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2018年12月

2018年12月14日 (金)

今年の漢字 2018年は「災」。

良寛さんのことばが思い起こされます。

 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
 死ぬ時節には死ぬがよく候。
 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
 

「災難に逢うときには、逢えばいいのです。死ぬときには、死ねばいいのです。これが災難を逃れる優れた方法です」
衝撃的なことばですが、「あう」を「逢う」と書いているところに大きな意味があります。
災難に「あう」という場合、たいてい「遭う」と書きます。好ましくない出来事に「あう」という意味です。しかし、愛しい人に「あう」という意味を持つ「逢う」を良寛さんは書かれています。
災難や死。私の身に起きて欲しくない出来事を「逢う」と表現する。まるで人生において大切な出来事のように。どうしてそのように表現できるのでしょう。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」は、良寛さんのお手紙です。三条大地震(1828年11月12日)にあった友人に送ったお見舞いの手紙です。お見舞いの手紙ですが、良寛さん自身も同じ地震の被災者なのです。決して他人事としてのことばではありません。

ふたつの詩を紹介致します。

 雨の日には雨の中を
 風の日には風の中を
         相田 みつを
 
 くだり坂には
  またくだり坂の
   風光がある
         榎本 栄一
 
雨・風・くだり坂…これらは逆境を表わしていることばだと思います。
雨や風の中にいるときは晴れの日を夢見て、くだり坂を歩いているときは平坦な道を待ち望むものです。しかし、望みが叶ったときに雨や風やくだり坂の苦労を忘れてしまっては、たとえ晴れの中にいても、たとえ快適な道を歩いていても、出てくるのは愚痴ばかりです。そんな生き方をしているのが、私の現実ではないでしょうか。
ご紹介した詩は、逆境を生きている人の言葉です。逆境を生きている人のこころの奥底から生み出されてくるのだと思います。決して、逆境から何とか抜け出せて、ホッとしたときに書いたのではありません。逆境を自分の生きる場所として生き続けたのです。雨の中・風の中・くだり坂、そこに私が生きるべき場を見出されたのです。「逢う」ことが出来たのです。
嬉しくて楽しいことこそ記憶に残ってほしいけど、人生において眼に焼きつき、こころに刻まれることは、どうしようもなくつらい出来事ばかりです。不思議です。幸せや平穏無事な生活を望みながらも、生きている事実を実感できるのは、雨風の中を生きているときなのですから。
「あなたが生きるべきはいつの世でもない。あなたが向かうべきはどこでもない。今、あなたが立っている、ここですよ」
雨風の中を生きられた方々の声が、今、私にまで伝わっています。

2018年12月11日 (火)

自分を守ろうとするとき、すべてを傷つけてしまう

医学部入試における、女子や浪人生への差別行為について、順天堂大学の新井一学長が「差別は少なくとも2008年から行われていた」と会見した。
会見で新井学長は女子差別について、

医学部の1年生は全寮制で「女子学生の
収容能力に制限があったため」と説明。また「女子は男子より精神的に成熟しコミュニケーション能力が高く、面接で高得点になる傾向があった。差を設けたのではなく、男性を救う補正」だったと強調した。
」〔「東京新聞」2018年12月11日(火)〕
とのこと。
寮の理由は、入試要項に書かねばならなかったこと。寮のキャパのため、女子は◯名、男子は◯名の合格を上限とする、と。それも問題ありだけど。
後半の「男性を救う補正」は笑ってしまった。(少なくとも2008年から入学の)OB男子さん、すべての男子学生さん、今年受験される方、男子は精神的に成熟しておらず、コミュニケーション能力に欠けると言われてますよ💦
「間違いでした。申し訳ありません」が言えず、自分の中で「これなら理由になるだろう❗️」と考えたことって、結局理由にも説明にもならず、火に油をそそぐことになる。
結局、女子も男子も、すべての学生・受験生を軽視した発言になってしまいました。
コミュニケーション能力に欠けてることを自ら暴露しているような会見でしたが、この学長だけの話ではなく、私の問題。ハッキリとした理由があるときは、あらかじめ表明・表現しておかないと、結果お互いが傷つきます😢

2018年12月10日 (月)

