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2018年6月

2018年6月15日 (金)

英雄の報酬

日も経って、いろいろな事件が起き、既に記憶の片隅に追いやられていることと思いますが、ベランダから落ちそうな幼児を救出した青年の話がありました。彼の勇気・行動力をたたる気持ちに違いはない。けれど、こころの片隅にモヤモヤが引っかかっていました。「なにか気持ち悪い。なにか間違っている。なにか彼に対してとても失礼なことが起きている。なにか・・・」。
そんなときに師岡さんのコラムを読んで、私のモヤモヤを表現している!と思いました。
気づかぬうちに(いや、気づいているのか?)上から目線で他者(ひと)を評価している私。
目に見えぬところ、評価されぬところで一生懸命に生きている人々のことに思いを馳せることなく、その人々のおかげで楽になっている暮らしを享受している私。
私は、落ちそうなときに、いのちがけで助けてもらえるような人間だろうか?

「本音のコラム」 師岡カリーマ(文筆家)

英雄の報酬

 パリ。4階のベランダからぶら下がって今にも落ちそうな幼児を見るなり、アフリカのマリから来た青年は身の危険を顧みず、超人的な身軽さで外壁をよじ登って幼児の救出に成功した。その様子を撮影した映像は瞬く間に拡散し、マクロン大統領の目に留った。
 英雄とたたえられた「不法移民」に大統領は早速面会。感謝の印として滞在許可と市民権のスピード取得が約束された。
 青年の勇気を私もたたえたい。本人の夢でもあっただろうから、褒美の市民権も祝福したい。でもなんだか複雑だ。フランス国籍はマリ国籍より格上と見なされる不条理が、祝福の拍手に埋もれてしまうからだ。これがカナダ人や日本人なら、仏国籍進呈の必要はない。自明のことだが、経済難民の立場の弱さをこうもあっけらかんと肯定されると、やはり哀しい。「お眼鏡にかなって光栄ですが、お気持ちだけ頂いておきます」とは彼も言えない格差社会の現実。「ぜひ消防士に」という断りにくい就職内定までついてきて、人々はよかったねと喝采する。
 彼の場合はたまたま見物客の撮った映像が人の目に触れた。でも世の中には、誰もやりたがらない仕事を黙々とこなし、誰も見ていないところで人助けもし、底辺で社会を支えていながら、その労働を買いたたかれ、感謝もされない移民が大勢いる。それを思うと、やりきれない。
〔2018年6月2日(土)「東京新聞」朝刊より〕

2018年6月 9日 (土)

阿弥陀さまの元で遇えるね^^

6月9日 前坊守(祖母)50回忌の命日。
家族で本堂でお勤め。娘(祖母からするとひ孫)も「正信偈」をお勤めしてくれました。
ジィジバァバ(住職 坊守)も一緒に食卓を囲み夕食。子どもたちの要望でピザhappy01
「美味しいheart04」と言いながら、小学校での出来事を楽しそうに話す娘たち。
有り難い時間をもらってるんだなぁと感じました。

祖母は、47歳で癌のため亡くなりました。
今、私は47歳。おばあちゃんは、この年で世を去ったんだなぁ。
子どもたちをおいて、この世を去る。やっぱつらいなぁ。ピザを頬張る娘たちを見ていて、感傷的になりました。おばあちゃんも、心残りいっぱいいっぱいあっただろうな。
おばあちゃんに還浄のときが近づいていたとき、長男(西蓮寺現住職)は大学を終えて寺にいました。もう二十歳を越えていたわけですが、子どもが幾つであろうと、「安心して逝ける」なんてことはないでしょうね。父もまたつらかっただろうなぁ。
病床の母の前で、父と母(住職と坊守)は簡単な式を挙げました。そういう面ではホッとしたことと思います。でも、おばあちゃんは孫を見ることも抱くこともなく亡くなりました。私はおばあちゃんに会うこと叶いませんでした。

今年の「西蓮寺永代経法要」は、前坊守の50回忌と、15世住職(現住職は18世)の100回忌も合わせてお勤めしました。前坊守のことを覚えていてくださる門徒さんもお参りくださり、思い出話を伺って、会うこと叶わなかったおばあちゃんに出遇うことができました。ご法事を通して、亡き人に出遇うんですね。

いのちあるものは、いつかいのち終えて往く。当り前のことだし、避けられないこと。でも、その当たり前のことに抗いながら生きるのが人間。

大学の後輩が語ってくれたことを思い出します。
「先輩、蟻って、水たまりの中に落っこちると、必死で泳ぐっていうかもがくじゃないですか。僕ね、あれって人間の姿だと思うんですよ。たとえ阿弥陀さんに守られていると信じたって、泰然自若としてられるのではなくて、もがくんですよ。ジタバタジタバタ。それが他力の中で自力を生きるってことだと思います。蟻を見てて思いました」

私もそう思います。
ジタバタジタバタしたなかで、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すのです。
お念仏申しながら、ジタバタジタバタ生ききるのです。

