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2018年5月

2018年5月31日 (木)

心を動かされることから逃げるな!!

鈴愛(すずめ)、恋をしろ。

私がなぜお前を弟子にしたか分かるか? 楡野(鈴愛)は他の2人(のアシスタント)とは違う。山を駆け回っていた。そのリアルが重要だ。小宮やボクテとは違うんだ。あいつらの漫画の知識は深い。なぜだか分かるか?漫画ばかり読んだり描いたりしていたからだ。それではダメなんだ。
俺が「恋をしろ」と言うのは、そういうことだ。

リアルを拾うんだ。想像は負ける。
好きな奴がいたら、ガンガン会いに行け!
仕事なんか いつでもできる。
ベタなんか いつでも塗れる。
空想の世界で生きている奴は弱いんだ。
心を動かされることから逃げるな! そこには真実がある。

半端に生きるな。
創作物は人が試される。
その人がどれだけ痛みと向き合ったか、
憎しみと向き合ったか、
喜びを喜びとして受け止めたか・・・
逃げるな!

NHK 朝ドラ 「半分、青い。」 2018年5月30日放送分より
トヨエツ、いや、秋風羽織凄い!!
秋風先生のセリフに、かなり刺激を受けていますhappy01

2018年5月30日 (水)

到達することよりも出発すること、否、出発点に立っているという自覚

いろいろと経験して、習熟して、理解して、あるレベルに到達して・・・

ある意味本気で、ある地点に到達した私であることによって、人のためにあろうとしているのかもしれない

けれど、到達したところで、人に出会えない

人に出会えるのは、到達点ではなく、出発点

どこに進んでいいのか分からない

どこを目標とすればいいのか分からない

何から始めればいいのか分からない

分からないところから、共に(朋に)歩む一歩が始まる

2018年5月29日 (火)

意味を求めて、意味を見失う

生きる意味を求めて、
生きる意味を見失い、
迷いを深めている。
存在していることの前で、
意味が有るとか無いとか、
意味が無いのではないか。

2018年5月28日 (月)

群衆の中のひとり 個が集まって群衆

小学1年生の娘 
小学校の宿題は、ひらがなの練習。毎日1字か2字、20文字ほど書いてくること。

 あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ

 え え え え え え え え え え

 お お お お お お お お お お

 か か か か か か か か か か

 せ せ せ せ せ せ せ せ せ せ

 た た た た た た た た た た

 な な な な な な な な な な

 ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ

 の の の の の の の の の の

 め め め め め め め め め め

 ね ね ね ね ね ね ね ね ね ね

 れ れ れ れ れ れ れ れ れ れ

 わ わ わ わ わ わ わ わ わ わ

娘は毎日一生懸命宿題をやっている。上手に書けている。間違っていない。なのに、同じ字がたくさん並んでいて、○付けをしてあげていると、「あれ、この字あってる? うん、あってる あってる」と、なぜか不安になってくる。
試しに自分でも書いてみると、「あれ、この字あってる?」って不安になってくるから不思議。
お試しあれhappy01

似たもの同士の集団でも個々に個性はあるし、個性はあっても群衆の中では目立たなくなる。

2018年5月27日 (日)

口虚

ウソをつくと、ウソがウソを呼び、どんどん どんどん大きくなる。

ウソがどんどん大きくなると、関わる人間も増えてくる。

中には「このままでいいわけがない」「(ウソの言い出しっぺ)を困らせてやろう」などと考える人も出てくる(はずなんだけど・・・)。

人の口に戸は立てられない。数人を黙らせることはできたとしても、全員を黙らせることはできない(と、思うんだけど・・・)。

ウソをつくと、つかれた人も苦しいけれど、ついた本人こそ本当は一番苦しい(のになぁ・・・)。

ウソをつくと、自分でもそのうちウソだったんだか、ホントだったんだか訳が分からなくなることがある。

どれだけ塗り固めても、どれだけ優れたシナリオを書いても、どれだけ役者が揃っていたとしても、ウソは、ウソ。


口が虚しい。
口に虚しい。
口も虚しい。

2018年5月 8日 (火)

