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2018年4月

2018年4月20日 (金)

いつも ここにある いのち

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早いもので、4月も折り返してしまいました。暑くなったり、寒くなったり、着る物に困ってしまう気候ですね。体調も崩しやすいです。お元気でいらっしゃいますか?

4月19日(木) 西蓮寺永代経法要に向けた「おみがきの会」を開催しました。ご参加いただきました皆様、ありがとうございます。おかげさまで、綺麗になった本堂で永代経法要をお勤めすることが出来ます。
〔西蓮寺永代経法要 4月29日(日) 正午より 法話:白山勝久(西蓮寺副住職) ご参拝いただけます方は、コメント欄にメッセージをください〕

気候不順の折、今年は、桜の開花も早く、散るのも早かったですね。
桜だけではありません。山門入って右手の黄色い牡丹が咲いています。昨年は、まさに永代経法要に合わせて咲いたかのように、4月29日に満開だったのですが、10日以上も早くから咲いています。
境内のボタンも、シャクヤクも、ツツジも、ハナミズキも、みんな咲いてしまいました。かなり早い開花です。

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花は、確かに咲いたときに、「ボタンが咲いた」「シャクヤクが咲いた」「ツツジが咲いた」「ハナミズキが咲いた」「サクラが咲いた」と、そこに花が、木があることを認識します。
けれど、考えてもみれば、そこに一年中いてくれるのですよね。
お寺に来てくれるダスキンさんが、「サクラが咲くと、あ、ここにもあそこにもサクラがあったんだ!って気付きますね。いっつも見てるのにhappy01」と仰っていました。
花が咲いたときだけでなく、いつもそこにいてくれる。それなのに、気付かない私。花が咲いていなくても、サクラはサクラ、ボタンはボタンです。そこにあることの感謝を忘れずに生きたいものです。

花だけでなく、新緑の候、青葉も目にまぶしいです。
葉は、花を引き立てて下さっています。ツツジの花の、さまざまな色、とても美しいです。でも、その美しさは、葉があってこそ引き立っています。
「おみがきの会」も終り、みんなでお座敷でお昼ご飯を食べているとき、中庭に咲くツツジを見ながら感じました。
あ、新緑って美しいな。そんな気付きをいただけるのも、永代経のご利益でしょうか。

開花が早いの遅いの、(お花見に合わせて)いつ咲いてくれだの、散るのが早くて残念だの、勝手なことばかりですね。
花びらは散っても、花は死なない。形は滅びても、人(いのち)は死なない。ですねheart01

2018年4月 1日 (日)

2018年4月のことば

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咲いた花見て喜ぶならば
咲かせた根元の恩を知れ

花びらは散っても 花は散らない
春のお彼岸お中日に雪が降り、子どもたちが喜んで雪だるまを作っていました。そうかと思えば、お彼岸が明ける頃には気温も上がり、桜が開花し、瞬く間に散っていきました。
誰から教わるでもなく木々は芽吹き、花は咲きます。もっと愛でていたいという願いをよそに、花は散ってゆきます。だからといって木々や花々は死んでしまうわけではありません。一年後の同じ頃、誰に起こされるでもなく、また芽吹き、また咲きます。

私は、目に見えるものだけ、目に見えるところだけで物事を判断・評価してしまいます。けれど、目に見えている部分なんてほんの一部に過ぎません。春、私たちの目に映える桜。花があり、枝があり、幹があり、根があります。そして、大地があり、雨の恵みがあり、厳しい冬の寒さと春の陽光があって花が咲きます。桜の開花を喜ぶならば、花を咲かせるための縁や恩があることを忘れたくありません。
根元の恩だけでなく、さまざまな事柄が縁となり、恩となって支えています。散った花びらも、枯れ朽ち、大地に還り栄養となり、木々を育てます。そして一年後、花を咲かせます。いのちの循環です。

春彼岸中、玄関から庭を眺めていると、今年はやたらと鳥の鳴き声が聞こえてきました。庭を見回すと、松や白梅や百日紅(さるすべり)の幹の空洞から鳥が出入りしている姿が目に入りました。空洞が出来るほどの木々です。かなり年を重ねています。特に白梅は、これだけ幹ががらんどうになりながら、よく毎年こんなにも美しい花が咲くものだなぁと感動します。幹の空洞が、鳥たちの休息の場となっています。
根元の恩だけでなく、年を重ねた木々の空洞にも恩がありました。

形は滅びても 人は死なない
私が私となるために、どれだけの人びととの出会いがあったことでしょう。どれだけの書物やことばとの出会いがあったことでしょう。楽しいことも辛いことも含めてどれだけの出来事と遭遇してきたことでしょう。そのすべてが根となり、幹となり、私が私となりました。
私という花びらが散った後も、後を生きる人に何かを残し、新たな花が咲くものです。形は滅びても、人は死なない。

恩は普遍的
先に「目に見えるものだけ、目に見えるところだけで物事を判断・評価してしまいます」と書きました。けれど、果たしてどれだけ見えていることでしょう、どのように見えていることでしょう。
境内の掃除をしていると、「こんなところに木が植わってたっけ? こんな花が咲いてたっけ?」と思うことがあります。西蓮寺で何十年と生活させていただき、掃除をしてきたのに、未だにそんなことがあることが驚きであり、笑えることでもあります。
同じものを見ていても、人によって見え方・感じ方は違います。ある人にとって「かわいい」「きれい」に見えるものも、他の人には不快に見えることもあります。太陽や虹の絵を描いても、国や人によって、その色や色の数は違います。
自分の見え方・感じ方が正しいとは言い切れません。また、どこかに正解があるわけでもありません。見え方・感じ方は人それぞれ、千差万別です。でも、根元にある恩は普遍的なものです。
「咲かせた根元の恩を知れ」という、その「恩」とは、花を咲かせてくれた恩という意味ではなく、喜びの感情を与えてくれた「恩」ではないでしょうか。咲いた花を見て私は足を止め、喜び、感動し、いろいろと考えます。こころを揺さぶり、動かしてくれた恩。忙しさを理由に、花を見て感動するという余裕も失いがちです。感動や共感というこころの揺れを押し殺し、無表情な感情で日々を過ごしていませんか。喜怒哀楽という感情を持ち合わせているのです。こころの揺れや変化があってこそ、生きていると言えるのではないでしょうか。
こころを揺さぶり、動かしてくれるものから、私は「恩」をいただいています。

人生に必要な知恵は
3月、次女が幼稚園卒園式を迎えました。幼稚園卒園は人生で初めての別れの儀式ではないでしょうか。次女は、どのようなこころの揺れを感じたことでしょう。卒園に際し、幼稚園からいただいたロバート・フルガム氏のことばをご紹介致します。今の私の根元には、幼少期にいただいた恩がありました。

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』

人間、どう生きるか、
どのように振る舞い、
どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなければならないことを、私は全部残らず幼稚園で教わった。
人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。
私はそこで何を学んだろうか。

何でもみんなで分け合うこと
ずるをしないこと
人をぶたないこと
使ったものは必ず元のところに戻すこと
散らかしたら自分で後片づけをすること
人のものに手を出さないこと
誰かを傷つけたら、
ごめんなさい、と言うこと
食事の前には手を洗うこと
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと
焼きたてのクッキーと
冷たいミルクは体にいい
釣り合いのとれた生活をすること
―毎日少し勉強し、少し考え、
 少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、
 そして、少し働くこと。
毎日必ず昼寝をすること
表に出るときは車に気をつけ、手をつないで、離ればなれにならないようにすること。
不思議だなと思う気持ちを大切にすること。

ロバート・フルガム(池 央耿訳)

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