先に往く人から大切な何かをもらい続けていたから。ご恩をいただいてきたから。

 失うことの大きさは、与えられてきたものの大きさでもある。

 与えられてきたものがあるからこそ、失うということがある。

失うものと、与えられるものと、ふたつのものがあるわけではない。与えられたものはつまり失うものであり、失うということはつまり与えられていたということ。事柄はひとつ。いろいろな側面があるだけのこと。

星野富弘さん

星野富弘さんは、1946年、群馬県勢多郡東村(現みどり市東町)に生まれました。
群馬大学教育学部卒業後、夢だった中学校の体育教諭となります。しかし、クラブ活動の指導中、模範演技の際に頸髄を損傷し、首から下の自由を失います。
それから2年ほど経った入院中、 口に筆をくわえて文や絵を創作することを始められました。現在も詩画やエッセイの創作活動をされています。
1991年には、群馬県勢多郡東村(現みどり市東町)に富弘美術館が開館されました。

もしかしたら、

「死別」というと、喪失感の響きが強いけれど、死別とは、与えられていたものの大きさを感じることでもある。
そんなことを想っていた8月下旬、今月掲示している、星野富弘さんのことばに出会いました。

 もしかしたら、
 失うということと、
 
与えられるということは、
 
となり同士なのかもしれません

私は、「もしかしたら、」ということばに強く惹かれました。
「もしかしたら、」というと、予想・想像・推定、あるいは疑いなど、確信を持てないときに使います。けれど、「もしかしたら、」があることによって、星野さんの確信に満ちた感情を感じました。
もし私が病に直面して、不自由な状態に身を置いたとき、喪失感を感じることでしょう。おそらく、星野さんもそうだったのではないでしょうか。けれど星野さんは、創作活動を続けるなかで、失うことと、与えられてあるものが、となり同士であることを感じられた。ある面から見れば「失」かもしれないけれど、それは同時に「得(与)」でもある。首から下の自由は失ったかもしれないけれど、今に至るまでずっと私に与えられ続けているものがある。そういうことを感じた想いが、「もしかしたら、」ということばとして表われたのだと思います。ひとつの大きなものに包みこまれて、今、私がいる。その確信が、「もしかしたら、」ということばから伝わります。

人は、与えられているものによって育てられる。けれど、その与えられているものは、失うことと となり同士である。失うということによってもまた、人は育てられる。

この夏は、別れの夏でもあり、与えられてあるものの大きさを知った夏でもありました。

南無阿弥陀仏

~掲示板の人形~
8月のある日、吉祥寺へ買い物に行き、あるお店に立ち寄ったら、カピバラさんグッズが半額で売っていました!!(商品の入れ替えだったのでしょうか?)
パンダに抱きかかえられるカピバラさん、即買いました。
家に帰って、「9月の掲示板に飾るんだ♪」と子どもたちに見せたら、次女に即奪われました(^∀^)
夏休み中の妻の帰省の際、カピバラさんとパンダさんは、次女に抱かれて飛行機に乗って秋田へ行ってしまいました。
みんな無事に帰ってきて、カピバラさんとパンダさんは9月の掲示板の人形として飾られています。
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