お育てをいただきました。ありがとうございます

2018年5月2日 絵本作家の かこさとし さんが亡くなられました(92歳)。
私が小さい頃は「だるまちゃん」シリーズをよく読んでいました。
娘たちは『からすのパンやさん』がお気に入りで、どれだけ読み聞かせしたことでしょう。
かわいい絵とストーリーの絵本だけでなく、風景を描いた緻密な絵も引き込まれました(絵巻仕立ての「かわ」は、見ていてワクワクします)。

2018年4月5日には高畑勲監督が亡くなられています(82歳)。
私の中での高畑勲監督作品といえば『火垂るの墓』です。
4月13日に追悼として放送されました。翌日までに仕上げなければならない仕事があったのですが、放送を見てしまいました。涙をポロポロこぼしながら。何度見ても、ストーリーに、節子の声に、ドロップの缶に涙腺が緩んでしまいます。
娘たちは、『平成狸合戦ぽんぽこ』が好きで、録画したものを何度も何度も見ています。つい、「また見てるの!」と言ってしまいますが、今度見ていたら、「どこが好き?」と聞いてみたいと思います。
長女が小さいときのヘビーローテーションは『パンダコパンダ』。ルパンの声の山田康雄さんがパンダコパンダ2作品ともに出ていて、懐かしいのと、ルパン以外の声もやってたんだ!(当然ですが)という驚きと、記憶に残る作品です。

自分自身の幼い時の思い出の一端と、そして子どもたちと一緒に楽しんだ作品を生み出してくださった方が亡くなられ、淋しいです。
けれど、子どもたちの元気な声が聞こえたときに周りの者をも元気にさせるエネルギー。そのエネルギーの根っこに、かこさとしさん 高畑勲さん の、子どもたちへの愛情が流れ続けることでしょう。
小さな人たちを敬う方々の姿に、私もお育ていただきました。

2018年5月 1日 (火)

2018年5月のことば

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人類は、生類の一部であるとき、はじめて人類たり得る。

生と死
かつて、ある場所で法話をした後の座談会での話。
「衛生状態の悪い国の人って、子どもをたくさん産むじゃないですか。どうしてあんなに産むんでしょう。産むべきでないと思うんだけど」と、語る人がいました。
私の法話に対しての感想・意見ではなかったので、私がその尋ねに応えることはしませんでした。けれど、私はこころの中で思いました。「それは、生きているからです」と。
帰宅して、座談会での声を妻に話すと、妻は「それは、死ぬからだよ」と話してくれました。同じことを考えているなぁと思いました。「生きているから」と「死ぬから」。表現は反対ですが、言わんとしていることは同じです。
衛生状態の悪い国は、政治状況や治安も良くはないことでしょう。そのような環境は、子どもを産み、育てるには適していないと、座談会で語られた方は考えたのでしょう。そんな気持ちも、分からなくはありません。しかし、いのちあるものは、子孫を残すことを第一に考えます。「考えます」という表現もおかしいですね。考えるまでもなく、計算するまでもなく、いのちとして、我がいのちを懸けて子孫を残します。そういう意味において、私は「生きているから」と思いました。
環境が落ち着いた場においては、死は非日常としてしか映りません。しかし、環境の良くない場では、死は日常です。いのちが、次から次へと絶えてゆく。死が日常にあるからこそ、子孫を残すことに必死になります。生類として当然必然の営みです。おそらく、そういう意味において妻は「死ぬから」と言ったのだと受け止めています。
しかし、「人間は、最も優れた生物である」とか「人間は、万物の長である」などという考え方に立ってしまうと、「子孫を残すために生まれてきたわけではないだろう」とか「より大切な使命があって生まれてきたはずだ」などと思い、「生類の一部である」ことを忘れてしまうことでしょう。そのことは結局、いのちの否定、人類の否定につながるのですが。

