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2018年11月

2018年11月 7日 (水)

ぼくが他人に与えた苦しみ

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ひとつだって無駄にしちゃぁいけないんですよと、
ぼくらは子供のころ、
くりかえして言われたものだ。
それはパンとか蠟燭のことだった。
今、ぼくらが無駄にしてはいけないのは、
ぼくが味わった苦しみ、
ぼくが他人に与えた苦しみだった。
フランソワ・モーリヤック 『ありし日の青年』より)

フランソワ・モーリヤックの文章を教えていただいたのは、遠藤周作さん(の本)から。

この言葉を読んだ時、思わず「これだな」と思った。私の会得したものがそのままここに書かれていると知ったからである。 ひとつだって無駄にしちゃいけない---と言うよりは、我々の人生のどんな嫌な出来事や思い出すらも、ひとつとして無駄なものなどありはしない。無駄だったと思えるのは、我々の勝手な判断なのであって、もし神というものがあるならば、神はその無駄とみえるものに、実は我々の人生のために役に立つ何かをかくしているのであり、それは無駄どころか、貴重なものを秘めているような気がする。これを知ったために、私は「かなり、うまく、生きた」と思えるようになった。 (遠藤周作 『生き上手 死に上手』より)

遠藤周作さんの本を読んだとき、思わず「これだな」と、私は想った。

2018年11月 6日 (火)

西蓮寺報恩講2018

2018年11月5日(月) 西蓮寺報恩講厳修
曇ったり、雨が降ったり、時折晴れ間がのぞいたり・・・。不安定な天候の中、報恩講に参拝くださいまして、ありがとうございます。
10月7日に長女が得度したため、そのご報告もさせていただきました。
長女、報恩講にて初出仕。
40分ほどの読経を勤め、「足しびれてないかな。立って歩けるかな」などと心配していましたが、スッと立って所定の位置で御俗姓を拝聴していました。あれ、すごいな!と感心してしまいました。
法友が増え、頼もしく、嬉しく思いました。有り難い報恩講でした。南無阿弥陀仏

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11月6日(火)
ここ一ヵ月調子が悪く、時折微熱も続いていた。咳も止まらない。
世田谷区の特定検診をまだ受けていなかったので、10月末に受診。6日、報恩講の片付けを終えてから、検診の結果を聞きに病院へ。
以前 肝臓を患ったことがあるので、また再発してるんじゃないかなと思っていました。
診察室へ入り、お医者さんの前へ座ると、「うん、どっこも悪くないね。血液もすべて基準値内、すばらしい! 大腸も肺も異常なし!! よかったですね」と、すっごく明るく言われました。
ホッとした反面、この調子の悪さはなんなんだ?とも。
まぁ、毎年この同じ時期にひいてる風邪なのだと思う。季節の変わり目、皆様もお気を付けてgood

2018年11月 1日 (木)

2018年11月のことば

2018年も11月に入りました。報恩講月間です。西蓮寺報恩講は11月5日。お仲間のお寺への出仕も数ヵ寺あります。報恩講の法話も3ヵ寺でさせていただきます。貴重なご縁をありがとうございます。
毎年家族でご本山の報恩講にお参りしていますが、今年は10月に長女の得度でお参りしたので、報恩講の参詣はなし。
季節の変わり目、風邪をひかないように注意しているのですが、今年も10月から風邪をひいてしまいました。これで3年連続。なんでだろう? 皆様もお気を付けてpaper

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2018年11月 掲示板のことば
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他者を認めるとは、
自己了解が変わっていくこと

ご都合主義的な自己責任論
シリアで3年以上に亘り拘束されていた安田純平さんが解放され、日本に帰国しました。なによりも先ず、生きて帰られたことにホッとしています。
ネット上では、安田さんに対するバッシングが目立ちます。「渡航禁止地域に行って捕まったのだから自業自得だ」「解放されるためのお金は税金だ。お前が払え」等々、自己責任論が渦巻いています。
身内や親しい友人ならば、「どれだけ心配かけたと思っているんだ」「お願いだから、もう危険な所へ行くのはやめてくれ」など、文句や懇願も出ることでしょう。けれど、安田さんに会ったことも話したこともない多くの人々が、「自己責任論」を投げつける現状に恐怖すら感じます。
思うのですが、ジャーナリストとは自己責任を感じながら勤まる仕事でしょうか。「このネタを取り上げたら、自分の命が(地位が、肩書きが)危ういことになる。どうせ自己責任を押し付けられるのならば取材することを、記事にすることをやめよう!」ということになるのではないでしょうか。
安田純平さんは、紛争地域での取材ゆえ、「行った人間が悪い」「捕まった人間が悪い」という自己責任論が噴出していますが、私たちが日頃見聞きする情報も、それを取材・報道する人のおかげで、私たちが知るところとなっています。ジャーナリストが、報道することと自己責任を天秤にかけ、自己責任を大事にしたならば、私たちは自分たちが住む地域の出来事、国のたくらみ、世界の動きを知ることができなくなります。或いは、私の苦しみを伝えてくれる人もいなくなってしまいます。
他者への自己責任の押しつけは、自分への不利益となって還ってきます。