今は永遠の今

「昔はよかった」とか
「あの頃に戻りたい」などというセリフを耳にすることがあるけど、
そんなときに思う。
そんなによかったのなら、
どうして今に続かなかったのだろう?って。
その当時にはその当時の、
良くなさがあり、
今よりは明るい未来を夢見ることがあったはず。
今を悲嘆し未来を想い、
今に落胆し過去を懐かしむ。

なぜ私は生まれてきたのか?
仏教に出会うため。
そこから、今を見つけることが始まる。

2018年12月 9日 (日)

暴力とは、手を出す行為に限らない。口による暴力もあ。

大相撲、貴ノ岩が暴力行為で引退。
暴力はいけない。自身で考え決断し、引退を選んだことだとは思う。
それにしても、当人の口から語られる前に、なぜ「引退」の文字が報道されるのだろう。
プロ野球でも、オリックスからFAした西投手が、移籍先を発表する前に「阪神」の文字が踊った‼️
マスコミ辞令は昔からあったけれど、他者(ひと)の人生に対して、あまりに軽すぎる。
軽すぎるのは、マスコミという意味だけでなく世間も。
「自分が暴力を受けてつらい思いをしたのに、他者(ひと)に暴力をふるうなんて許せない💢」という声をよく聞いた。で、「もう引退だ❗️」と。
ちょっと違和感があります。「自分が暴力を受けたのに、他者に暴力をふるうなんて許せない」という論法は、筋が通っているようだけど、実は全然通ってない。というか、結びつけられないのが人間です。自分が暴力を受けた私であっても、受けてない私であっても、いろいろなことが積み重なって手が出てしまうこともある。(決して暴力を容認しているわけではありません。)
それと、「暴力を受けたのに、他者に暴力をふるうなんて❗️」と言う方は、恐らくかつての貴ノ岩に同情し、励まし、応援されていたことでしょう。それゆえに許せない気持ちも強く出ます。つまりそれは、「裏切られた」という怒りの表出。暴力をふるったことに対する「引退」勧告というより、裏切られたことに対する「引退」勧告のような。
応援していたのならば、これからも応援し続けることが本当の応援では。ほとんど大相撲の世界しか知らない28才の青年が、社会の荒波に放り出されるのですから。

2018年12月 8日 (土)

イマジン

数日前、ご法話を聴聞。
ご講師が、「あと数日で12月8日を迎えますね。さて、何の日でしょう?」と、聴衆にお尋ねになりました。
そこまでのお話の流れで、「成道の日」のことを言われているのはわかりましたが、聴衆から「真珠湾攻撃の日」の声が。
「そうですね。その日であることも忘れてはいけませんね」と、冷静に丁寧に話されるご講師。それから、「成道の日」、お釈迦さまがさとりを開かれた日であることをお話されました。
私の中で「ジョンレノンの命日!」であるも思い起こされました。

想像してごらん 人のことを想うということを
想像してごらん 平和な世の中を
想像してごらん 想像するということを

みんなの中には ひとり ひとり がいる
ひとりの中には みんながいる

2018年12月 7日 (金)

機械の目よりも

2018年10月28日、ハロウィン直前の東京・渋谷での軽トラックの横転事件。
警視庁は、現場にいた人たちが撮影した動画や防犯カメラの映像を分析するなどして、特に悪質な4人を逮捕したとのこと。
たしかに、羽目を外しすぎです。逮捕されても仕方ないと思うし、地元商店街の方々は安堵されたのではないでしょうか。
とはいえ、防犯カメラの性能や設置数、警視庁の執念には驚かされます。
悪いことをした人が捕まる。それは良いことですが、もう監視社会ですね。
「防犯カメラを街中に設置する」という話が出た当時、「プライバシーの侵害だ」と、世論的には反対が多かったように記憶しています。けれど、実績を積むと、「安全のため、犯人逮捕のために必要だ!」という声が多数を占め、防犯カメラはこれからも増えていくことでしょう。
「自分は見られてはいけないことなどしないから困らない」とお考えの方もいるでしょうが、悪いことをしていないにしても、見られている、記録されているのですよ。怖い社会・窮屈な社会だと思いませんか?
それに、犯罪抑止になるのか?