平均寿命が80歳とか90歳といったって、その前に亡くなる人も大勢いるわけで、年を重ねるほどに自分の身体の衰えを感じ、近しい人の大病や死の話が日常になってきます。50手前にして、よりリアルに生老病死の身を生きていることを感じています。

おばあちゃんの話をできた夕食でした。おばあちゃん、乾杯winewine

2018年6月 1日 (金)

2018年6月のことば

2018年6月のことば

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なむあみだぶつ
 人の世の悲しみは尽きないけれど
 阿弥陀の慈悲は常に私を照らす

なみだ
「涙が枯れ果てて」ということばを耳にし、こころに引っかかっています。
溢れんばかりの涙をこぼし、いつまでも止まらぬ涙に衣服を濡らす。やがて嗚咽の声も小さくなり、あんなに溢れていた涙も流れることをやめる。

涙をこぼしたのはいつだろう。
なぜあんなに泣いたのだろう。

くるしいとき  
つらいとき
くやしいとき  
いたいとき
さみしいとき  
かなしいとき

自分の想いを誰にも理解してもらえないとき
自分のしでかしたことの罪の重さに押しつぶされそうなとき
「うれし涙」ということばもあるけれど、うれしさが表出する奥底には、堪え忍んできた苦しみや、歯を食いしばるほどの努力がある。

辛苦の涙と
歓喜の涙があるわけではなくて、
涙の源は悲しみ

「涙が枯れ果てて」という表現が耳の底に残ったのは、枯れ果てた涙はもう こぼれないのかといえば、そうではないから。「もう流す涙もない」「体中の水分が抜けるくらい泣いた」と思うほど泣いた。それほど泣いたのに、またあるときふと涙がこぼれる。
涙をこぼす。「こぼす」を漢字で書くと「溢す」。「溢」は「あふれる」という意味。涙は、あふれ出ているんだ。あんなに泣いたのにまだ涙が溢れ出る。泣けるって、人間って凄いな。

涙は、枯れ果てることがない。なぜならば、起きた出来事、起こした事柄が、こころに刻み込まれているから。人の世の悲しみは、尽きることがないから。
ここまで書くと「泣けない自分は冷たい人間ですか?」という声も聞こえてきそうだけど、そうではありません。
涙を多く流したから悲しんでいて、流さないから悲しんでいないわけではなくて。涙をこらえさせる大きな堤防はなんだろう。意地・世間体・憎しみ・・・堤防の正体はいろいろだけど、こころ揺さぶられる出来事が私の身に起きていることは事実。溢れんばかりの涙を流すこともあれば、からだの中に涙をためることもある。 どちらにしても、枯れ果てることのない涙が、私の内と外とで波打っている。

あわれというも中々おろかなり
「友だちの死が悲しくて、いつまでも泣いていたら、ある人から「あなたが泣き続けていたら、亡くなった友だちが悲しむから、泣いてはいけないよ」と言われました。泣いてはいけませんか?」
と尋ねられたことがあります。
「泣いていいんですよ。どれだけ泣いたっていい。悲しいときは泣きましょう」と応えました。
本願寺8世蓮如上人(1415~1499)が書かれた「白骨の御文」に、身内の死に際し、尽きることのない悲しみが描かれています。

(原文)
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。

(現代語試訳)
今、無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、呼吸は永遠に途絶えてしまいます。血の通った顔もはかなく色あせ、桃や李(すもも)のような瑞々(みずみず)しい美しさも失われてしまいます。無常の風が吹いたその時、家族や親族が集まり歎き悲しんでも、元気な姿を再び見せることはありません。
いつまでも悲しんではいられないと、火葬し、夜中、火も燃え尽きて煙が立ち昇る頃には、後にはただ白骨が残るばかりであります。悲しいというだけでは言い尽くせません。

かけがえのない人との別れは、悲しいというだけでは言い尽くせません。枯れ果てることのない涙が流れるのは、いつの世も変わりありません。

無明を照らす涙(ともしび)
涙は、感情の表出。自分でも分からなかった自分が見えてきます。自身に何事も起らなければ、誰もが自分の気持ちさえ分からずに、真っ暗な無明の闇を生きています。闇の中にいることすら気づかないままに。涙は、無明の闇を照らす、ほんの小さな明かり。一滴(ひとしずく)の涙が、今まで見えなかったものを照らし出します。無明を歩いていた私のこと。人の世の尽きせぬ悲しみ。人の世の悲しみをすべて受け止め、  救わんと願われた阿弥陀の慈悲。
人の世の悲しみと阿弥陀の慈悲。 親鸞聖人のことばが響いてきます。

無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
     (「正像末和讃」)

(趣意)人の世の悲しみにこころ痛めています。けれど、出口の見えない暗闇だと立ち尽くすことはありません。阿弥陀の慈悲の船・筏(いかだ)が私を乗せて、人の世の悲しみという大海を渡らせてくださいます。

涙は、人間がつくるいちばん小さな海。
みんな海でつながっています。

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