さて、直接関わりのない第三者には厳しく自己責任を押し付けますが、身内には甘いようです。
「会社の小切手をなくしてしまった」「会社のお金を使い込んでしまった。○時までにお金を返さないと会社をクビになる」「彼女を妊娠させてしまった」等々、オレオレ詐欺の常套句ですが、そこで「あっそう、自己責任だから自分で何とかしなさい!」と言い放つことができれば、オレオレ詐欺の被害も少しは減っていることでしょう。
身内の危機には、なかなか自己責任は適用されないようです。

独生独死独去独来
他者に自己責任を押し付ける前に、考えてみたいことがあります。

『仏説無量寿経』というお経に、
独生(どくしょう)独死(どくし)独去(どっこ)独来(どくらい)
「人は、独り生まれ、独り死し、独り去って、独り来る」とあります。
人は、生まれるのもひとりならば、死ぬときもひとりである、と。
また、
身自當之(しんじとうし) 無有代者(むうたいしゃ)
「身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」ともあります。
我が身に起きることは、誰にも代わってもらうことはできない。すべて我が身で引き受けねばなりません、と。
生まれるのもひとり、死ぬのもひとり。我が身の人生は、私自身が生ききらねばならない。
お釈迦さまの言葉が、厳しく、あるいは淋しく聞こえるかもしれません。けれど、人間の、いのちを生きる者の真実の姿です。
誰もが皆、私を生きるという責任がある、と聞こえてきます。責任は、「とる」ものではなく「ある」ものといただいています。
「独生 独死 独去 独来」という言葉で言い表されている「独り」とは、個々のことでもあり、みんなのことでもあります。独りのことでありながら、みんなのこと。矛盾しているようで、矛盾していません。
このような「独り」の感覚は、「共に」生きているということを意識させます。

わかる ことは かわる こと
LGBTの方々への偏見や差別が甚だしい世の中です。同性愛や、自分の理解を超えた性の思考を認め難い人が多いのでしょう。
自分の思考とは合わない人や事柄を認めるということは難しいことです。けれど、認められないのは自分自身の問題であって、他者の責任ではありません。にもかかわらず、認められないことが他者への攻撃に向いてしまっています。「自己責任論」も、認められない他者への攻撃なのでしょう。
「多様性を認めよう」という言葉を耳にします。多様性を認め合うこと自体は素晴らしいことです。しかし、自分自身は何も変わらずに、「あぁ、そういう人も(そういう考え方も)あるんだね」と上っ面だけの理解を示すのか。それとも、自分自身の想いがひっくり返されるのか。多様性を認めるということは、私の懐が広いから為せることではなくて、私自身が変わってゆくことです。
『わかる ことは かわる こと』という、養老孟司先生と佐治晴夫先生の対談本があります。
ただ単に「知る」ということは知識に過ぎず、「わかる」ということは、自分自身や周りの人に変化(「かわる」)をもたらす、と。「わかる」ということは「かわる」ことであるというやりとりがあります。
自分が頷ける範囲で他者を認めるというのは、本当に認めていることにはなりません。他者を知り、自分自身の想いが「かわる」。変化をもたらされる。自分にとっての常識がひっくりかえされる! 「わかる」ということには、そんな「かわる」ということがあるものです。
他者を認める、多様性を認めるというときに、「自分が正しい」というところに固執していては、認めるということはありえません。他者を認めるとは、他者を見る目が変わるのではなく、私自身がかわることなのです。

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掲示板の人形
11月恒例の親鸞聖人とお朋だちhappy01
鹿の人形は、10月に奈良に行ったときに買いました。
娘たちは、鹿せんべい欲しさに寄ってくる鹿に大興奮でしたheart04

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