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2018年8月

2018年8月10日 (金)

吾れ、日に三たび吾が身を省みる。

子どもたちのおもちゃや学用品が増えてきたし、もう自分の持ち物をいつまでも残しておいても仕方がないので、物置にある自身の持ち物の整理(断捨離happy01)。
手紙をまとめた箱が出てくる。現代(いま)はメールが当たり前のようになったけれど、学生時代の25年ほど前(四半世紀前かcoldsweats01)は、まだ手紙でやりとりしていた時代(時代だってcoldsweats02)。
懐かしい名前、見覚えのある字、既に亡くなられた先輩の達筆な字! 目に留った手紙を読み返していると、四半世紀ほど前のことが思い起こされます。しばし読みふける(片付けあるある)。
手紙の、ちょっとおかしい文面や乱れた文字に、「あれ、なんかあったかな?」「疲れてんのかな?」「大丈夫かな?」なんて心配したりしたものです。直接会った友もいるし、私の手紙を読んで連絡をくれた友もいたなぁ。みんな、どうしてるかなぁ。直筆の手紙なんてと笑われる、煩わしがられる時代だけれど、メールからは感じられない息づかいが、手紙にはあります。

そのうちの一通。孔子の弟子の曾子が書いた言葉。それだけが書かれたハガキが出て来ました。

吾れ、日に三たび吾が身を省みる。

人の為に謀りて忠ならざるか。

朋友と交わりて信ならざるか。

習わざるを伝うるか。

友が書き添えてくれた現代語訳には、
「わたしは毎日何度もわが身について反省する。
人のために考えてあげて、まごころからしてあげられなかったのではないか。
友だちと交際して誠実ではなかったのではないか。
よくおさらいもしないことを受けうりで人に教えたのではないか。」と。

私の態度が気になってハガキをくれたのか、
自分自身を問うてのハガキだったのかは分からない。
でも、大切なハガキ。
今になってこのハガキと出遇ったということは、何か意味があることに違いない。
ふと我が身を省みる。
物だけでなく、こころの断捨離(整理)も。

2018年8月 1日 (水)

2018年8月のことば

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罪障(ざいしょう) 功徳(くどく)の体(たい)となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳(とく)おおし
       親鸞聖人「曇鸞和讃(どんらんわさん)」

現代語試訳
私のなかにある罪や障り
罪や障りを抱える私であるからこそ
仏から功徳を与えられる身として
生きている
氷が大きければ
溶けたときの水の量も多い
それと同じように
大きな罪や障りの本体である私は
仏から多くの功徳をいただいている


2018年7月6日・26日
オウム真理教による一連の事件に関わる13人の死刑囚の死刑が執行された。3週間という短い期間で。日本においては法律で認められているとはいえ、人の手によって人を殺すということが、リアルタイムに行なわれた。衝撃・  無念・憤慨・恐怖・動揺・疑問・・・何も感じなかっただろうか? こころが動かされることはなかっただろうか?
死刑執行のボタンを押す刑務官は、その感触が残るという。その感触は、死刑が存置されている日本では、すべての人間が背負わなければならない感触だ。刑務官ひとりに背負わせるのではなく、「私もボタンを押した者のひとりである」という自覚が、果たしてあるだろうか。
そもそも、人が他者(ひと)を裁くということに無理がある。「私」は、果たして他者を裁けるような「私」だろうか? 裁ける「私」ではないのに、そのうえ他者のいのちを奪えるのだろうか?

人間のいのちを奪う生き物の1番は「蚊」だとのこと。年間約70万人超の人間が、蚊が媒介したウィルスによって死に至る。そして、2番目に多いのが  「人間」。年間約50万人弱。同じ種族どうしで殺し合う生き物は「人間」だけだと聞いたことがある。
今年の世界規模での猛暑。「人間は知能があるから、生きやすいように環境を変えることができる。そうして生きてきた」と語る学者がいた。地球誕生から46億年、原始生命の出現から40億年が経つという(諸説あり)。その歴史の中で、生命は、地球環境に適応するように姿形を変えてきた。適応できない生命は絶滅してきた。生命は、環境の変化に適応しながら成長するものなのだ。自分たちの都合に合わせて環境を変えようとするのは、地球に生きる生命体のすることではない。
人間は、同じ種族のいのちを奪う。人間は、環境に適応しようとするのではなく、人類に環境を適応させようとする。それらは、知恵があるゆえと言う者もいるが、果たしてそれが知恵のある生命体がすることなのだろうか。
人間の持つ罪や障りは、計り知れないほど大きい。必然、悲しみや苦しみも大きく深いものとなる。

本願海と群生海
本願海(ほんがんかい)
 阿弥陀の慈悲を、
 親鸞聖人は「海」に譬えられる。
 海のように広く、大きく、
 ほとりのない慈悲のこころ
 阿弥陀が私を想うこころ

群生海(ぐんじょうかい)
 私の中にある罪深さ、世への障りを、
 親鸞聖人は「海」に譬えられる。
 海のように深く、暗く、
 底の知れない欲望のこころ
 私が自分を見失っているこころ

正反対のものを、親鸞聖人は同じ「海」に譬えられている。
正反対と見ているのは、私の眼。罪や障りにあふれた私が、阿弥陀に救われるためには、そこに接点がなければならない。
蚊(にこだわるわけではないけれど)は、人間のことを、私たちが目にするような人間の形としては認識していない。蚊からすれば、人間はあまりに巨大すぎて、形としては認識できないらしい。 
阿弥陀の慈悲も、「計り知れない 罪障を持つ私のことを包みこんでくださるほど大きい」のであれば、その慈悲に気付くことは、誰もできないだろう。
阿弥陀の慈悲に気付き、温もりを感じ、涙を流し、生きる支えとしてきた人たちがいる。そのような人たちが、 阿弥陀の慈悲を語り、記し、生き抜いてくれたおかげで、「南無阿弥陀仏」の念仏が今、私にまで伝わっている。
そのためには、罪や障りが必要だった。罪障心が、阿弥陀の慈悲心に匹敵する大きさだからこそ、自身の罪障の大きさを自覚した人たちが、阿弥陀の慈悲を感得できた。親鸞聖人も同じ。
だからこそ親鸞聖人は、阿弥陀の慈悲と私の罪障を、同じ「海」に譬えられた。罪障の自覚は、阿弥陀の救済の自覚となる。

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掲示板の人形
ヤクルトスワローズ マスコット つばくろうhappy01
7月、神宮球場に試合を見に行ったら、無料配布していましたgood
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