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2018年12月 2日 (日)

2018年12月のことば

2018年も12月を迎えました。
「一年早かったね」「今年もあと一ヵ月だね」と、会話を交わします。でも、2018年、ここに至るまで、べつに時間の経過のスピードが上がったわけでもなく、330余日、一日一日誰もが過ごしてきました。
元日の一日も、12月に入って追われるように過ごす一日も、同じ一日。
あれほど汗かいてへばりながら過ごした夏の日も、寒さに震えて過ごす一日も、同じ一日。
今日という日を味わいながら生きていこう

   

2018年12月のことば

失ったものの大きさは
与えられていたものの大きさでもある

お育てをいただいています
私(副住職)が京都から西蓮寺に戻っておよそ25年。お寺での歩みは、そのまま門徒さんと歩んだ歴史でもある。幼少期から私を知っている人、京都から戻ってきた私を涙ながらに迎えてくれた人、叱咤激励くださった人・・・お育てをいただいてきたことを想う。
あるご夫婦が亡くなられました。昨年旦那さんが、今年奥様が亡くなられた。お二人には、幼い頃からお世話になりました。過日、奥様の納骨法要をお勤めした際、不意に涙がこぼれ、自分でもびっくりしました。想いを越えて、からだから自然にあふれました。それだけ大きな何かをいただいていたのですね。ありがとうございます。

出会いと別れはひとつの事柄
いのちあるものは、やがていのちを終えて往く。出会いと別れは別々のものではなく、ひとつの事柄。出会ったときに別れは始まっている。別れたときに、本当に出会えるということがある。あなたから与えられていたものの大きさに気がついたとき、初めてあなたに出遇えるということがある。
あなたの優しさ、温もり、声。与えられていたものの大きさに気がつくことができるのは、たいてい失ってから。でも、それでいいのだと思う。どんなに大切な人でも、不平不満がないわけではない。不平不満をお互いに持ちつつも、人間関係を築いてきた。だから、別れの後にこそ与えられていたものの大きさを感じられるのではないか。出会いと別れがひとつの事柄であるように、喪失と与えられているということもひとつの事柄。
出会いによって育てられ、別れによって与えられていたものの大きさに気がつく。そのような気づきが、人生を深めてゆく。

失うとは与えられていること
「失う」ということは、死別に限った話ではない。
同じ想いを抱いていた友と、こころが離れること/大切な物を無くすこと/充実して過ごしてきた時間も、時を経て次に進まねばならなくなるときがくること/今までできていたことが徐々にできなくなること/居るだけでこころ安らいだ空間が、姿形を変えてしまうこと・・・
思い返してみると、私は、さまざまなものを失いながら生きてきた。でも、それだけ大きなものを与えられながら生きてきたということの裏返しでもある。
喪失感だけが積もるならば、人はその淋しさから抜け出せず、生きる力までも失ってしまうことだろう。けれど、生きている。生きていける。そこには、私を生かす大きなはたらきがあるから。
大きなはたらきに照らされ、包まれ、支えられてある いのち。その支えなくして、どうして私が生きられるだろう。その大きなはたらきを阿弥陀という。

懺悔(さんげ)と讃嘆(さんだん)
「終活」で、自身の葬儀の準備をしている人が、その理由として「残された人に迷惑をかけたくないから」と言う。
淋しい響きを感じる。私が死んだ後、迷惑をかけるかもしれない人々とは、私の人生において関係を築いてきた人々。ということは、お互いに迷惑をかけ合いながら生きてきたということ。あなたが、残される人々のことを心配するように、残される人々もあなたのことを心配している。「寒くなってきた、元気でいるかな」「具合が悪いところはないかな」「ご飯ちゃんと食べているかな」と。
目に見えない大きなはたらき(阿弥陀)に照らされて、目に見える形でも支えられてある私。それなのに、与えられているものの大きさに気づいて、手が合わさるということは なかなか難しい。
関係を築いてゆくなかで、自分の生きる姿を見つめることがあるならば、そこには懺悔と讃嘆があることと思う。
懺悔と讃嘆、分かりやすく言うならば反省と感謝。反省と感謝に目覚めたならば、「迷惑をかけてごめんね」「私のことを心配してくれてありがとう」という言葉が生じる。
「ごめんね」「ありがとう」が生じる人の周りには、人が集まる。そして、その人にもまた「ごめんね」「ありがとう」という言葉が生じるだろう。
人間関係は、「ごめんね」「ありがとう」、つまり懺悔と讃嘆あるところに築かれてゆく。
浄土真宗の教えの道場(寺)は、自分の生きる姿を見つめる場として大切にされてきました。教えを聞いて、良い人間になるのではない。私の今ある姿を照らし出してくれるのが教え。教えに聞き、自分の生きる姿を見つめていると、懺悔と讃嘆が生じてくる。お念仏「南無阿弥陀仏」は、懺悔と讃嘆と共に、私の口から称えられる。
自身の葬送のことで、残される人たちを困らせたくない気持ちは分かるけれど、それは残された者が考えること。それよりも、「あぁ、やっと死んだか。さんざん迷惑をかけられたよなぁ」と思われる生き方をするのか、「今までありがとう」と言われるような生き方をするのか。自身の生き方を見つめることが「終活」ではないだろうか。「終活」という表現もおかしくて、生き方を見つめる活動だから「生活」なのです。

   

掲示板の人形
Dsc_0435

掲示板に飾ってある今月の人形は、手作りのサンタさんです。ご近所のご夫婦からいただきました。「お寺さんにサンタさんの人形はどうかなとも思ったけど、寺報に絵を描かれている娘さんたちにさしあげたくて」と、いただきました。ありがとうございます。娘たちは大喜びです。長女は、デスクに飾って眺めていました。次女は、おままごとのように人形で遊んでいました。同じ人形をいただいても、遊び方はそれぞれなんだなぁと思いました。「12月の掲示板に飾っても良い?」と尋ねたら、「うん、いいよ」と喜んで言ってくれました。合掌している人形と一緒に飾らせていただいています。みんなちがってみんないい。バラバラでいっしょです

今年も西蓮寺寺報「ことば こころのはな」をお読みいただき、ありがとうございます。お読みくださる方がいるおかげで、ことばが生み出されます。
2019年もことばを大切に。「ごめんね」「ありがとう」に「南無阿弥陀仏」の響きあり。
(追記)
ブログは、年内まだ投稿するかもしれません。

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