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2019年7月 2日 (火)

2019年7月のことば

2019年7月のことば

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光に照らされることによって
 心の闇の深さがわかる
闇を破るはたらきは
 
闇の中からは出て来ない

ホタル祭り
6月中旬、地元の「久我山ホタル祭り」に、娘と娘の友だちと一緒に出かけました。とはいえ、大勢の人が集まる夜道は危ないので、出店の食べ物を食べて、ゲームで遊んで、まだ明るいうちにホタルを見ずに帰ってきました。
ホタル見物の行列が出来る前に、 ホタルが放たれている多摩川浄水沿いの歩道を通りました。
午後6時とはいえまだ明るくて、歩道から玉川上水を見下ろしてもホタルの光は見えませんでした。それでも、子どもたちはお祭気分を味わえて楽しかったようです。

ホタルで思い出しました
もう30年ほど前の話。京都大谷大学在学中、下宿のすぐ近くに疎水が流れていました。夏になると野生のホタルの光が煌々と舞っていました。あまり知られていないスポットだったので、疎水近辺の住人くらいしか集まらず、ゆっくりと静かにホタルの光の動きを眺めることができました。
現在(いま)はSNSで「今、こんなところにいます!」なんて情報を発信拡散する時代。思い出の疎水沿いにも 人だかりが出来ているかもしれません。それとも、もうホタルはいなくなってしまったでしょうか。

光と闇
まだ明るいうちに玉川上水沿いを歩いていて、ホタルの光を目にすることはできませんでした。できませんでしたが、ホタルは現にそこにいます。明るさの中にいると、光に出あうことは難しいものです。
温もりの中にいるときも、人々の手が差しのべられてある私であることにはなかなか想いを馳せることはできません。暗い、悩み苦しみの中にいるときは、ほんの微かな光でさえも、この私を包み込む温もりを感じるものだけれど。
光だけでは光とは認識できません。闇だけでは闇とは認識できません。 闇があるから光とわかる。光があるから闇と気付ける。

矛盾であって矛盾しない
光と闇  善と悪 清と濁 好きと嫌い 嬉しいと悲しい・・・
相反するものの、その良い方ばかりを選び取ろうとするけれど、それは無理な話です。相反するものは、そのお互いがあるからこそ、それぞれを認識する、感じることができるのですから。相反するものがなければ、片方だけを感知することすらできません。
都合の悪い物を無くそうとして、自分が求めるものまでも無くしてしまってはいないでしょうか。

無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)
親鸞聖人の言葉です。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
〔何ものにもさまたげられることのない光明(阿弥陀如来の慈悲の光)は、人間が持つ煩悩の闇をうち破る智慧の輝きです(その輝きは、温かくてまぶしい)〕

生きとし生けるものを救いたいと願われた阿弥陀如来の慈悲の心。その慈悲の心を「無碍の光明」「恵日」と、光として表現されています。
一方、阿弥陀如来が救いたいと願う衆生(生きとし生けるもの)は「無明の闇」でできています。「無明」とは、「明るくない」ということ。何に明るくないのか。自分自身のことに明るくない、暗い。つまり自分自身が見えていないということを表わしています。
「自分のことは自分が一番よくわかっている」という無知。自分自身の性格や思考や特徴を分っていないということもあります。けれど、それ以上に厄介なことがあります。「自分はこんなに良いことをしている!」と自負していることが、他者(ひと)を傷つけているという悲しさ。「自分はこんなに頑張っているのに」という思いによって、他者の優しさを 見えなくしているという淋しさ。そんな悲しさや淋しさを感じられないという無明の闇があります。

私は欲を持って生きている。そのこと自体は当然のことです。誰もが皆、欲を持って生きています。欲が悪いもので、欲を無くそうと考える人もいますが、欲を滅する必要はありません。欲とは、「あれが欲しい これが欲しい」「あれはいらない あいつは嫌い」「私の思い通りになってほしい」というものばかりではありません。「平和な世の中になってほしい」「自分のことよりも、あの人が幸せになって欲しい」「お腹が空いた 眠たい 生きたい」ということもまた欲です。欲は、「生きたい」という叫びです。欲は無くすものではなくて、あることを自覚しながら生きるものです。
けれど、そんな自分の欲に、叫びに無自覚で生きているのが私です。「無明の闇」に生きています。

「無明の闇」。自分自身のことが見えずにいる私。見えないがゆえに「自分がやっていることに間違いはない」「自分こそ正しい」と思い込み、悲しさや淋しさを感じることなく生きています。そんな「無明の闇」を、阿弥陀如来の光明は打ち破ります。破られるのですから、心の中で何か大きな音がすることでしょう。ハッと目覚めることでしょう。  目覚めは、内から起こるのではなく、 外からの光によって与えられます。

阿弥陀如来の名を称える声「南無 阿弥陀仏」。私が発する念仏の声は、私自身が打ち破られる音。自分自身が見えていなかった私が、見えていなかったということに目覚める音。

阿弥陀如来の慈悲の心は、あたたかくてまぶしい。あたたかくてまぶしい光に照らされて、私の闇の深さを知らされます。闇を破るはたらきは、私の中からは出て来ません。

 

~掲示板の人形~
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