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2018年7月

2018年7月18日 (水)

掲示板のことばアーカイブズ(34)

2010年(平成22年)

1月〔395/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」137〕
想いは響きあうもの。
もらうばかりでは「共感」とは言わない。

2月〔396/寺報138〕
求めたものが得られなくて苦しいのではない
すでに得ているのに求めるから苦しい

3月〔397/寺報139〕
今という 今こそ今が 大事なれ 大事の今が 生涯の今

4月〔398/寺報140〕
よう生まれてきたねぇ

5月〔399/寺報141〕
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6月〔400/寺報142〕
生死(しょうじ)を忘れるとき 生活は浮き
生死におびえるとき 生活は沈み
生死を凝視(みつめ)るとき 生活は一期一会に輝く

7月〔401/寺報143〕
老・病・死
 このあたりまえのことがただごとでないことを、
 身体から教えてもらう このごろ

8月〔402/寺報144〕
後世に残るこの世界最大の悲劇は
悪しき人の暴言や暴力ではなく、
善意の人の沈黙と無関心だ
   キング牧師

9月〔403/寺報145〕
前(さき)に生まれん者は 後(のち)を導き
後に生まれん者は 前を訪(とぶら)え
   道綽禅師 『安楽集』

10月〔404/寺報146〕
私の心の中にも「ありがとう」とお念仏の灯がともってくださる
   東井義雄

11月〔405/寺報147〕
やり直しがきくのが真宗だ!

12月〔406/寺報148〕
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
   親鸞聖人

2018年7月17日 (火)

掲示板のことばアーカイブズ(33)

2009年(平成21年)

1月〔383/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」125〕
汝、起(た)ちて 更に衣服(えぶく)を整うべし
   『仏説無量寿経(巻下)』

2月〔384/寺報126〕
おしえを聞いて そのように成ろうとするけれど
そのように成っていることを おしえに聞くのです

3月〔385/寺報127〕
井戸のポンプでも 動かしていれば そのうちに水が出てくる
面白くなくても にっこり笑っていると だんだんうれしい感情がわいてくる
   樹木希林

4月〔386/寺報128〕
過去のすべてを許します
現在のすべてを許します
未来のすべてを許します

5月〔387/寺報129〕
念仏者は 無碍(むげ)の一道なり
   親鸞聖人

6月〔388/寺報130〕
忙しいということは 怠けている証拠です
   安田理深

7月〔389/寺報131〕
一切の有情(うじょう)は みな食によりて住す
   『成唯識論』

8月〔390/寺報132〕
仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
   親鸞聖人

9月〔391/寺報133〕
浄土に往生するということは
ここで生きられるようになったということ
   信国淳

10月〔392/寺報134〕
川の向こうの紅葉がきれいだったので 橋を渡って行ってみた
ふりかえると さきまでいた所の方がきれいだった
  星野富弘

11月〔393/寺報135〕
顕微鏡で自分ばかり見ていたけれど、
望遠鏡で自分を見ると とても小さく見える。
自分しか見えないと、世界が見えないんです。
   姜尚中

12月〔394/寺報136〕
身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし
   『仏説無量寿経(巻下)』

2018年7月16日 (月)

掲示板のことばアーカイブズ(32)

酷暑の中、皆様お盆のお参りお疲れ様でした。
まだまだ続く暑さ、おからだご無理ありませんように。
「掲示板のことばアーカイブズ」の投稿が、2007年分までで止まっていました。
アーカイブズを楽しみにしている方がいらっしゃって、お盆のお墓参りの際に「2008年以降もお願いします」と声をかけていただきました。ありがとうございます。

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2008年(平成20年)

1月〔371/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」113〕
あたりまえのことって ありがたいことの積みかさね

2月〔372/寺報114〕
涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味はわからない
   ゲーテ

3月〔373/寺報115〕
楽を求めて苦しみに陥る
苦しみを生きる中で楽しみに出遇う(であう)

4月〔374/寺報116〕
朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり

5月〔375/寺報117〕
生きていてたのしいと思うことの ひとつ
それは人間が人間に逢って 人間について話をするときです
   相田みつを

6月〔376/寺報118〕
苦悩を抱いている その一点で人間は尊い
   佐野明弘

7月〔377/寺報119〕
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ 災難をのがるる妙法にて候
   良寛

8月〔378/寺報120〕
誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
   親鸞聖人『教行信証』「行巻」より

9月〔379/寺報121〕
影が教えてくれるのは そこにある悲しみだけじゃない
うつむく顔を上げて振り返れば そこにある光に気付くだろう
   コブクロ「ここにしか咲かない花」より

10月〔380/寺報122〕
善い行いは よい報いがくるというよりも
善い行いをするところに 報いられている
   佐々木蓮麿

11月〔381/寺報123〕
海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西(フランス)人の言葉では、あなたの中に海がある。
   三好達治