東名高速あおり死亡事故で、罪に問われている被告の裁判員裁判が3日から始まりました。
運転する者として、あおりは怖いです。
ドライブレコーダーが売れているそうです。そうですよね。記録しておけば、あおられたときに証拠になるし、ドライブレコーダーが付いていることが、あおりドライバーに分かれば、あおらずに サッサと行ってしまうかもしれないですしね。
けれど、あおり運転の摘発は増えているとのこと。ドライブレコーダーの証拠があるから、摘発が増えているのかもしれません。けれど、記録されていることが分かっていても、それでもとんでもないことを しでかしてしまうのが人間なんだなぁと痛感しています。

ドライブレコーダーも、抑止にならない 人間の暴走。
幼い頃に言われた「お天道様が見ているよ」のひと言が、大人になっても思い起こされて、すんでのところで立ち止まって人もいるかもしれない。
機械の目よりも、自分を見つめる眼を持ちたい。

2018年12月 6日 (木)

通信障害

2018年12月6日(木)
ソフトバンクの通信障害により、ソフトバンクのサービスを受けられない状態が長時間に及んだ。
通話もできず、ソフトも使えず、多くの方々が困っている映像が流れた。
通信障害によって生じた不便を受けて、「偏重するのも考えものですね」「こういう状態は、これからも起こり得ることですから、私たちはその対策もしておかなければいけませんね」と、キャスターやコメンテーターは言う。
その通りなのだけれど、これほどまでに私たちの生活になくてはならないものになっていたことに、あらためて驚く。
スマホに依存されている方は大変だなぁと感じる。私もユーザーではあるけれど、ほとんど利用していないに等しい。使いこなしていないという言い方もできるけれど。
あまりどっぷりつかってなくて良かったと思いつつ、妻とお付き合いをしていた頃のことを思い出す。
デートの約束は「○月○日の何時に どこどこで」程度。
「どこどこで」とは、「新宿で」「池袋で」レベルでの約束。
で、約束の時間になったら携帯で電話して、お互いの居場所を確認して、分かりやすいところで落ち合う。
あぁ、そんなときに通信障害になってたら大変だ!

懐かしいことを思い出させてもらったソフトバンクの通信障害。
そんな12月6日は、結婚11周年。ありがとう
うちは、通信障害になっていないと思うけど・・・

2018年12月 2日 (日)

2018年12月のことば

2018年も12月を迎えました。
「一年早かったね」「今年もあと一ヵ月だね」と、会話を交わします。でも、2018年、ここに至るまで、べつに時間の経過のスピードが上がったわけでもなく、330余日、一日一日誰もが過ごしてきました。
元日の一日も、12月に入って追われるように過ごす一日も、同じ一日。
あれほど汗かいてへばりながら過ごした夏の日も、寒さに震えて過ごす一日も、同じ一日。
今日という日を味わいながら生きていこう

   

2018年12月のことば

失ったものの大きさは
与えられていたものの大きさでもある

お育てをいただいています
私(副住職)が京都から西蓮寺に戻っておよそ25年。お寺での歩みは、そのまま門徒さんと歩んだ歴史でもある。幼少期から私を知っている人、京都から戻ってきた私を涙ながらに迎えてくれた人、叱咤激励くださった人・・・お育てをいただいてきたことを想う。
あるご夫婦が亡くなられました。昨年旦那さんが、今年奥様が亡くなられた。お二人には、幼い頃からお世話になりました。過日、奥様の納骨法要をお勤めした際、不意に涙がこぼれ、自分でもびっくりしました。想いを越えて、からだから自然にあふれました。それだけ大きな何かをいただいていたのですね。ありがとうございます。

出会いと別れはひとつの事柄
いのちあるものは、やがていのちを終えて往く。出会いと別れは別々のものではなく、ひとつの事柄。出会ったときに別れは始まっている。別れたときに、本当に出会えるということがある。あなたから与えられていたものの大きさに気がついたとき、初めてあなたに出遇えるということがある。
あなたの優しさ、温もり、声。与えられていたものの大きさに気がつくことができるのは、たいてい失ってから。でも、それでいいのだと思う。どんなに大切な人でも、不平不満がないわけではない。不平不満をお互いに持ちつつも、人間関係を築いてきた。だから、別れの後にこそ与えられていたものの大きさを感じられるのではないか。出会いと別れがひとつの事柄であるように、喪失と与えられているということもひとつの事柄。
出会いによって育てられ、別れによって与えられていたものの大きさに気がつく。そのような気づきが、人生を深めてゆく。

