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2019年5月22日 (水)

しあわせ

『JAF Mate』 2019年6月号を読んで・・・

白石玄さんの連載「幸せって何だろう」 父として生きる

 幸せとは何かと問われて、これまで幸せについてあまり考えたことがないことに気がついた
   (中略)
 ぼくは6歳で父を亡くしたのだが、思い返せばその頃から、自分が幸せかどうかを考えることを放棄してしまったような気がするのだ。
   (中略)
 ただ、最近、こういうのが自分にとっての幸せなのかもしれないなと思うことがあった。先日、もうすぐ2歳になる息子を連れて、初めての父の墓参りに行ったのだが、柄杓(ひしゃく)で墓石に水をかけるのを息子にやらせてみたら、よたよたとうしろに下がった息子が、バランスを崩して水の入ったバケツにお尻からはまってしまった。ずぶ濡れになった息子は、ぼくや妻に笑われながら、墓の前で全裸になって服を着替えた。そしてそのあと線香をあげ、息子と一緒に父に手を合わせたときに、じんわりと胸に込み上げてくるものがあったのだ。息子を父に会わせることができたのが嬉しかったのはもちろんだが、バケツにはまって墓の前で全裸になったのが初対面だなんて、父は笑っているだろう。体の中で生と死がきれいに混じり合うような感覚があって、その瞬間に「あ、今、俺幸せかも」と実感している自分がいた。
  (後略)

 

白石玄さんのことばを読んでいて、祖母(母の母)との別れを思い返していた。
7年前の夏、おばあちゃんは阿弥陀さまのもとへ還っていった。私が幼いとき、おばあちゃんは長崎から出て来て私の面倒を見てくれた。私の礎は、おばあちゃんがつくってくれた。
おばあちゃんが亡くなったとき、母(坊守)はちょうど帰崎していた。これから東京に戻るというときにおばあちゃんの訃報が入った。急きょ、父(住職)の分の飛行機のチケットも手配して、長崎に送り出した。母も父も、長崎のおばあちゃんの通夜葬儀に参列することができた。よかったし、嬉しかった。
おばあちゃんのお見送りをできなかった私は、後日、妻と娘たちと共に長崎に向かった。おばあちゃんの家(母の実家)に行き、おばあちゃんのお骨が安置してある中陰壇の前へ。おばあちゃんと話をする前に、おばあちゃんと共に生活してくださっていた伯父と伯母に挨拶をした。「今までありがとうございます」。言った瞬間、「あ、これダメだ。涙が溢れる。いいや、思いっきり泣いてしまおう!!」と嗚咽しそうになったその瞬間、よちよち歩きの次女が中陰壇に行き、お焼香の香炉に手を伸ばそうとした。伯父・伯母・母・妻・私・・・みんなして「あぶないっ!!」と叫び、私が次女を抱きかかえて事なきを得た。ちょっとした空白の時間が流れ、誰ともなく笑い出した。みんなで笑った。涙も吹き飛んだ(泣けなかった、泣くタイミングを逸したというわけではなくて、みんなで笑えたことが、私にとっての嗚咽になった)。
長女は、おばあちゃん(長女・次女からいえば ひいおばあちゃん)に会ってはいるけれど、記憶はない。次女は、会っていない。会っていないけれど、中陰壇前でのやりとりを通して、彼女たちはひいおばあちゃんに会ったんだ。当時、「おばあちゃんに娘たちを会わせることができた」って胸の中で思えた。会わせることが出来た嬉しさを覚えている。
白石さんも、同じようなことを感じられたのではないだろうか。

先日、ある方のご法事を寺でお勤めした。
法事の依頼の際に、お施主さんが「ちっちゃい子どもが6人もいて、お騒がせするかもしれません」と言うので、「賑やかでいいじゃないですか!」と応えた。
私のおばあちゃんの通夜葬儀の際も、私の家族が参列できなかっただけで、孫8人 ひ孫13人(だったかな?)が集まった。とても賑やかだったとのこと。ひ孫のひとりが、「おつやってたのしいね!!」って言ったそうです。同じくらいの年の子がいっぱいいて、みんなではしゃいで、みんなでご飯食べて、それは楽しいよね^^
「おつやってたのしいね!!」ってセリフを伝え聞いて、とても嬉しかったです。おばあちゃんもひ孫たちに、ひ孫たちもおばあちゃんに会えたなぁって。おばあちゃんを ちゃんと送ることが出来てよかったと思いました。
だから、葬送の場においても、法事の場においても、孫やひ孫が集まって賑やかであっていいんです。泣いても笑ってもいいんです。
寺で法事をしたのは、7回忌の方でした。6年経つわけですから、その方が亡くなったあとに生まれたひ孫さんもいました。亡き方と、実際に会ってはいませんが、ご法事を通して、ご本堂で阿弥陀さまを前にして、墓前で、先往く方とひ孫さんはしっかりと出会えました。

昨今「墓じまい」が流行っているようですが、出会いの場をなくしてどう生きてゆくのだろう?と感じます。
ご法事を勤めること、お墓をお参りすることは、亡き方のご供養という意味だけではなく、私が生きるための杖であり、支えであるのだと思います。
手を合わせる、涙を流す、みんなで笑い合う場所を用意してくださって、ありがとうございます。南無阿弥陀仏

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