12月〔382/寺報124〕
えらばず きらわず みすてず
   竹中智秀

2018年7月 9日 (月)

反省(懺悔)と感謝(讃嘆)を合わせ持っている人を「人間」といいます

2018年7月6日(金) オウム真理教元代表 麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の死刑が執行されたのを皮切りに6人の元幹部の死刑が執行される。

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昨晩(7月5日)、ご門徒のお通夜に車で20分で着いた斎場に、今日のお葬儀には1時間近くかかってたどり着いた。
渋滞に巻き込まれて少し焦り始めた頃、「麻原死刑囚の死刑執行」のニュースが入る。驚きと共に、胸騒ぎがした。
車を走らせること数分・・・
松本死刑囚の死刑が執行され、続いて井上嘉浩 早川紀代秀 中川智正 新実智光 遠藤誠一 土谷正実の死刑が執行されたとのニュース。

大学の先輩が、『「生きて罪を償う」井上嘉浩さんを死刑から守る会』に携われている。今年に入り、死刑が執行されるのではないかという気配が漂い初め、機関誌『悲』の発行作業を進められていました。
私は、死刑制度は公の殺人であると考え、ブログにも書いていました。また、“私”の持つ罪業性についても常々語っています。そんな私に先輩は声をかけてくださり、『悲』に原稿を書くご縁をいただきました。
私の原稿を含め、寄せられた原稿に目を通された井上嘉浩さんは、先輩宛に手紙を書かれました。(死刑囚は手紙を書くにも制限があります。)
その手紙の中に、原稿を寄せた人 一人ひとりの名前を書いて、「感謝しています」と書かれていました。その手紙を、先輩から写メで読ませていただきました。私の名前もありました。

「感謝しています」
井上さんと私との間の、最初で最後のやりとりです。

手紙に書かれた言葉ですが、まるで聞いた言葉であるかのように脳裏で繰り返されます。

感謝しています・・・感謝しています・・・感謝しています・・・

井上さんは、「感謝しています」と言い遺して、逝ってしまった・・・

私は、井上嘉浩さんを、殺してしまった。

「感謝しています」という気持ちを持っている人を、殺してしまった。

気がついたら、渋滞に呑み込まれた車の中で、嗚咽号泣していました。

次から次へと、死刑執行のニュースが入ってくる。

日本は、開けることがあっては絶対にいけない扉を開けてしまいました

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法を犯した人は相当の罰を受けて当然だと考える人は多いでしょう。
明白な考え方です。それを否定はしません。
けれど、
麻原彰晃死刑囚と6人の元幹部の死刑が、同じ日に続けて執行された。その準備は数日前から進められ、
死刑執行の前日には、同じ席で総理大臣と法務大臣がお酒を酌み交わしていた。
翌日の死刑執行の話題が出ないはずはない。
平成のうちに平成の事件のけりを付けたかったのではないか・・・などとまことしやかに噂されているが、それならば他の死刑囚にも、執行の足音は近づいていることになる。

権力者が、自分たちに都合の良いように法律を解釈し、制定し、
友人は厚遇して友人でない者は冷遇し、
街中には当たり前のように“防犯”カメラが設置され、
パソコンやスマホで見たもの買ったものがチェックされ、個人の思考・嗜好が把握されている世の中。
いつ誰がどのような理由で捕まるか分からない世の中になっています。
悪い考えをした奴が悪いんだ!と、権力者は高笑いしながらお酒を酌み交わすのでしょう。

情報が流れていたのか、流していたのか、
マスコミは、死刑の執行が分かっていたかのように報道を始めた。
執行された死刑囚の顔写真に「執行」のシールを貼り、
縁ある場所が「信者から神聖視されることが考えられます」なんて報道しておきながら、荼毘に付す火葬場の前でスタンバイしている。ここで火葬しましたよ!と分かるように。
イベント化し、矛盾し、伝えることを控えるべきことを声高に報道している。
報道されている内容は、視聴者の求めているものに応じているという側面もある。ということは、それを求めている私がいるということ。
自分は罰せられる側に立つことはない、という根拠のない自信が、テレビの向こう側とこちら側に大きな溝を作っている。

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東本願寺 「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」(2018年7月9日)

2018年7月 7日 (土)

2018年7月のことば

日本各地、大雨の警報が発令され、大雨による被害も出ています。被害が拡大しませんように。
1982年(昭和57年)に長崎の水害を目の当たりにし、ほんの少しの時間差で今にいのちを長らえさせていただいている身として、ここ数年毎年起る大雨の被害には、恐怖を感じています。どうか不要の外出はお避けください(と、言われながらも、避難所へ避難しなければならない状況にある方もいるわけで、無事を念じるばかりです)。

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他人と過去は変えられないが、
自分と未来は変えられる。
   エリック・バーン
(カナダ出身の精神科医)