失うとは与えられていること
「失う」ということは、死別に限った話ではない。
同じ想いを抱いていた友と、こころが離れること/大切な物を無くすこと/充実して過ごしてきた時間も、時を経て次に進まねばならなくなるときがくること/今までできていたことが徐々にできなくなること/居るだけでこころ安らいだ空間が、姿形を変えてしまうこと・・・
思い返してみると、私は、さまざまなものを失いながら生きてきた。でも、それだけ大きなものを与えられながら生きてきたということの裏返しでもある。
喪失感だけが積もるならば、人はその淋しさから抜け出せず、生きる力までも失ってしまうことだろう。けれど、生きている。生きていける。そこには、私を生かす大きなはたらきがあるから。
大きなはたらきに照らされ、包まれ、支えられてある いのち。その支えなくして、どうして私が生きられるだろう。その大きなはたらきを阿弥陀という。

懺悔(さんげ)と讃嘆(さんだん)
「終活」で、自身の葬儀の準備をしている人が、その理由として「残された人に迷惑をかけたくないから」と言う。
淋しい響きを感じる。私が死んだ後、迷惑をかけるかもしれない人々とは、私の人生において関係を築いてきた人々。ということは、お互いに迷惑をかけ合いながら生きてきたということ。あなたが、残される人々のことを心配するように、残される人々もあなたのことを心配している。「寒くなってきた、元気でいるかな」「具合が悪いところはないかな」「ご飯ちゃんと食べているかな」と。
目に見えない大きなはたらき(阿弥陀)に照らされて、目に見える形でも支えられてある私。それなのに、与えられているものの大きさに気づいて、手が合わさるということは なかなか難しい。
関係を築いてゆくなかで、自分の生きる姿を見つめることがあるならば、そこには懺悔と讃嘆があることと思う。
懺悔と讃嘆、分かりやすく言うならば反省と感謝。反省と感謝に目覚めたならば、「迷惑をかけてごめんね」「私のことを心配してくれてありがとう」という言葉が生じる。
「ごめんね」「ありがとう」が生じる人の周りには、人が集まる。そして、その人にもまた「ごめんね」「ありがとう」という言葉が生じるだろう。
人間関係は、「ごめんね」「ありがとう」、つまり懺悔と讃嘆あるところに築かれてゆく。
浄土真宗の教えの道場(寺)は、自分の生きる姿を見つめる場として大切にされてきました。教えを聞いて、良い人間になるのではない。私の今ある姿を照らし出してくれるのが教え。教えに聞き、自分の生きる姿を見つめていると、懺悔と讃嘆が生じてくる。お念仏「南無阿弥陀仏」は、懺悔と讃嘆と共に、私の口から称えられる。
自身の葬送のことで、残される人たちを困らせたくない気持ちは分かるけれど、それは残された者が考えること。それよりも、「あぁ、やっと死んだか。さんざん迷惑をかけられたよなぁ」と思われる生き方をするのか、「今までありがとう」と言われるような生き方をするのか。自身の生き方を見つめることが「終活」ではないだろうか。「終活」という表現もおかしくて、生き方を見つめる活動だから「生活」なのです。

   

掲示板の人形
Dsc_0435

掲示板に飾ってある今月の人形は、手作りのサンタさんです。ご近所のご夫婦からいただきました。「お寺さんにサンタさんの人形はどうかなとも思ったけど、寺報に絵を描かれている娘さんたちにさしあげたくて」と、いただきました。ありがとうございます。娘たちは大喜びです。長女は、デスクに飾って眺めていました。次女は、おままごとのように人形で遊んでいました。同じ人形をいただいても、遊び方はそれぞれなんだなぁと思いました。「12月の掲示板に飾っても良い?」と尋ねたら、「うん、いいよ」と喜んで言ってくれました。合掌している人形と一緒に飾らせていただいています。みんなちがってみんないい。バラバラでいっしょです

今年も西蓮寺寺報「ことば こころのはな」をお読みいただき、ありがとうございます。お読みくださる方がいるおかげで、ことばが生み出されます。
2019年もことばを大切に。「ごめんね」「ありがとう」に「南無阿弥陀仏」の響きあり。
(追記)
ブログは、年内まだ投稿するかもしれません。

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