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2018年9月

2018年9月 3日 (月)

2018年9月のことば

暑い夏でしたsun
まだ暑さは続くことでしょうが、日の暮れる時間が早まり、朝晩が幾分過ごしやすくなり、虫の音が聞こえてきました。季節は秋へ向かっていますね。そうなると勝手なもので、夏の暑さも名残惜しくなっても来ます。
この夏、皆様いかがお過ごしでしたか。体調はいかがでしょうか。私は、毎日ホウキを持って掃除をしていました。一日に何枚もTシャツを着替えていました。体が動いているので夏バテをしている認識はありませんでした。けれど、事務仕事が思うように手に付かず、夜は子どもたちと一緒に寝ていました(いつもは、子どもたちが寝静まってから事務仕事や執筆をしています)。妻から「それって夏バテよ」と言われて、「あ、そうなんだ!」と思いました。体は動いても、やる気が起きないのも夏バテの表われなのですね。この9月号の寺報も、8月30日になってやっと書き始めました(あ、それは毎月か)。
夏バテが続いている方もいることと思います。涼しくなって、これから体調を崩される方も出てくるかと思います。どうかご無理なく、体調と相談して日々の生活をお送りくださいjapanesetea

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 悲しむということが、心ここに非(あら)ずになっていないか

私たちは、本当に悲しんでいるのか?
 天災 事件 事故
 理不尽な出来事
 権力を持つ者の暴走
 弱い立場にある者への圧力
 他者(ひと)の人生を蹂躙し、高笑いする者 
 人は、権力を持つと間違う
 悲しみの多い世の中だ。どれだけの人が涙を流していることだろう。

この地球という限られた環境に、70億を越える人間が生き、それ以上のいのちが生きている。人と人とが生きているのだから、助け合うこともあれば、争い合うこともある。人類の歴史は、そのまま悲しみの歴史でもある。悲しい出来事の多さに、今更驚きもしない。
けれど、ふと感じた。「私たちは、本当に悲しんでいるのか?」

ネットやテレビや新聞を通して、世間で起きている出来事を知り、悲しい出来事に涙を流す。けれど、涙の後に来るものは、加害者に対する憎悪。人によっては、被害者へのバッシングということもある。あいつが悪い、こいつが悪い。いやいや被害者にも問題がある、など。
悲しみは、通過儀礼に過ぎないのか。悲しんでいるといっても、悲しんでいる自分に酔っているのではないか。

慈悲
「悲」という漢字は、「両の手で心を引き裂く」形を象(かたど)っている。
両の手で心を引き裂く痛みとは、どれほどのものだろう。つまり、それほどの痛みを伴うのが「悲しむ」ということ。それなのに、痛みを感じることもなく、誰が悪いだの、何が問題だの、事情も理由も経緯も背景も知らない者が他者を裁く。まるで心が無いかのようだ。
などと考えていたら、「心ここに非ず」ということばが見えてきた。
私たちの「悲」は、「心ここに非ず」。悲しんでいるに違いないのだけれど、悲しんでいるそのときに、心は他のことを考えている。
本来の「悲」、悲しむ主体というのは私ではない。「心ここに非ず」な悲しみ方しかできない私のことを、悲しんでいるはたらきがある。それを阿弥陀という。阿弥陀は、私のことを悲しんでいる。私は、阿弥陀から悲しまれている。
阿弥陀の悲しみは、心を引き裂く痛みがある。衆生(生きとし生けるもの)への慈しみがあるからこそ、その痛みにも耐えられる。「慈悲」は、阿弥陀のこころ。私は、その「慈悲」を受けている。

みんなマイノリティ(少数者)
昨今、「多様性を認め合おう」ということが声高に言われている。その通りだ。だからこそ思う。どうして「多様性を認め合おう」と、わざわざ言われなければならないのか。それは、多様性が認められていない現実があるから。
自分の性別をどう表現するか、誰を好きになるかなど、どうして批判されなければならないのだろう。どうしてそうしたことを表明することを「カミングアウト」と表現し、決意・決心を必要とさせるのだろう。
国籍にしても、ハーフやクォーターの方々がいじめの対象になったり、特異な目で見られたりする現実がある。けれど、文化・芸術・芸能・スポーツなどの世界で優秀な功績を残すと、途端に「日本人」に引き入れて、わが国の誇りとばかりに讃える。性的少数者の方に対しても同じ。多様性は認め難いが、功績や名誉は認めやすいらしい。
「多様性を認め合おう」とは、多数派が少数派を認めてあげようという話ではない。この世は多数派と少数派で分けられると勘違いしている人が多いけれど、個人個人みんな違う。言うなれば、みんながマイノリティ(少数者)。 地球という大きな世界に、多数派に 混じって少数派がいるのではない。一人ひとり自分の世界を持つ者が集まって、この地球に生きている。多様性を認めるとは、私自身が少数者であることを知ることから始まる。

悲しみのない世界
「悲しみのない世界」を望む声を聞くけれど、悲しみのない世界って、どんな世界だろう。
悲しみを生み出す事柄がなくなる世界なのだろうか? 人と人とが出会いの縁を結び、関係を築きながら生きているからには、悲しみを生み出す事柄はなくならない。
悲しみを生み出す事柄がなくならないのに、悲しみのない世界を望むということは、悲しみを感じなくなることを望むことになってしまう。つまり、 悲しみを感じない私になるということ。

何が起きても気にしない。
誰かが困っていても無関心。
何を見ても、こころ動かされない。
何を聞いても、こころに響かない。

それは果たして生きていると言えるのだろうか。それで人間と言えるのだろうか。

悲しみのない世界を望むよりも、
涙をボロボロ流し、
声を出して叫び、
目の前の人と抱きしめ合いたい。

悲しいことが悲しいのではない。悲しみを悲しみと感じない私となることが悲しい。心を持って、痛みを感じて悲しむ私でありたい。

掲示板の人形
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