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2019年2月

2019年2月13日 (水)

人間には、いのちには、本来肩書きなんてない

池江璃花子さん あなたは あなたでしかない かけがえのない いのちを生きています。

水泳の第一人者とか 東京オリンピックの代表選手とか 金メダル候補とか そんな肩書きは本来いのちには付いていないものです。
また第一線でとか オリンピック目指してとか メダルを取れるようにとか それは本人の中でのモチベーションとしては大切だけど、他の人が言うことではない。そういう肩書きとか 目標が付かなくても、池江璃花子さんは池江璃花子さんです。

池江璃花子さんの笑顔から多くの力をもらっていました。 
快復を念じています。

人は、肩書きや功績がある他者(ひと)でないと愛せないのだろうか。「頑張って」と励ませないのだろうか。いや、そんなことはない。池江璃花子さんのことをこんなにも多くの人が心配している。それは、誰に向かっても心配する心の根っこがあるということ。
池江璃花子さんは、自分と同じ病気と向き合っている(「闘っている」は違うかな、と思いました)人たちのことも知って欲しくて、自分の病気を告白し、治療に入られました。彼女を応援するならば、彼女と同じ病気の方々、もっと視野を広げるならば、さまざまな困難を抱えながら生きている方々のことにも、想いを馳せることができるはず。そのことが、彼女が病気を告白したことに対する応え(応援すること)につながります。

人は、
一人ひとりのいのちを生きているのだけれど、
みんなつながっている。
だからこそ
喜びも伝わり、 悲しみも感じられる。

2019年2月 1日 (金)

2019年2月のことば

1月末、娘たちが時期をずらして風邪をひきました。次女が先で、普通の風邪。熱が40度近く出たので、「インフルエンザだね」と妻と言いながら小児科に行ったら、インフル反応出ませんでした。1週間ほど寝てましたが、鼻水ズルズルの風邪でした。次女が治りかけた頃、長女が発熱。でも、熱が出たといっても37度ちょっと。「長女もただの風邪だね」なんて言いながら小児科に行ったら、「インフル出たよ!!」ってお医者さん。あらあら、長女も安静。結局、トータル10日近く子どもたちの看病と、自分たちは うつらないように気を張ってました。1月末にキャンセルできない仕事があったので、頑張りました 長女も快復。まだ油断はできませんが、ひとつ(ふたつか)の山は越えました。皆様もお気を付けください

   

2019年2月のことば

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腹立たば 鏡を出して 顔を見よ
 鬼の顔が ただで見られる

凡夫というは
今月のことばに出会い、親鸞聖人のことばを思い出しました。

「凡夫」は、すなわち、われらなり。 (中略)
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、 ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと
(『一念多念文意』 真宗聖典544・545頁)

(試訳)
凡夫というものは、煩悩が我が身に満ち満ちています。欲も多くて、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみ、それらのこころを多く持っています。しかも、それらのこころが時折顔をのぞかせるのではなく、一瞬の間もなく、臨終のそのときまで止まることがありません、消えることがありません、絶えることがありません。そんな凡夫とは、私のことですと(親鸞聖人は告白されました)

