« ボヘミアン・ラプソディ | トップページ | 2019年5月のことば »

2019年4月29日 (月)

時代のせいにしない

5月1日、「平成」から「令和」へと元号が変わる。世の中はお祭騒ぎをしている。

今は、「平成最後の〇〇」が耳に付く。「平成最後の〇〇大会優勝!!」などは、そう表現したくなるのも分かるけど、「平成最後の水曜日」「平成最後の木曜日」などと言い出したときには閉口した。きっと「令和最初の水曜日」「令和最初の木曜日」とか言い出すのだろう。

「昭和」から「平成」に移行したときは、昭和天皇が崩御されてからのことだからお祭騒ぎムードになるわけもなく、「昭和最後の〇〇」「平成最初の〇〇」などと言える時間もなかった。だから、「平成」になったときの印象は薄い(ただ時間の経過だけの話ではなく)。

「平成」から「令和」に変わる現代は、お祭騒ぎ。

今上天皇(平成天皇)が生前退位を希望されてから、「平成30年12月31日まで」とか「平成31年3月31日(年度末)まで」とか「新元号の発表は前年の早い時期に行ない、混乱を最小限にする」とか、政府は言っていた記憶があるけれど、今上天皇の退位の時期も新元号の決定も、政治介入の臭いがプンプンする。

「天皇制の賛否を言いたいのではない」と以前も投稿したことがあるけれど、限りあるいのちを生きるひとりの人間の人生・生き死にに関わることに、ここまで政治が足を踏み入れていいのだろうか! と、最近特に感じる。

さて、過日あるテレビ番組で、「平成」を振り返る映像を流していた。すると出演者のひとりが、「今の映像は、“平成”を振り返ったわけではなく、“昭和”からを振り返っていますよね」とコメントしていた。「あぁ、そうだなぁ」と痛感した。「平成」を振り返ったとき(振り返ろうとしたとき)、「昭和」から続く時代として、つまり戦前・戦中・戦後を抜きにして「平成」は語れない。元号は変わろうとも、時代は続いている。ひとつの流れの中にある。

元号が変わるのを前に「令和は良い時代になってほしい」「令和も戦争のない時代であってほしい」などという町の声をテレビでは聞くけれど、ひとつの流れの中にあって、元号の変わり目で物事にきれいに境界線が引かれるわけではないし、「令和」という時間軸を生きるのは日本だけなのだから、世界が「平成の間は険悪な状態で」とか「令和になったから仲良くしよう」とか考えるわけもなく、つまりは「令和になったらこんな時代を」と夢見るのは、とても不自然な話だ。

「夢見るのは」なんて嫌な書き方をしてしまいました。新元号に夢や希望を託す方にケチをつけているわけではありません。時代の一区切りが30年もあれば、その終末は良い状態よりも閉塞状態の印象の方が強くなるものです。だから、平成31年が終わろうとしている現代(いま)は、「良い時代だったね」という感覚よりも、閉塞感が漂います。実際、「おかしいな」と感じることを表現・表明すると叩かれてしまう世の中です。息苦しい(生き苦しい)時代です。

でも、お祭騒ぎをしている人たち、良い時代を夢見ることを口にする人たちが、過去に持っているイメージ(特に悪いイメージ)やバラ色の未来を描く内容には、“自分”が抜けているように感じます。私もこの時代を生きるひとり。他人が為した過去ではないし、他人が形づくる未来でもない。

書きたかったことはここからです。助走が長くなりました 平成最後の愚痴でした(^∀^)

2019年4月25日(木)「東京新聞」朝刊30面より

「子の居場所 地域が育む」という見出しで、東京池袋にある子どもたちの居場所として2年前にオープンした「WAKUWAKUホーム」が取材されていました。理事長 栗林知絵子さんがインタビューに応えています。

子育て中の専業主婦だった2003年を振り返る。

当時、自由に外遊びできる区のプレーパークが近所にでき、運営団体の代表を任された。そこで出会った子どもたちから、貧困の実体を聞いた。区へ報告したが状況は変わらなかった。

「高校に進学できないかも」と話す男の子との出会いをきっかけに学習支援を始め、2012年にネットワークを立ち上げ、翌年に子ども食堂を開設。その後も、子どもの困り事を知ると「何とかしたい」と取り組みを広げた。ホームもその一つだ。

子どもの貧困は以前からあったのに、なぜ問題にされてこなかったのか。「本来、親がやるべきこと」「まずは自助。順番を間違えるな」。子ども食堂を始めたころ、栗林さんは行政職員や議員らからこんなふうに言われたという。

「子育ては家庭の役割」が当然だった昭和が終わって20数年、「地域で育てる」という考え方はまだまだ理解されていなかった。しかし、子ども食堂の取り組みは急速に全国へ広がり、今では3000カ所ともいわれる。地殻変動は起きた。

幼児がマンションに置き去りにされて餓死するなど、家庭の機能不全を示す事件が各地で相次いだ。非正規雇用の問題では大人の貧困がクローズアップされ、子どもの貧困にも人々の目を向けさせた。今も子どもの貧困率は高く、いじめや虐待で犠牲になる子どもも後を絶たない。解決は新しい時代へ持ち越された。

「家庭にすべて任せるのは限界だと、やっと理解されてきたのでは。各地での小さな積み重ねは、いつか大きな力になります」。栗林さんは信じている。

4月25日の朝、この記事を読んで、「平成」から「令和」へと移ろうとしている現代(いま)のモヤモヤの正体が分かった気がしました。

子どもの貧困、大人の貧困、家庭の機能不全など、最近ではだいぶ周知されるようになってきたと思います。思いますが、それでもまだ「子どもの貧困なんて、そんなにないでしょ」「大人の貧困? 自分の責任でしょ」「家庭の機能不全なんて、親がシッカリしなきゃ!」などという声、考え方、意識が強いようにも感じます。

貧困問題、働く場の環境問題、家庭問題だけではなく、性差別の問題もあるし、自分の性に関して世間では理解されない悩みを抱えている方もいらっしゃいます。

新聞記事に「解決は新しい時代へ持ち越された」とありますが、元号は変わっても、時代はひとつの流れのままです。そして、その時代とは他人事の時代ではなく、私も身を置く時代です。今まで同様、貧困問題に無関心、性に関する悩みに無理解なままの私であるならば、たとえ時代は変わっても、解決なんて望むべくもないし、よりままならない時代、格差が開く時代、険悪な時代、生きづらい時代へと突入していきます。元号が変わろうとも、そのままであろうとも、なくなろうとも、そんなこととは関係なく、自分は今を生きる私であり、同じ時間を生きるいのちがあり、今の生き方が未来へと続いているという認識を持たなければいけない時代だと思います。

« ボヘミアン・ラプソディ | トップページ | 2019年5月のことば »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ボヘミアン・ラプソディ | トップページ | 2019年5月のことば »

フォト
2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