痛みのない非難
「きょうよりかもっともっと あしたは できるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください」
少女の悲痛な叫びに涙しました。
どのようなニュースであろうとも、目を背けずに向き合おうと努めているけれど、このニュースはなかなか正視できませんでした。
どれだけの恐怖を、悲しさを、そして、親への愛を小さな胸に抱いていたことでしょう。

小さい人が虐待を受け、そしていのちを奪われる事件が報道されると、「虐待した親を許せない」「児童相談所は、警察は何をやっているんだ。救える命だったはずだ」「いつまでこんなことが続くのか」などという声を耳にします。
虐待した親に対し、怒りが湧き起こるのは当然です。しかし、「いつまでこんなことが続くのか」と悲しみながらも、児童相談所や警察の怠慢だと憎しみを込めて歎く。他人事として見ているに過ぎません。
児童相談所で働く方1人当りが担当する案件が何件くらいあるか・・・想像したことありますか?  とてもすべての子どもを、家庭をカバーできるものではありません。しかし、日夜懸命に努めていらっしゃいます。現に救われているいのちもあるはずです。
人は、ミスに対するバッシングは容赦なく浴びせますが、私たちの生活のために日々尽力されている人に対して、感謝のことばをかけることはしません。
虐待の報道に涙する人は多い。けれど、保育園や幼稚園の設立を拒む人もまた多い。拒むことがいけないと言っているわけではありません。それは当然の権利です。しかし、自分の身の回りの環境を整えるために、子どもやその親を疎ましく思いながらも、子どもが傷を負うニュースに涙する矛盾に気がついていますか? 痛みを感じていますか? 自分が犯している罪の深さを、 もっと背負ってもいいのではないでしょうか。
痛みのない非難が、他者(ひと)を苦しめています。悪循環を作っているのですから、いつまでもこんなことが続くことは自明のことです。

今ある私
いつの時代も、人の苦しみ悲しみが消えることはありません。人が他者を傷つける報道を目にするとき、私たちは真偽も分からぬ情報や数少ない情報を元に犯人捜しに興味を示し、容疑者が捕まると、容疑者のみならずその身内の者にまでもバッシングを浴びせて溜飲を下げています。
犯した罪は、決して償いきれるものではありません。罪を犯した者は、たとえ刑期を終えたとしても、背負い続けねばならない責任があります。
しかし、物事にはそうなるに至った経緯や背景があります。罪を犯すことにしても、経緯や背景があります。経緯や背景が生まれるには、さまざまな縁が重なりあっています。私たち一人ひとりも、決して無縁ではありません。

親鸞聖人のことばです
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」(『歎異抄』)
「そうあるべき縁がもよおしたならば、どのような行いもしてしまう」という教えを学び、「私も、縁がもよおせば何をしでかしてしまうか分かりません」と言う人もいますが、そのセリフは、起こり得ない前提として語っているようにも聞こえます。「いくら縁がもよおしても、私はそんな酷いことはしません」と。
「さるべき業縁のもよおせば」とは、これから先のことを言っているのではなく、今ある私のことを語っています。誰もが、縁によって私として生を受け、縁によって今の私として生きています。虐待した親も、虐待に恐怖する子も、救えなかったと悔やむ人も、他者を責めるだけの人も。みんな同じです。

未来は、この瞬間の延長線上にある
「いつまでこんなことが続くのか」という歎きは、本当は「何とかしたい」という叫びだと感じます。
悲しみを縁として、「何とかしたい」という叫びが私のこころの奥底から噴き出してきました。私の気持ちをそのように変えさせたのは、人の世の悲しみです。それならば、私が変わることによって人の世の悲しみを変えることができるのかもしれません。などと考えるのですが・・・
お釈迦さまの教えの根本は「縁起の道理」。「あらゆるいのち・物事・事柄は、縁によってつながっている」という教え。自然にそのようになっているということ。つまり、自分の意志で世の中を、他人を、自分自身でさえも、どうこうできるものではないのです。
ないのですが、人が他者を傷つける事件が相次ぎ、その度に自分を抜きにした他者批判が渦巻く世の中で、このままではいけない!と感じています。 私は、縁というつながりの中を生きる一人。他人事なことなどなにひとつなく、すべて当事者なのですから。

6月23日「沖縄慰霊の日」。相良倫子さん(沖縄県浦添市立港川中学校3年生)が自作の、平和の詩「生きる」を朗読されました。その一部です。

 

私は、今を生きている。
 みんなと一緒に。
 そして、これからも生きていく。
 一日一日を大切に。
 平和を想って。平和を祈って。
 なぜなら、未来は、
 この瞬間の延長線上にあるからだ。
 つまり、未来は、今なんだ。

未来は、この瞬間の延長線上にある。つまり、未来は、今。
未来のことを想うなら、今なんだ!

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掲示板の人形
6月23日は沖縄慰霊の日。
6月25日~27日 沖縄へ行ってきました。シーサーの色に惹かれました。
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