石牟礼道子さん
今月のことばは、今年2月10日に亡くなられた石牟礼道子さんと交流のあった若松英輔さんが、彼女の綴ったことばを受けて表現されたものです。若松さんの文章は続きます。
「しかし、人類は、いつしか生類とのつながりを自らの手で断ち切ったのではないか。」と。
 (参考「週刊金曜日」1178号 2018年3月30日発行)
石牟礼道子さんは、人間の極限的惨苦を描破した『苦海浄土』で水俣病を告発し、豊穣な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説の主題にすえておられました。
阿弥陀さまの浄土へ還られた彼女の眼を通すと、近代社会の人類は、生類とは切り離されてある。いや、生類から自ら切り離してあろうとした人類が、行く場を見失って放浪しているように見えていたのかもしれません。人類は、すでに人類たり得なくなっている、と。

反対言語=同義語
さて、「生きているから」と「死ぬから」は、表現は反対だけれど、言いたいことは同じであると書きました。その妻との会話のおかげで、「反対の意味の言葉は、同義である」という感得がありました。

たとえば「生」と「死」。
法話で、「生と死は、切り離して考えられる事柄ではありません。死を忌み嫌いながら生活していますが、生があっての死であり、死があってこその生です」などと話すのですが、そう言っていることが、「生」と「死」を違う事柄と認識して語っているように思いました。
懸命に生きることができる背景には死があり、死んで終わりではなく、死して後も、私として生きた瞬間(いのち)は、次のいのちとして生き続ける。
「生」と「死」は、見え方はまったく違うけれど、それは見る角度の違いなだけで、いのちの姿として違いなどありません。

たとえば「ありがとう」と「あたりまえ」。
法話における問いかけで、「“ありがとう”の反対は何だと思いますか?」という問いがあります。答えは「あたりまえ」です。
「ありがとう」は、「有り難う」と書きます。有ることが難い良い出来事が我が身に起きた。だから「ありがとう」と感謝の気持ちが湧いてきます。一方、「あたりまえ」は日常です。あって当然です。「あたりまえ」という気持ちに「ありがとう」という感謝は芽生えません。それゆえに、「ありがとう」の反対は「あたりまえ」なのです。
誰かのためを思ってしたことに「ありがとう」の一言がないとムッとしますよね(お礼を言ってもらうために為したわけではないのだけれど)。相手にしてみれば、「あたりまえ」なだけです。逆に、「ありがとう」を言われたとき、「え、あたりまえのことをしただけなんだけど」と、ビックリしたことはありませんか? それらを思い返してみると、「ありがとう」と「あたりまえ」は、決して反対の事柄というわけではなく、人によって表現が変わっているだけなのです。
食事を共にする家族。食事できることを「あたりまえ」のことと思っているけれど、食事の1回1回が「ありがたい」出来事です。悲しいかな、そのことに気づくのは、失ってから。「あたりまえ」が崩れたとき、「ありがとう」も一緒に崩れます。「ありがとう」も「あたりまえ」も同義です。
「あたりまえ」のそのときに、「ありがとう」を忘れずに!

「人類」と「生類」も、そもそも同義です。それなのに、いつの頃からか反対言語としてしまった。それゆえに、生類と切り離してあろうとした人類は、人類たり得なくなってしまいました。

セクハラやパワハラのニュースが、現代社会の様相をあぶり出しています。ハラスメントは、自分の優位性を保ちたいがために、他者を見下し、貶める行為です。性別や生まれや信仰する宗教等々、他者の尊厳を、自分には相容れないものとして考えています。つまり、他者を自分とは「反対言語」として捉えているのです。そのことは、自分自身の尊厳を自ら傷つけることになります。
他者と自分(私)を、「反対言語」ではなく「同義」として頷く。

私は、
他者と共にある中での一人であるとき、
はじめて私たり得る。

 banana banana banana

掲示板の人形
Dsc_0764
右は、昨夏 長崎のガラス細工屋さんで買ったステンドグラス製の「カブト」です。やっと飾るときがきましたhappy01
左は、「鯉に乗る少年」の陶磁器です。

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