私の中の鬼性
「鬼はそと、福はうち」
「この方角は鬼門だ」
「鬼の目にも涙」
「鬼籍に入る」
「鬼」は、災いの代名詞として表現されています。ということは、「鬼」の正体を、自分以外のものに見るのではないでしょうか。「自分の中に鬼がいる!」「自分自身が鬼だった!」なんて、誰も思いもしないことでしょう。
親鸞聖人のことばを思い出したのは、自分の中にある怒り、腹立ち、そねみ、ねたみのこころ、つまり、自分の中にある鬼性を見ておられるから。
「私ってどういう人間だろう?」と、自分自身を見つめるとき、少しでも自分の良いところを数え上げたくなるものです。自分の欠点を挙げて反省できる人もいるかもしれませんが、臨終の一念にいたるまで私の煩悩がやむことはありませんとまで言い切れるでしょうか。
親鸞聖人は、どうしてそこまで言い切れたのでしょう。それは、阿弥陀如来に支えられているという想いがあるからです。支えられている想いがないと、何も頼るものがなく、寄る辺なくフラフラしたままの状態になります。
「支えられている」と書きました。誰もが既に支えられています。阿弥陀如来を信じた者のみ、支えの手が差し伸べられるのではありません。既に支えられている私です。支えられている想いがある人は、阿弥陀如来がいるという想いの中で迷うことができます。阿弥陀如来に支えられている想いがないと、既に私を支えているものがあることに気付いていないのですから、何も頼るものがない中で迷うことになります。
阿弥陀如来に支えられている想いがあるかないかで、迷い・悩み・苦しみを抱えながら生きていることに変わりはないけれど、物事の見え方や生きざまは変わります。阿弥陀如来に支えられていることを教えられるのが聞法です。どうか仏法聴聞の人生を歩んでください。
阿弥陀如来は、煩悩に覆われ、迷い・悩み・苦しみに沈む私を憐れみ、助けずにはおれないと誓願を建てられました。
煩悩の海に溺れる私を助けたいと願われた阿弥陀如来。その阿弥陀如来を信じるということは、煩悩の海に溺れている自分自身を知るということです。仏法聴聞して阿弥陀の誓願に触れるということは、自己を知ることに通じます。だから、親鸞聖人は自分の中の煩悩性(鬼性)を表現せずにはおれなかったのです。

経は鏡なり
善導大師に、「経教(きょう)はこれを喩(たと)うるに、鏡のごとし」ということばがあります。「お経(お釈迦さまの教え)は、喩えるならば、私を映し出す鏡です」と。
お経は、悩み苦しみを取り除いて くれる有り難いことばではありません。あるがままを説いた当たり前のことばです。けれど、あるがままを受け容れることはなかなか難しいものです。
日常、鏡を見るとき、自分の良い面しか見ません。あるいは、良く見えるように体裁を整えます。鏡に映る自分の姿といっても、自分のお気に入りの所だけ見ていては、私の本当の姿を見ることはできません。
お経のことばに触れる、仏法聴聞するとは、私の本当の姿を映し出してもらうことです。耳障りの良いことばを聞くためでも、自分を正当化するためでもありません。あるがまま、そうなるようにしてなった、つまり、縁をいただいて成った私であることを聞くのです。
そしてもうひとつ。鏡は、光を集めて反射することによって、ものが映ります。同様に、鏡に喩えられる経を通して、阿弥陀如来の光明に照らされている私の姿が見えてきます。
煩悩は、自分で意識しているときだけ現われ出るのではありません。自分で意識していないときも常に煩悩は表出しています。臨終の一念まで煩悩のこころがなくなることがないという親鸞聖人の告白は、いつまでも阿弥陀如来の光明に照らされてある私ですという告白です。
腹が立ち、鬼の形相になったとき、本当は自分が一番つらいはずです。怒りのこころを持ち合わせる自分であるという気付きは、自分で自分に噛みつくような痛みを伴うものですから。とはいえ、怒りのこころを臨終の一念まで持ち合わせるのが私です。阿弥陀如来の支えと共に、私はあります。

   

掲示板の人形
今月は「鬼」が出てくることばだったので、「なまはげ」のお面を飾りました。
といっても、「なまはげ」は「鬼」ではないんですよね。災いを取り除いてくれる、神の使いです。
いつの頃からか、「鬼」と思われるようになりました。
でも、「鬼」だって災いの元ではありません。秀でた才能・能力を持つ者を「鬼」と表現しました。
強いお相撲さんのことを「鬼のように強い」とか、綺麗な人を「鬼のようにかわいい」とか言ったりします。
つまり、「鬼」を災いの代名詞のように言うのは、ひがみややっかみからなのかもしれません。
まさに私の中の「鬼性」です。
ひがみ・やっかみのこころは、臨終の一念まで消えません

妻は、秋田県男鹿の生まれです。「なまはげ」のお面は、かつて弟が送ってくれました。
毎月かわいい人形を楽しみにしている人には、衝撃的でしょうか
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