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2019年6月

2019年6月25日 (火)

世のおかげ 人のおかげ

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世のため 人のためという声のみ多くして、世が汚され濁るとき、
世のおかげ 人のおかげと 手が合わさる人によって、世が清浄なることもありましょう
                                                正親含英 

「世のため人のため」という思いが、知らず知らずのうちに他者(ひと)を傷つけている。
私自身が裁判官や審判にでもなったかのように、世を 人を 判定・判断・判別しているのだから。
そんな私は、「世のおかげ 人のおかげ」である身でした。
私は、判定・判断・判別されてある私でしょうか(いいえ、そんなことはありません)。
罪業多く重たい、汚れ濁りの手が合わさる不思議。私の思いを超えた出来事。
汚れ濁りのままに、清浄なる不思議。
南無阿弥陀仏

 

2019年6月10日 (月)

あめだ

雨が好きだ

世界の輪郭が
ぼんやり煙って

私も一緒に
すいこまれそうになる

雨の音が好きだ
すごく落ちつく

まるで やさしく手当て
してもらってるみたい

山も木も
   草も屋根も

そして
 私も・・・


ああ
そうだ

雨だ

修ちゃんは
雨に似てる

姿を見るだけで
ほっとする・・・

泣きたくなって
しまう

迷子になると
いつだって かならず
捜しに来てくれた

いつだって
やさしい手を
差しのべてくれた

その手は いつも
あたたかかった

そうだ 修ちゃんは きっと 私の雨だ

一緒に いると 深く 息ができて

草や木みたいに ぐんぐん のびて ゆけそうな気がする

いつも 困ったような 顔で やさしく笑う

私のだいじな

   だいじな ひと

        『ハチミツとクローバー』第10巻 羽海野チカ(集英社)より 

2019年6月 4日 (火)

2019年6月のことば

2019年6月のことば

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やまない雨はないというけれど、
私は今の雨をあびていたい。

 

禍福はあざなえる縄の如し

不安や悲しみの中にいることを雨の中にたとえて「やまない雨はない。いつまでも降り続かないから」と励ます 言葉がある。

他にも、悲しみを夜の闇にたとえて「明けない夜はないから」と言ったり、悲しみを凍えてしまいそうに寒い冬にたとえて「冬が終われば、暖かい春が来るから」と言ったりする。

その通りなのだけど、「雨はやんでも、またいつか降り始める」「夜が明けて日が出ても、また夜が来る」「春になったらなったで花粉症の季節だといって歎き、夏の暑さに辟易とし、秋は淋しいといい、そしてまた冬の寒さを迎えては早く暖かくなるといいなと口にするのに」ということも考えます。

そもそも悲しみという雨がいつやむのか、いつ夜が明けるのか、いつ春が来るのか分かりません。

身も蓋もない話をするようですが、この世界を生きていて、不安や悲しみがなくなるということはありません。その不安や悲しみの原因を他者に求めるけれど、私自身が不安や悲しみを作り出しているうちのひとりでもあります。

「不安や悲しみがなくなるということはありません」と言いましたが、嬉しいこと楽しいことも同様になくなるということはありません。

「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉があります。「縄は紐(ひも)をより合わせて作るように、人生は禍(災い)の紐と福(幸せ)の紐がより合わさり、一体となって形作られていく」という意味です。

縄は、紐をつなぎ合わせて作るのではなく、細い紐を何本もより合わせて作ります。このことは、禍福が交互に訪れるわけではなく、禍福は一体である、共にあるということを表わしているのだと思います。

禍福を、個人の身に起こる出来事として捉えたならば、禍の後にはきっと福が訪れると、希望を抱きたくもなります。けれど、私が生きているこの大地には、70億を超える人間が共に生きていて、こんにちに至るまでに数え切れないほどの人々の歩みがあって、人間以外にも多くのいのちが生きています。その現実に想いを馳せれば、お互いにつながり合いながら、影響し合いながら生きているということは容易に想像がつくことです。禍福があざなえる縄の如くにあるということの意味は、個人の身に起こることとしてではなく、人間に、すべてのいのちに禍福が同時に起きていることを訴えているように感じています。

私の日々の生活のために、どれだけの人の手を煩わせていることでしょう。私が喜んでいるそのときに、涙している人がいるのではないだろうか。私が悲しみの中にあるとき、ほくそ笑んでいる人もいれば、共に悲しんでくれている人もいる。私のしていることが、私の存在自体が、誰かを元気づけていることもあるかもしれない。

雨雲が通り過ぎて晴れ間がのぞいたとき、先の雨雲によって雨降られている人がいる。

夜が明けて朝日を浴びているとき、暗闇の中に身を置いている人がいる。

冬が去って春が来て、その暖かさに心落ち着かせているとき、冬の寒さに身を震わせている人がいる。

禍福あざなう世界で、私は私として生きています。「こんな悲しみなければいいのに」と思うことは誰にでもあります。けれど、「こんな悲しみ」も含まれる延長線上で、私は私となりました。

想いを馳せたとき、私の生きている大地は、そもそも雨の中なのだと目が覚めます。雨の中こそ私の生きる場。お互いに関係を持ちながら、影響し合いながら生きているのだから。

傘・・・本尊

雨の中に身を置いている現実に、「いつかこの雨もやむだろう」と待ち続けるわけにはいきません。そのとき手にしたいのは、雨の中に身を置き続けられる傘。つまり、私を守ってくれるもの。

宗教に、雨をやませる力などありません。「あなたは今、雨の中にいます」と気づかせてくれるものです。そして、その雨の中、私と共にあり続けてくれる傘の存在を説き示します。その傘とは本尊、阿弥陀如来。「南無阿弥陀仏」の念仏です。

ひとりがひとりに出遇(あ)う

福島県二本松市に佐々木道範さんという真宗大谷派の僧侶がいます。 原発の事故後、子どもたちのために除染作業等に取り組まれています。彼が話してくれたことが忘れられません。

「原発の事故が起こるまで、私だってイラクの人々・子どもたちの痛み悲しみに無関心でした。でも事故後、他者(ひと)の痛み悲しみを聞くと胸が痛いんですよ。でも、痛み悲しみに出会って、胸が痛みながら生きることが本当に生きることなのかなと思うようになりました。」

「目の前に生きている人間がいるんです。その人と出会って、ひとりがひとりに 出遇っていくしかないんです。出遇ってしまったら忘れられないんです。」

他者の痛みを自分の痛みとして感じる。胸が痛い。けれど、その痛みを感じながら生きてゆくことが、本当に生きることだと感じるようになった。それほどまでに他者の痛みを感じることができるのは、ひとりの人間が、目の前にいるひとりの人間に出遇っているからです。佐々木道範さんから、胸に痛みを感じるほどに人と向き合うということが出遇いなのだと教えられました。いや、本当に人に出遇うからこそ、痛みも伴うのでしょう。享楽は一瞬ですが、痛みは一生です。だから忘れられません。

自分が生きている大地を感じながら、阿弥陀如来と共にありながら、私は 今の雨をあびていたい。南無阿弥陀仏

~掲示板の人形~
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カエルのピクルスくんと、ヤクルトスワローズの応援傘
スワローズの応援傘(マイクロカサ)は、神宮球場で買ってきました。
スワローズ11連敗の夜でした😃

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